論語集解義疏
原文
註言將至死不聞世之有道也疏子曰朝聞道夕死可矣 歎世無道故言設使朝聞世有道則夕死無恨故云可矣欒肇曰道所以濟民聖人存身為行道也濟民以道非為濟身也故云誠令道朝聞於世雖夕死可也傷道不行且明已憂世不為身也
書き下し
註。将に死に至りて世之道有るを聞か不るを言う也。疏。子曰朝聞道夕死可矣。世の道無きを歎くなり。故に設(も)し朝を使て世に道有るを聞かば、則ち夕べに死して恨み無きを言う。故に可矣と云う。欒肇曰く、道の民を済う所以は、聖人身存りて道の行うを為す也。民を済うに道を以てするは、身を済うを為すに非ざる也。故に誠に道を令て朝に世に於けるを聞かば、夕べに死すと雖も可なりと云う也。道の傷われて行われ不らば、且に已りは明らかにして世を憂いて身を為さ不る也。
現代語訳
注。今にも死のうとしているのに、世に正しい道があるという話を聞かないことだ。付け足し。本章は、世の中に道がないことを嘆いたのだ。だからもし朝に、道があるという話を聞いたなら、その日の夕方に死んでも悔いはない、と言ったのだ。だから可=死んでもいい、と言った。欒(ラン)肇(チョウ)いわく、「道が民を救える理由は、聖人がいてその道を行ってくれるからだ。道を用いて民を救うと言うことは、自分の身を救う事ではない。だから本当に道があると朝方に聞いたなら、夕方には死んでもいいと言ったのだ。道がダメになって行われないなら、もう世の終わりは見えていて、やはり世を嘆いて身を保とうとはしないのである。」
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