PRあり

論語の人物:端木賜子貢(たんぼくし・しこう)

弟子中最高の実務能力で中国全土を股にかけた大富豪の弁舌家

至聖先賢半身像「子貢」

国立故宮博物院蔵

略歴

BC520-BC446。姓は端木、名は賜、字は子貢、または同音同義の子贛。ただし「贛」には「貢」にはない、”おろか”の意がある。『史記』によれば衛国出身、孔子より31年少。

弁舌(言語)の才を孔子に評価された、孔門十哲の一人。外交官として、また商人として当時の世に知られ、おそらくは孔子一門の財政をも担った形跡が論語にはある。晩年は斉に移住し、宰相格を務めたという。

子 金文 貢 甲骨文
「子」(金文)・「貢」(甲骨文)

子貢のあざ名はどうして子貢なのだろうか。一つの仮説として、本姓名の端木と呼応したあざ名と思われる。子貢の貢は、『史記』貨殖列伝では「子コウ」と記し、「贛」”賜う”の初出は楚系戦国文字だが、殷墟第三期の甲骨文に「章ケキ」とあり、「贛」の意だとされている。詳細は論語語釈「貢」を参照。

『字通』贛字条

[形声]声符は貢(こう)。もとは夅(こう)に従う字であった。〔説文〕六下に「賜ふなり」という。孔門の端木賜は字は子貢、賜と貢と対待の字。貢の初文は贛に作り、〔漢石経〕には子贛に作る。字はもと夅に従い、神霊の下降を意味し、それで賜与の義がある。古く陷(陥)(かん)の音でよまれたらしく、〔書、顧命〕の〔馬鄭王本〕に「爾(なんぢ)釗(さう)(康王の名)を以て、非幾に冒贛(ばうかん)せしむること無(なか)れ」、〔馬融注〕に「贛は陷なり」とあって降陥の意とする。地名・人名にカンの音でよみ、おそらくその音が古いのであろう。また戇(とう)に通じ、戇愚の意に用いる。


※戇:愚直。

もう一つの仮説は、子「江」の語呂合わせではないかという説明だ。古代中国では、華北では大河を「河」ɡʰɑ(平)、すなわち黄河と呼んだのに対し、華南では「江」kŭŋ(平)、すなわち長江(揚子江)と呼んだ。黄河文明圏の魯国に生まれた孔子の語録である論語には、「江」がただの一字も出てこない。

孔子は生まれ育った華北だけでなく、亡命中は華中の陳・蔡国に滞在し、楚の昭王に会いに出掛けたが、王の死去で果たせなかったとされる。また川を渡ろうとして渡し場を地元の農夫に尋ねる話が論語微子篇6にあり、この話は楚国での出来事だという儒者や漢文業者がいる。

孔子の、楚の領域内にある大名だった葉公との対話は論語子路篇16に、子路が葉公への使いに出た話が論語述而篇16にあるが、ドロボーだろうと親子同士なら隠し合うものだと葉公に説教した論語子路篇18の話は後世の創作が確定している。

一方弟子の子貢は長江より南の越や、長江下流の呉に出掛け、政治工作を仕掛けている。

斉が魯を攻撃しようとすると、孔子は子貢に言った。「子貢よ、名を挙げるのはこの時だぞ!」そして子貢を斉に行かせた。子貢は南郭恵子のつてで田常に会い、呉を伐つように勧め、斉国門閥の高・国・鮑・晏氏が、田常が起こそうとしていた乱の邪魔を出来なくさせ、越に勧めて呉を伐たせた。三年の間に、斉は内乱、呉は亡国に向かってまっしぐら、殺された死体が積み重なった。この悪だくみを仕掛けたのは、他でもない孔子である。(『墨子』非儒下)

「江」kŭŋ(平)は「貢」kuŋ(去)と音が近い。「南方へ出掛けて何やらやらかした兄者」という呼び名が、存外子貢のあざ名の発祥かも知れない。

論語での扱い

政才商才ともに、弟子の中で抜きん出て優れていることがわかるが、孔子没後に派閥の長になったこともあり、おそらく魯に残った反対派の手によって、孔子からたしなめられる話がしばしば出る。また子路と同じく、孔子をややからかっている風な発言もある。しかし孔子を尊崇することもまた弟子中で抜きん出ており、孔子に対する弟弟子の批判を聞くと、自らたしなめていたことが伺える。

