論語の人物:宰予子我(さいよ・しが)

合理主義で孔子一門を陰で支えた謎多き弟子

至聖先賢半身像「宰我」

国立故宮博物院蔵

略歴

生没年未詳。姓氏は宰、名は予、字は子我。ゆえに宰我とも呼ばれる。生没年、孔子との年齢差未詳。孔子の弟子。姓氏は宰、名は予、字は子我。姓氏が宰であったことは、あるいは宰我の出身が他の孔子塾生と異なり、庶民ではなく士分以上の貴族だった可能性を示している。

『孔子家語』によると魯国出身。弁舌(言語)の才で孔子に評価され、孔門十哲の一人。実利を重んじて礼法や道徳を軽視したため、たびたび孔子から批判されている、と一般に言われる。とりわけ昼寝をして孔子から激しく叱責された話は、その筋では有名になっている。

しかし、同時代人にしては極めて合理的で、理知的でもあったことから、いわば孔子一門から「浮いてしまった」逸材であったと解することも出来る。孔子の諸国放浪にも同行しているから、ただの本の虫ではありえない。しかも子貢と並んで弁説の才を褒められながら、遊説話が論語になく、他の史料もほとんど沈黙している。

下記する、事実が疑われる話の他は、官界での出世話や自分の学派を残した記録もない。当時南方の楚国にまで名を知られた才子なのに、一体どんな活動をしたのだろう。このように、孔門十哲ではとりわけ謎の多い人物である。

想像するに宰我は、革命政党としての孔子一門の暗黒面、地下活動やウラ工作を担っていたのでは。だから事情を知っている子貢のような者は沈黙し、知らない曽子有若は、叱られた話だけ大げさに取り上げて、合理的でウマが合わない宰予をけなして、得意がったのだろう。

つまり宰我は、「陽の当たらない子貢」だったのでは。

それなら昼寝も理解できる。つまり「お前が昼寝すると、夜中に何してたのかと、何も知らん弟子や世間が疑うだろうが!」ということである。丁度日本で豊臣秀吉が黒田如水と茶室に入り、「俺とお前がサシで会うと、世間はどんな陰謀かと騒ぐだろう。茶会と言えば安心するだろうが!」と言ったようなものだ。

論語での扱い

全部で五ヶ章にしか登場せず、孔門十哲を挙げた先進篇以外の四ヶ章は、全て礼法や道徳を軽視した宰我と、それを批判する孔子の組み合わせになっている。

他の典籍での扱い

先秦両漢(=古代)までの史料では、儒教関係に論語に記されない孔子との問答が記されている。ただそもそも数が少ない上に、その多くは論語の焼き直しのような話で、宰我の新たな側面を伝えていない。『大載礼記』五帝徳より一例のみ引く。

宰我問於孔子曰:「昔者予聞諸榮伊,言黃帝三百年。請問黃帝者人邪?亦非人邪?何以至於三百年乎?」孔子曰:「予!禹、湯、文、武、成王、周公,可勝觀也!夫黃帝尚矣,女何以為?先生難言之」宰我曰:「上世之傳,隱微之說,卒業之辨,闇昏忽之,意非君子之道也,則予之問也固矣。」

宰我孔子に問うて曰く、昔、予は榮伊にこれを聞きたり。黃帝は三百年と言うと。請い問う、黃帝は人か、はた人にあらざるか。何を以て三百年に至るかと。孔子曰く、予よ、禹、湯、文、武、成王、周公、勝(あ)げて観る可き也。夫(そ)れ黃帝は尚(とうと)き矣(なり)、女(なんじ)何を以て為さんとするか。先生(センジョウ)之を言い難きなりと。宰我曰く、上世の伝え、隱微の說、卒業の弁(はなし)、闇昏(アンコン)之を忽(たちまち)になし、意は君子の道にあらざる也、則ち予の問いや、固(かたくな)矣と。

宰我 宰予 孔子 激怒
宰我「昔、栄伊どのに聞いたのですが、黄帝の寿命は三百歳だったそうですね。ということはあれですか、黄帝は人でなくて、何かバケモノのたぐいですか。そうでないなら、どうやって三百まで生きたのですか。」

孔子「宰予よ、禹・湯・文・武・成王・周公なら、ひとつふたつと業績を数え上げて人物像を語れる。しかし黄帝はあまりに貴い。そんなことは知っておろうが。お前は一体何を言いたいのだ? バチ当たりめ。我らのご先祖様も、黄帝については憚って言わなかったんだぞ。」

宰我「ははあ、神代の話、大人の事情の隠し事、昔の人は偉かった式のお説教というのは、やはりでっち上げが付きものなのですな。君子たる者、笑い飛ばして済ますべきでした。こりゃ失礼しました、またつまらないことを尋ねてしまいました。」

その他、「鬼神の名は知っていますが正体が分かりません」と問うたり、しつこく孔子に太古の聖王伝説を聞きただす役として宰我は登場する。ただし聖王と言っても、堯の字は甲骨文からあるが舜は戦国時代以降にしか現れないから、全ては作り話。

