『墨子』非儒下篇:現代語訳

『墨子』原文

孔丘之齊見景公,景公說,欲封之以尼谿,以告晏子。晏子曰:「不可夫儒浩居而自順者也,不可以教下;好樂而淫人,不可使親治;立命而怠事,不可使守職;宗喪循哀,不可使慈民;機服勉容,不可使導眾。孔丘盛容脩飾以蠱世,弦歌鼓舞以聚徒,繁登降之禮以示儀,務趨翔之節以觀眾,博學不可使議世,勞思不可以補民,絫壽不能盡其學,當年不能行其禮,積財不能贍其樂,繁飾邪術以營世君,盛為聲樂以淫遇民,其道不可以期世,其學不可以導眾。今君封之,以利齊俗,非所以導國先眾。」

公曰:「善!」於是厚其禮,留其封,敬見而不問其道。孔丘乃恚,怒於景公與晏子,乃樹鴟夷子皮於田常之門,告南郭惠子以所欲為,歸於魯。有頃,閒齊將伐魯,告子貢曰:「賜乎!舉大事於今之時矣!」乃遣子貢之齊,因南郭惠子以見田常,勸之伐吳,以教高、國、鮑、晏,使毋得害田常之亂,勸越伐吳。三年之內,齊、吳破國之難,伏尸以言術數。孔丘之誅也。

『墨子』書き下し

孔丘斉に之きて景公に見え、景公説び、之を封(にん)じるに尼渓を以てせんと欲し、以て晏子に告ぐ。晏子曰く、「可(よ)から不るなり。夫れ儒は浩(おご)り居り而自らに順う者也、以て教え下す可から不。楽を好み而人を淫(まど)わし、使て親しく治める可から不。命を立て而事を怠り、使して職を守らしむる可から不。喪を宗(とうと)びて哀に循い、使て民を慈しむる可から不。服を機(こまか)にし容(かたち)に勉む、使て眾を導かしむる可から不。孔丘容を盛んにし飾りを脩めて以て世を蠱(まど)わし、弦歌鼓舞は以て徒を聚め、登降之礼を繁くして以て儀を示し、趨翔之節に務めて以て眾に観しめ、学に博くして使て世を議せしむる可から不、思いを労わして以て民を補(やしな)う可から不、寿(とし)を絫(かさね)るとも其の学尽くす能わ不、年に当りて其の礼を行う能わ不、財を積みても其の楽を贍(た)らしむる能わ不、飾を繁くし邪まなる術を以て世君を営(まど)わし、盛んに声楽を為して以て遇(おろか)なる民を淫(まど)わし、其の道以て世を期(ねが)う可から不、其の学以て眾を導く可から不。今君之を封ぜんとす、以て斉の俗を利(ま)すも、国を導びき眾に先んじる所以に非ず」 と。

公曰く、「善(よし)」と。是に於いて其の礼を厚くし、其の封〔地〕に留めて、敬いて見え而其の道を問わ不。孔丘乃ち恚じ、景公与晏子於(に)怒りて、乃ち鵄夷子皮を田常之門於樹て、南郭恵子に告ぐるに以て為すを欲する所とし、魯於帰る。頃有りて、斉将に魯を伐たんとする間(ころあい)、子貢に告げて曰く、「賜乎、大事を挙ぐるは今之時に於いて矣」と。乃ち子貢を遣りて斉に之(ゆ)かしめ、南郭恵子に因りて以て田常に見え、之に呉を伐つを勧め、以て高、国、鮑、晏を教て田常之乱に害を得る毋(なか)ら使め、越に勧めて呉を伐たしむ。三年之內、斉、呉国を破るの之難ありて、尸(しかばね)の伏(い)ねたり。以て術数(はかりごと)を言いたるは、孔丘之誅(つみ)也。

『墨子』現代語訳

論語 墨子
墨子

孔子が斉に行って景公と会見し、喜んだ景公は尼渓を領地に与えようと思った。それを家老の晏子に告げると、晏子は反対した。

論語 晏嬰
「ダメです。儒者は偉そうにして人の話を聞きません。民を教えられるわけがありません。音楽を好んで人を怠け者にします。民の教育を任せては危険です。天命を言い立て、そのせいにして仕事を怠けますから、職を与えても無駄です。葬儀を派手に行って遺族の悲しみを煽り、お布施を吊り上げますから、民を可愛がることが出来ません。服装や表情を仰々しくしますから、民を導くことも出来ません。

そもそもあの孔丘という男は、もったいぶった顔つきをし、言葉を大げさにして世間をだましています。鳴り物で人を集め、宮殿の上り下りをわざとらしくして儀礼だと言い張り、貴人の前では小走りの礼を見せつけますから、確かに学問は立派でも、政治を議論させるわけにはいきません。

いつまでもグズグズと考えてばかりで、民を救おうとは思ってもいません。その学問は何年掛けても学びきれず、当座の礼儀作法を任せるにも間に合わず、いくら金を掛けても、彼らの言う楽団の楽器は揃えきれません。

言葉を飾ってよこしまな企みで国君を惑わし、合唱団を巡業させて愚かな民を惑わしています。あの教説では将来を確かにすることは出来ず、民を導くことも出来ません。それなのに殿は雇おうというのですか。確かに斉の風俗はいくらか良くなりましょうが、国を指導し民の先頭に立つ者のすることではありませんぞ。」

景公「そうだな」。というわけで孔子への礼儀を丁寧にし、与えた領地に止めて敬いはしたが、会見してもものを尋ねなくなった。

論語 孔子 不愉快
孔子はみるみる不機嫌になって、景公と晏子を怨んで、皮袋*を家老の田常の屋敷の門にぶら下げ、南郭恵子に「用事がある」と言って魯に帰ってしまった。

しばらくして斉が魯を攻撃しようとすると、孔子は子貢に言った。「子貢よ、名を挙げるのはこの時だぞ!」そして子貢を斉に行かせた。

論語 子貢 遊説
子貢は南郭恵子のつてで田常に会い、呉を伐つように勧め、斉国門閥の高・国・鮑・晏氏が、田常が起こそうとしていた乱の邪魔を出来なくさせ、越に勧めて呉を伐たせた。三年の間に、斉は内乱、呉は亡国に向かってまっしぐら、殺された死体が積み重なった。この悪だくみを仕掛けたのは、他でもない孔子である。

『墨子』訳注

皮袋:原文「鴟夷子皮シイシヒ」。詳細は論語子罕篇24の語釈と解説を参照。

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