他の典籍での扱い

当時の有名人だけに、大量の言及が諸本にある。儒家では孔子の弟子には概して厳しかった荀子も、子貢の悪口は書いていない。墨子も儒家を大いに批判したが、子貢の人となりについては沈黙している。『荘子』には、貧窮した兄弟弟子の原憲子思を訪ね、世におもねっていると批判されて恥じたとある。『韓非子』では、炊き出しを行う子路を止める話の他、残酷な刑罰を見て廃止を孔子に訴える話が伝わる。

『史記』の記録では、大富豪として弟子列伝の他に貨殖列伝にも名を記されたほか、斉に攻められそうになった魯を助けるため、諸国を飛び回って獅子奮迅の働きをし、呉国に援軍を出させることに成功しているとも書く。その一方で越国をたきつけ、ついには呉を滅ぼす策を伝えたとも言う。孔子死去の際は葬礼を取り仕切り、礼法の倍、六年の間その墓の近くで喪に服したという。

孔子聖蹟図 治任別帰

「孔子聖蹟図」治任別帰。左の苫屋の人物が子貢。

これは子貢の師匠孝行を示すものではあるが、ただそれだけではあるまい。顔淵亡き後、孔子一門の政治工作を担ったのは子貢しかあり得ない。すぐにでも故郷の衛や大国斉で宰相が務まったような人物が、何を考えて六年も、師匠の墓のそばで過ごしていたのか。

呉国の後ろ盾を得て魯に帰国した孔子は、帰国の翌々年(BC482、哀公十三)に北伐中の呉が空き家を越に襲われて没落を始めると、魯の哀公と宰相の季康子から、俸給差し止め(論語衛霊公篇26)、門前払い(論語憲問篇22)などのイヤガラセを受けるはめになった。

ところが孔子の死去時に、哀公はうそ泣きをしてみせた。これが子貢を怒らた。

論語 子貢 怒り
哀公はこの魯では死ねないな。先生が言っていた、礼法が無ければ行動の原則が分からない。筋違いの名を付ければ何をしてもやり損なう。感情が礼法にかなっていないから原則が分からないのであり、感情から出任せを言うからやり損なうのだ、と。

先生の生前には仕事を与えないでおいて、亡くなってからあのような泣き言を言うのは、礼法にかなっていない。私一人が取り残され、だって? その言い方は周王だけの特権だ。ろくな死に方をしないぞ。(『史記』孔子世家)

子貢が服喪を終えたBC473(哀公二十二)、呉は越に滅ぼされた。以前より、子貢は越とつるんでいた記録がある。そもそも呉の滅亡のきっかけになったのは、子貢が越に「とりあえず思い上がらせておけ。呉の宰相のは賄賂を好むから、たらしこめ」と教えたからだ。

其後四年,吳王將北伐齊,越王句踐用子貢之謀,乃率其眾以助吳,而重寶以獻遺太宰嚭。


その後四年、呉王は軍を北上させて斉を伐ったが、越王勾践は子貢の献策を受けて、越の兵を援軍に出し、呉の宰相嚭に賄賂を贈って取り込んだ。(『史記』伍子胥列伝18)

そして孔子亡き後の魯国政界には、孔子を「おじさま」と慕った(論語為政篇6)、門閥家老の一角を占める孟武伯がいた。武伯は同世代ながら筆頭家老の季康子に頭を押さえられてイヤだったろうし、哀公と季康子のコンビが「おじさま」にした仕打ちに怒っていたはず。

孟武伯は春秋の貴族らしく、BC484(哀公十一)の斉国襲来には、孔門の冉有と並んで魯国軍を率い、前線で戦った(『春秋左氏伝』哀公十一2)。ところが季康子は戦場に出ず、他国への使者も怖がって行かず、代わりに子貢に行かせ、呉王に呆れられている(『春秋左氏伝』哀公七2)。

そして子貢が服喪を終えて5年が過ぎた。

BC468(哀公二十七)、大して用も無いのに越の使いが魯にやって来て、子貢・孟武伯と何やら相談した。「いよいよ時ですな。私がやるわけにはいきませんが。」武伯「いっそ呼びつけてやっちまったら?」「ま、お連れする用意は出来てますが。」

そして季康子が若死にした。孟武伯は哀公に無言の威圧をかけ、街角で出くわせたふりしてインネンをつけた。哀公が「わ…わしを殺す気か!」と怯えると、「知らねえよ」と一度だけ返事をし、「なんとか言ったらどうだ!」と三度わめいた哀公を黙ったまま睨み付けた。(『春秋左氏伝』哀公二十七2)