また宰我は『史記』によると斉国に仕えたが、BC481年の田恒の乱に巻き込まれ、一族皆殺しにされたという。

宰我為臨菑大夫,與田常作亂,以夷其族,孔子恥之。

宰我は斉都臨淄の領主となり、田常と氾濫を起こし、一族皆殺しの刑に処された。孔子はこのことを恥じた。(『史記』孔子世家)

前漢劉向の『説苑』もこの説を取っているが、司馬遷と共に勘違いだ。『春秋左氏伝』には処刑された人物を子我と書いているが、あざ名が子我でも別人である。

哀公十四年…齊簡公之在魯也,闞止有寵焉,及即位,使為政,陳成子憚之,驟顧諸朝,諸御鞅言於公曰,陳闞不可並也,君其擇焉,弗聽。

哀公十四年(BC481)、斉の簡公が魯に亡命中の頃、闞止(子我)を寵愛していた。簡公が帰国して国公に即位すると(BC485)、闞止に政治を委ねたので、国公を凌ぐほどの権勢家だった陳成子(田常)も恐れるほどだった。だから朝廷で出会うたびにチラチラと顔色を窺った。簡公の御者の鞅が簡公に言った。「陳氏と闞氏はやがて殺し合いを始めます。殿は早くどちらに付くかお決め下さい。」だが簡公は口を濁して誤魔化した。


我夕,陳逆殺人,逢之,遂執以入,陳氏方睦,使疾,而遺之潘沐,備酒肉焉,饗守囚者,醉而殺之,而逃,子我盟諸陳於陳宗。

子我が夕方の出勤の途上で、陳逆が人を殺すのに出くわしたので、その場で捕らえて政庁に入った。陳氏は和睦することにし、すぐに使いを出して洗髪用のシャンプーと酒と肉を子我への手土産にした。獄卒にも結構な仕出し弁当を配り、酔っ払った所を狙って殺してしまい、まんまと陳逆は脱獄した。し損じた子我は、やむなく陳氏の宗家で陳一族と和睦した。


初,陳豹欲為子我臣,使公孫言已,已有喪而止,既而言之,曰,有陳豹者,長而上僂,望視,事君子必得志,欲為子臣,吾憚其為人也,故緩以告,子我曰,何害,是其在我也,使為臣,他日,與之言政,說遂有寵,謂之曰,我盡逐陳氏,而立女,若何,對曰,我遠於陳氏矣,且其違者,不過數人,何盡逐焉,遂告陳氏,子行曰,彼得君,弗先,必禍子,子行舍於公宮。

それより前、陳一族の陳豹が子我に仕えたがっていた。公孫の口を通じて願いを伝えようとしたが、身内に不幸があって一旦喪に服した。喪が明けて公孫は言った。「陳豹という者がおりまして、背が高くせむしですが、視線が堂々としており、君子に仕えれば必ず大仕事をやってのけます。あなたの家臣になりたがっていますが、どうも人柄に難があって、これまで紹介するのをためらってきました。」
子我「かまわんかまわん。私の元に来たいというなら召し抱えよう。いずれは政治の相談にも与らせよう。」実際合ってみると気が合ったので、ある日子我は言った。「わしは陳氏をまとめて追い出そう思っている。その後は君を陳氏の宗家につけよう。どうすればよいかな?」
陳豹「私は陳氏と言っても端くれです。それにあなたに刃向かっている陳氏は、数人に過ぎないでしょう。丸ごと追放とはやり過ぎです。」そういってこっそり陳氏に告げ口した。陳一族の子行はそれを聞いて、宗主の成子に言った。「子我は簡公に気に入られている。先手を打たなければ、必ずあなたに災いが降りかかりますぞ。」そう言って子行は、公宮に寝泊まりした。


夏,五月,壬申,成子兄弟,四乘如公,子我在幄,出逆之,遂入,閉門,侍人禦之,子行殺侍人,公與婦人飲酒於檀臺,成子遷諸寢,公執戈,將擊之,大史子餘曰,非不利也,將除害也。

夏五月、壬申の日、陳成子の兄弟は四両の戦車に乗り、公宮に向かった。知らせを聞いた子我は迎え撃ったが、守り切れず門内に入るのを止められなかった。公宮の職員が武器を取って陳兄弟を阻止しようとしたが、あらかじめ公宮に寝泊まりしていた子行に打ち殺されてしまった。簡公はテラスで寵姫と寝台で酒を飲んでいたが、沈成子が寝室に連行した。
簡公は怒って戈を執り陳氏の兵に撃ち掛かろうとしたが、記録官の子余が言った。「殿のおためにならない者ではありません。おためにならない君側の奸(子我)を討ちに参ったのです。」


