原文
道可道,非常道。名可名,非常名。無名天地之始;有名萬物之母。故常無欲,以觀其妙;常有欲,以觀其徼。此兩者,同出而異名,同謂之玄。玄之又玄,衆妙之門。
復元白文
妙
妙
常→商/物:甲骨文/欲:楚系戦国文字/徼(kioɡ):秦系戦国文字/妙:篆書以降
本章は上記の文字が金文に存在しない。わずかに常→商の可能性があるだけ。「妙」に至っては篆書しか無い。しかも「妙」を外すと本章は成立しない。老子道徳経の本章は、秦漢帝国以降の道士による捏造である。
書き下し
道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。名無きは天地の始めにして、名有るは萬物の母なり。故に常は欲無からば、以て其の妙を観る。常に欲有らば、以て其の徼を観ん。此の兩つなる者は、同じきより出でて名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄の又玄は、衆妙の門なり。
現代日本語訳(逐語訳)
道で道であると定義できる道は、不変の道ではない。名称の名づけられる名称は、不変の名称ではない。名称が無いものが天地の始めで、名称があるものが万物の母である。だから不変の法則に欲が無ければ、その作用によるその微妙な働きを並べて見る。不変の法則に欲があれば、その作用による激しい行動を並べて見る。この両者は、同じ所より出て名が違う。同じく両者を黒という。黒と黒との集合は、微妙な作用が集まった一族である。
現代日本語訳(意訳)
目に見える宇宙の法則は、常に変化して止まない。変化して止まないものに名を付けても、すぐにその名にふさわしくなくなってしまう。だがこの名づけようも無い変化して止まない何かが、宇宙を生み出した根源の力であり、変化が緩やかになってやっと名づけられるようになった状態の何かが、物質世界を生み出したのだ。
目に見える宇宙の法則のさらにその奥にある、変わらない根本法則には、通常は何かをしようとする欲望が無い。だからその働きで、穏やかにありとあらゆるものを生み出すのが見える。だがもし一時的な傾向を持って、何かをしようとするなら、その激しい変化を見て取れるだろう。穏やかな通常の営み、激しい一時的な営み、これらは共に根本法則が生み出したものでありながら、その著しい違いのために、別の名を持っているのだ。
しかし両者を混ぜたら、必ず真っ黒になる。ありとあらゆるものを混ぜたら、必ずそれは真っ黒になるが、それでもなお、宇宙の根本法則が生み出した、全てを包み込む一族であるには違いない。
付記
古来難解とされる老子道徳経だが、本章に限ればさほど難しいことを言っているわけではない。難解と言われたのは、訳を付けた漢学教授の頭が悪くて(→理由)、読み下しに手抜きをして音読みで済ませたのと、現代宇宙論の一つにも興味を持たなかったからだ。
「無名天地之始、有名萬物之母」などは、文字を眺めていても何のことか分からないが、「宇宙の晴れ上がり」を知っていれば一発で類推できる。
小川環樹の訳本などは特にひどい。兄に湯川秀樹博士がいるのにどうしたことだろう。おそらく学生のレポートを奪って出版社に売りつけただけで、自分で訳していないのではなかろうか。京大という学生の質が高い所で給料を貰ったから、孔子家語の訳本のような恥さらしをせずに済んだだけだ。
ここはまず文法を誤り句読を切り間違えているのだが、その前にこういう、読み下したようで漢字一字一字を解釈せず、音読みで済ませている巫山戯た読み下しを、訳者は「ジョーバンキシ読み」と呼ぶことにしている。常盤貴子氏のことだと分かるだろうか。「ミョウ」って何だ。「キョウ」って何だ。それを調べるのが、読み下しと翻訳というものである。
中国語は古代も現代もSVO型の言語だから、まず「常」は主語で、「無」「有」は述語動詞で、「欲」は客語≒目的語だ。つまり「常は欲無し」。従ってよほど中国語が不自由な書き手でない限り、「常に無は…欲し」などという読みにはなりようが無い。
大昔の中国の儒者が一杯機嫌で書いたホラや、漢文が読める振りをして世間を騙した、日本のおじゃる公家どもや、人をだまくらかして金をせびるクソ坊主どものデタラメを、疑いもせずホイホイと取り込むから、分けの分からない読み下しと解釈をするのである。
もし他の解釈をするなら、「常」を修飾語と解して、「常の無は欲す、以てその妙を見る」=”恒常的に形無きものが働いて、その結果ありとあらゆるものを作り出すのを見て取れる”になるだろう。漢文解釈に別解はあっていいが、デタラメは許されない。読者と世間の迷惑だ。
***
老子道徳経の本章は、書体から秦漢帝国以降の捏造であることは確定だが、老子という歴史人物について、訳者は疑いを持っていない。伝説では老子道徳経は、若き日の孔子に礼法などの教えを授けた教師の記した書で、老子は周王室の文書館に勤務していた。
孔子を送り出した後、世が乱れたので辞職して西に向かい、国境の関所役人に乞われて、老子道徳経を書いて授けた後、西の彼方へ去ったという。
おそらく孔子に教えた老子は実在しただろう。だが資料にはその後、人間にはあり得ない長寿の人物として、老子の事跡が記述される。それらもおそらく実在し、つまり老子という名は落語家同様、代々受け継がれる学派の総帥の称号だったのだ。
それを証す史料は無いが、古代の研究とはそういうものである。また上掲の現代語訳は訳者なりの解釈であって、本当に原文にそう書いているという保証が出来ない。元々多義語である漢字に加え、原文では言葉の定義をしてから書いてはいないから、言い換えると人の数だけ正しい訳があるわけだ。小川本のような手抜きはいけないが、手抜きしないで書いた訳なら、どれも等価だと言えるのだ。