哀公はそのまま越国に逃亡、帰国できぬまま翌年死んだ。さて読者諸賢、21世紀初頭のロシアで、二代目大統領に「まともに死ねないぞ」と言われたロシア人が、その後変死したら裏に誰がいたと思われるか。そして子貢も二代目大統領も、特務の出身から一国の長になった。

哀公の逃亡はおそらく連行で、史料の裏を読むとは、こういうことをいうのである。

論語での発言

1

コラ! なんてこと言うんだ。先生は善良だから政権に就いたんだぞ。世の権力亡者とは違うんだ。たぶん。(学而篇)

2

貧乏でも卑屈でないのと、金持ちで威張らないのと、どっちがましですかね?(学而篇)

3

ヒツジがもったいない。(八佾篇)

4

私ってどの程度の出来なんですかね?(公冶長篇)

5

私ごときが顔回と比べるなんて…顔回は一を聞いて十を知り、私は二がせいぜいです。(公冶長篇)

6

されたくないことは、人にしたくない。(公冶長篇)

7

先生の話は、文系はよく聞いたが、理系はあまり聞かなかったし、分からなかったなあ。(公冶長篇)

8

孔文子どのってあんな人だったのに、なんでいい戒名貰ったんですかね?(公冶長篇)

9

民を食わせて守ってやれば、それで仁の出来上がり、ですかね?(雍也篇)

10

伯夷叔斉ってどんな人ですかね。…扇動はしくじる飢え死にはする、やるんじゃなかったって、ワラビと一緒に爪を噛んだんですかね?(述而篇)

11

はいはい、そりゃもうウチの先生は万能ですよ。天が味方してるんですな。(子罕篇)

12

この玉売りましょか、隠しましょか?(子罕篇)

13

子張と子夏って、どっちがデキます? …ああ、それじゃあ子張の方が上ですか?(先進篇)

14

緊縮財政には軍備削減? 次はメシを削れですって? ええっ! それじゃあみんな飢え死にしちゃいますよ。(顔淵篇)

15

残念ですなあ、あなたのお話は。君子が一旦言葉を出したら、四頭立ての馬車でも追いつかず、取り消せません。飾りより中身が重要ですって? 違いますね、飾りも中身の一部です。中身だって人に見えてしまえば飾りも同じです。例えばなめし革は、高価な虎や豹のでも、安価な犬や羊のでも、毛を抜いてしまえば同じでしょう?(顔淵篇)

16

世にサムライってほどのお人が居ますかね?(子路篇)

17

村人がみんなけなしてます。…ダメですか。じゃみんな褒めてます。…それもダメですか。(子路篇)

18

管仲って人でなしですかね。主人が殺されても見殺しにし、あまつさえ殺した殿様に仕えましたが。(憲問篇)

19

先生、それって先生のことじゃないですか。(憲問篇)

20

どうして先生が無名だって言うんです?(憲問篇)

21

ええ、ええ、そうです仰る通りですよ。そうじゃないんですか! 先生!(衛霊公篇)

22

生涯守るべきことを、たった一言で教えて下さい。(衛霊公篇)

23

先生がだんまりを決め込むなら、私如きが何を言えるっていうんです?(陽貨篇)

24

君子も人を嫌っていいですか?…ごもっとも。私も話の出鼻をくじいて得意がる奴、図々しさを勇ましさと勘違いした奴、人のいやがる話をして正直がる奴は嫌いです。(陽貨篇)

25

殷の紂王が暴君だったと言っても、世間が言うほど悪かったわけではない。だから君子は、そういうゴミためのような所を避ける。あること無いこと言われるからだ。(子張篇)

26

君子が間違いを起こすということは、日食や月食のようなもので、人は皆見る。改めると、皆が褒めそやす。(子張篇)

27

孔子先生に師匠がいたか、ですって? 師匠なんて要りません。周の開祖文王・武王の示した道は、まだ消え去らずに人の世に残っています。賢者はその中でもすばらしいものに気付けますが、凡人は下らぬものしか気付きません。それでも文王武王の道は、この世の隅々にまで、かすかであっても生き残っているのです。従って明敏な孔子先生は、この世のどこからでも道を学び取れるのです。となれば、決まった師匠がいなくても、全然困りはしないんです。(子張篇)

28

私を宮殿の塀に例えるなら、肩に届く程度の高さです。外から家中が修まっているのが見えるでしょう。しかし先生の高さは人二人分はあるでしょう。きちんと門から入らなければ、祖先祭殿の美しさや官吏たちの居並ぶ姿が見えません。しかしこの門から入ることは難しい。だから叔孫武叔どのが、先生より私が賢いと仰るのも、無理はないでしょうね、うふ。(子張篇)