成子出舍于庫,聞公猶怒,將出曰,何所無君,子行抽劍曰,需,事之賊也,誰非陳宗,所不殺子者,有如陳宗,乃止,

陳成子は公宮を出て国庫に寝泊まりしたが、簡公がまだ怒っていると聞き、出て行こうとして言った。「どこにだって仕える君主はいる。」子行が抜剣して言った。「グズグズしているとこちらが不利になるだけだ。陳氏の宗家だって、どこにでもいる。あなたが殺されないうちだから、宗家でいられるだけです。」陳成子は逃亡をやめた。


子我歸,屬徒攻闈與大門,皆不勝,乃出,陳氏追之,失道於弇中,適豐丘,豐丘人執之以告,殺諸郭關。

子我は屋敷に帰り、家の子郎党を率いて公宮の大小の門に攻めかかったが、守りが堅くて落とせない。やむなく退却したところを陳氏の軍勢が打って出たので、子我は弇中で味方とはぐれ、次いで豊丘に向かったが、豊丘の住人が「落ち武者狩りじゃあ」と捕らえて陳氏に報告し、郭関で首を刎ねてしまった。(『春秋左氏伝』哀公十四)

前漢以降に流布した、宰我が斉で宰相となり、田氏に負けて殺されたというウソ伝説のもとは以上だが、まるで別人であることが分かるだろう。『春秋左氏伝』が改竄された可能性は無では無いが、おそらく実のところ、司馬遷も前漢の儒者も、まじめに読みはしなかったのだ。

戦国時代に儒家を再興した孟子は、宰我を子貢と並んで、孔子の偉さが分かる程度の小ヂエしか無い奴、とけなした(『孟子』公孫丑上)。孔子の直弟子だったかも怪しい曽子の系統を引く孟子は、自分の正当性・正統性を言うためにけなしているだけ。従って『孟子』に収録された、宰我が孔子を「尭舜の偉さにはとても及ばない」という話は、でっち上げである。

宰我が斉に仕えて乱で死んだという説は、『史記』以降になると常識化してしまったようで、武帝晩年の敏腕宰相である桑弘羊は”宰我が斉の実権を握り、国公の寵愛を受けたが、田常の乱に巻き込まれ、儒教の道を実行できないまま、宮廷で殺された”と『塩鉄論』に言う

また『孔叢子』では、宰我が斉に使いに出た記録がある。現代語訳を参照。『晏子春秋』では、孔子が晏嬰への謝罪の使者に立てている

論語での発言

1

鎮守の森に、夏王朝ではマツを植えました。殷王朝ではヒノキを植えました。我が周ではクリを植えることになっています。民をビックリさせるんですねえ。(八佾篇)

2

それでは我らが目指すべき仁者さまというのは、「人が井戸に落ちた!」と叫べば、のこのこやってきて井戸に入るような、マヌケ者ですな。(雍也篇)

3

親の喪中が三年とは、長すぎますよ。その間稽古しないままでは、礼法も音楽も忘れてしまいます。穀物だって一年で古びます。その一年で十分では?(陽貨篇)

論語での記述

  1. 哀公問社於宰我。宰我對曰、「夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗。曰、『使民戰栗。』子聞之、曰、「成事不說、遂事不諫、既往不咎。」(八佾篇)
  2. 宰予晝寢。子曰、「朽木不可雕也、糞土之牆、不可杇也。於予與何誅。」子曰、「始吾於人也、聽其言而信其行。今吾於人也、聽其言而觀其行。於予與改是。」(公冶長篇)
  3. 宰我問曰、「仁者雖吿之曰、『井有仁焉。』其從之也。」子曰、「何爲其然也。君子可逝也、不可陷也。可欺也、不可罔也。」(雍也篇)
  4. 子曰、「從我於陳蔡者、皆不及門也。」德行、顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語、宰我、子貢。政事、冉有、季路。文學、子游、子夏。(先進篇)
  5. 宰我問、「三年之喪、期已久矣。君子三年不爲禮、禮必壞。三年不爲樂、樂必崩。舊穀既沒、新穀既升、鑽燧改火、期可已矣。」子曰、「食夫稻、衣夫錦、於女安乎。」曰、「安。」「女安、則爲之。夫君子之居喪、食旨不甘、聞樂不樂、居處不安、故不爲也。今女安、則爲之。」宰我出。子曰、「予之不仁也。子生三年、然後免於父母之懷。夫三年之喪、天下之通喪也。予也、有三年之愛於其父母乎。」(陽貨篇)

論語の人物・付記

『史記』孔子世家

昭王將以書社地七百里封孔子。楚令尹子西曰:「王之使使諸侯有如子貢者乎?」曰:「無有。」「王之輔相有如顏回者乎?」曰:「無有。」「王之將率有如子路者乎?」曰:「無有。」「王之官尹有如宰予者乎?」曰:「無有。」「且楚之祖封於周,號為子男五十里。今孔丘述三五之法,明周召之業,王若用之,則楚安得世世堂堂方數千里乎?夫文王在豐,武王在鎬,百里之君卒王天下。今孔丘得據土壤,賢弟子為佐,非楚之福也。」昭王乃止。其秋,楚昭王卒于城父。

訳は論語詳解・雍也篇(26)を参照。



関連記事(一部広告含む)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする