略歴
BC512 or BC502-?。姓は澹台、名は滅明。『左伝』によると字は子羽。『史記』によると魯国武城の出身、孔子より39年少。『孔子家語』によると49年少。論語に一カ所、伝聞の形で名が載るのみで、何をしたか全く分からない。そもそも実在さえ危ぶまれる謎の人。
論語での扱い
登場は雍也篇に一カ所のみ。武城の代官として赴任することになった子游に、孔子が「誰かを得たか?」と問うて、「有澹臺滅明者,行不由徑。非公事,未嘗至於偃之室也。」と答えたのがそれ。しかしこの伝統的な読みには疑問がある(論語雍也篇14の語釈参照)。
「澹臺滅明」を人名だとすると、「澹臺滅明という者がおりまして、道を行く時は早道を行かず、公務でなければ、まだ私の部屋に入ったこともありません」となる。
ところが。
「澹臺」は他に例を見ない珍しいファミリーネームだが、まあ”洪水などに備えた高台”という意味だからあり得なくもない。しかし「滅明」は、”視力や知性を失わせる”という意味だから、後世の禅坊主じゃあるまいし、こんあのあり得るか? というわけ。
そこで人名でないとすると、「高台に登っても見通しが利かないのは、真っ直ぐな方法を取らないからで、公務にあってはならないことです」となる。
他の典籍での扱い
「澹臺滅明」を人名だと解した儒者が、それぞれに想像して書いているが、一致して「見てくれが悪く、はじめ孔子はバカにしたが、人格が高潔だったので見直した」という。
「人格が高潔」というのは論語の伝統的な読みのコピペだし、孔子がうんぬんは、弁舌は出来たが人でなしだ、と宰我をこき下ろすためのダシとして使われている。やはり子貢が言うように、君子たる者ゴミ溜めに落ちると大変な目に遭う。
史書では『左伝』哀公八年(BC487)に一カ所記述が有るが、残念なことに本人ではなく、「澹臺子羽の」父親が攻め込んできた呉軍に内通したという噂が出た、という話。だから「澹臺滅明」=「澹臺子羽」とは実は言えないわけで、ここからも実在が危ぶまれるし、そもそも「武城出身だ」と言い始めたのは、『左伝』のこの記事が膨らんだラノベかも知れない。
中国の儒者も「なんか変や」と思ったらしく、明代の笑い話集『笑府』巻二·趂船にこうある。
ある僧が儒学生と狭い船に同船した。儒学生は僧をバカにして、のびのびと寝転んだ。僧は脚をすくめて避けた。いくぶん過ぎて僧が問うた。
「儒者の先生、堯舜というのは一人でしょうか二人でしょうか。」
「何を言ってるこのクソ坊主。一人に決まっている。」
「…では拙僧もチト、脚を伸ばしましょうかね。」
あるいはこう聞いた。
「澹臺滅明は一人でしょうか二人でしょうか。」
考古学的発掘では、「紀元前三百年頃までには成立したと推定される」『上海博物館蔵戦国楚竹書』に「君子為礼」という文書があり、子貢と子羽が「孔子と鄭の宰相子産のどちらが賢人であるかという内容の問答を行っている」という。また同竹簡の「弟子問」にも、子羽が登場するらしい(湯浅邦弘「漢代における『論語』の伝播」)。
原文を参照していないので何とも言いがたいが、「子羽」とあって「澹臺滅明」とは書いていない。やはり実在の人物ではなさそうだ。
論語での発言
当然ながら無し。
論語での記述
- 子游為武城宰。子曰:「女得人焉爾乎?」曰:「有澹臺滅明者,行不由徑。非公事,未嘗至於偃之室也。」
論語の人物・付記
後世の絵師も困ったようだ。子夏+樊遅=澹臺滅明?
よろしければ澹臺滅明(たんだいめつめい)は実在の人物ではない?もどうぞ。
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