29

おやめなさい。先生の悪口は言うだけ無駄です。世の賢者とは丘程度で、歩いて越えられますが、先生は月や太陽のようなもの、越える手立てはありません。しかもこちらで縁切りしたくても、相手は天体、痛くもかゆくもありません。悪口を言えば、却ってもの笑いになりますぞ?(子張篇)

30

コラ! なんてこと言うんだ。君子は言葉一つで評価ががらりと変わるぞ? 先生は天のようなもので、はしごの掛けようもないほど高い賢者だ。先生が一国の政治を執れば自由自在。自立させるも、導くも、安心させるも、和ませるも思いのままだ。先生あればこそ国は栄え、亡くなれば人々は悲しむ。私如きの及ぶ所ではない。(子張篇)

論語での記述

  1. 子禽問於子貢曰、「夫子至於是邦也、必聞其政、求之與。抑與之與。」子貢曰、「夫子溫、良、恭、儉、讓以得之。夫子之求之也、其諸異乎人之求之與。」(学而篇)
  2. 子貢曰、「貧而無諂、富而無驕、何如。」子曰、「可也。未若貧而樂、富而好禮者也」。子貢曰、「詩云『如切如磋、如琢如磨。』其斯之謂與。」子曰、「賜也、始可與言詩已矣。吿諸往而知來者。」(学而篇)
  3. 子貢問君子。子曰、「先行其言、而後從之。」(為政篇)
  4. 子貢欲去吿朔之餼羊。子曰、「賜也。爾愛其羊、我愛其禮。」(八佾篇)
  5. 子貢問曰、「賜也何如。」子曰、「女器也」。曰、「何器也。」曰、「瑚璉也。」(公冶長篇)
  6. 子謂子貢曰、「女與回也孰愈。」對曰、「賜也何敢望回。回也聞一以知十、賜也聞一以知二。」子曰、「弗如也。吾與女、弗如也。」(公冶長篇)
  7. 子貢曰、「我不欲人之加諸我也、吾亦欲無加諸人。」子曰、「賜也、非爾所及也。」(公冶長篇)
  8. 子貢曰、「夫子之文章、可得而聞也。夫子之言性與天道、不可得而聞也。」(公冶長篇)
  9. 子貢問曰、「孔文子、何以謂之文也。」子曰、「敏而好學、不恥下問、是以謂之文也。」(公冶長篇)
  10. 季康子問、「仲由可使從政也與。」子曰、「由也果、於從政乎何有。」曰、「賜也可使從政也與。」曰、「賜也達、於從政乎何有。」曰、「求也可使從政也與。」曰、「求也藝、於從政乎何有。」(雍也篇)
  11. 子貢曰、「如有博施於民、而能濟衆、何如。可謂仁乎。」子曰、「何事於仁、必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬、可謂仁之方也已。」(雍也篇)
  12. 冉有曰、「夫子爲衞君乎。」子貢曰、「諾、吾將問之」。入曰、「伯夷叔齊、何人也。」曰、「古之賢人也。」曰、「怨乎。」曰、「求仁而得仁、又何怨。」出、曰、「夫子不爲也。」(述而篇)
  13. 大宰問於子貢曰、「夫子聖者與。何其多能也。」子貢曰、「固天縱之將聖、又多能也。」子聞之曰、「大宰知我乎。吾少也賤、故多能鄙事。君子多乎哉。不多也。」(子罕篇)
  14. 子貢曰、「有美玉於斯、韞櫝而藏諸。求善賈而沽諸。」子曰、「沽之哉。沽之哉。我待賈者也。」(子罕篇)
  15. 子曰、「從我於陳蔡者、皆不及門也。」德行、顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語、宰我、子貢。政事、冉有、季路。文學、子游、子夏。(先進篇)
  16. 閔子侍側、誾誾如也。子路、行行如也。冉有、子貢、侃侃如也。子樂。「若由也、不得其死然。」(先進篇)
  17. 子貢問、「師與商也孰賢。」子曰、「師也過、商也不及。」曰、「然則師愈與。」子曰、「過猶不及。」(先進篇)
  18. 子曰、「回也其庶乎、屢空。賜不受命、而貨殖焉。億則屢中。」(先進篇)
  19. 子貢問「政」。子曰、「足食、足兵、民信之矣。」子貢曰、「必不得已而去、於斯三者何先。」曰、「去兵。」子貢曰、「必不得已而去、於斯二者何先。」曰、「去食。自古皆有死、民無信不立。」(顔淵篇)
  20. 棘子成曰、「君子質而已矣、何以文爲。」子貢曰、「惜乎、夫子之說、君子也、駟不及舌。文猶質也、質猶文也。虎豹之鞹、猶犬羊之鞹。」(顔淵篇)
  21. 子貢問「友」。子曰、「忠吿而善道之、不可則止、毋自辱焉。」(顔淵篇)
  22. 子貢問曰、「何如斯可謂之『士』矣。」子曰、「行己有恥、使於四方、不辱君命。可謂『士』矣。」曰、「敢問其次。」曰、「宗族稱孝焉、鄕黨稱弟焉。」曰、「敢問其次。」曰、「言必信、行必果、硜硜然、小人哉、抑亦可以爲次矣。」曰、「今之從政者何如。」子曰、「噫。斗筲之人、何足算也。」(子路篇)
  23. 子貢問曰、「鄕人皆好之、何如。」子曰、「未可也。」「鄕人皆惡之、何如。」子曰、「未可也。不如鄕人之善者好之、其不善者惡之。」(子路篇)
  24. 子貢曰、「管仲非仁者與。桓公殺公子糾、不能死、又相之。」子曰、「管仲相桓公、霸諸侯、一匡天下、民到于今受其賜。微管仲、吾其被髮左衽矣。豈若匹夫匹婦之爲諒也、自經於溝瀆、而莫之知也。」(憲問篇)
  25. 子曰、「君子道者三、我無能焉、仁者不憂、知者不惑、勇者不懼。」子貢曰、「夫子自道也。」(憲問篇)
  26. 子貢方人。子曰、「賜也、賢乎哉。夫我則不暇。」(憲問篇)
  27. 子曰、「莫我知也夫。」子貢曰、「何爲其莫知子也。」子曰、「不怨天、不尤人、下學而上達、知我者、其天乎。」(憲問篇)
  28. 子曰、「賜也、女以予爲多學而識之者與。」對曰、「然、非與。」曰、「非也、予一以貫之。」(衛霊公篇)
  29. 子貢問爲仁。子曰、「工欲善其事、必先利其器。居是邦也、事其大夫之賢者、友其士之仁者。」(衛霊公篇)
  30. 子貢問曰、「有一言而可以終身行之者乎。」子曰、「其恕乎。己所不欲、勿施於人。」(衛霊公篇)
  31. 子曰、「予欲無言。」子貢曰、「子如不言、則小子何述焉。」子曰、「天何言哉。四時行焉、百物生焉、天何言哉。」(陽貨篇)
  32. 子貢曰、「君子亦有惡乎。」子曰、「有惡、惡稱人之惡者、惡居下流而訕上者、惡勇而無禮者、惡果敢而窒者。」曰、「賜也亦有惡乎。」「惡徼以爲知者、惡不孫以爲勇者、惡訐以爲直者。」(陽貨篇)
  33. 子貢曰、「紂之不善、不如是之甚也。是以君子惡居下流、天下之惡皆歸焉。」(子張篇)
  34. 子貢曰、「君子之過也、如日月之食焉。過也、人皆見之。更也、人皆仰之。」(子張篇)
  35. 衛公孫朝問於子貢曰、「仲尼焉學。」子貢曰、「文、武之道、未墜於地、在人。賢者識其大者、不賢者識其小者、莫不有文、武之道焉。夫子焉不學。而亦何常師之有。」(子張篇)
  36. 叔孫武叔語大夫於朝、曰、「子貢賢於仲尼。」子服景伯以吿子貢。子貢曰、「譬之宮牆、賜之牆也及肩、闚見室家之好。夫子之牆數仞、不得其門而入、不見宗廟之美、百官之富。得其門者或寡矣。夫子之云、不亦宜乎。」(子張篇)
  37. 叔孫武叔毀仲尼。子貢曰、「無以爲也、仲尼不可毀也。他人之賢者、丘陵也、猶可踰也。仲尼、日月也、無得而踰焉。人雖欲自絕、其何傷於日月乎。多見其不知量也。」(子張篇)
  38. 陳子禽謂子貢曰、「子爲恭也、仲尼豈賢於子乎。」子貢曰、「君子一言以爲知、一言以爲不知、言不可不愼也。夫子之不可及也、猶天之不可階而升也。夫子之得邦家者、所謂『立之斯立、道之斯行、綏之斯來、動之斯和。其生也榮、其死也哀』。如之何其可及也。」(子張篇)

コメント

タイトルとURLをコピーしました