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論語詳解101公冶長篇第五(9)宰予昼寝ぬ*

論語公冶長篇(9)要約:後世の創作。孔子一門の秘密政治工作を担当する弟子の宰我。史料には書いてはありませんが、沈黙も雄弁な史実語りです。闇夜にひと仕事を終えて昼寝する宰我を、先生はきつく言います。さてその真意やいかに…。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

宰予晝寢子曰朽木不可彫也糞土之牆不可杇也於予與何誅子曰始吾於人也聽其言而信其行今吾於人也聽其言而觀其行於予與改是

校訂

諸本

  • 論語集釋:皇本、宋刻本、唐石經、宋石經「雕」皆作「彫」。 論衡問孔篇亦作「彫」。釋文:「圬」,本或作「杇」。 皇本「杇」爲「圬」。 太平御覽數述「杇」字,皆作「杇」。

東洋文庫蔵清家本

宰予晝寢/子曰朽木不可彫也/糞土之牆不可杇也/於予與何誅/子曰始吾於人也聽其言而信其行今吾於人也聽其言而觀其行於予與改是

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

[宰予晝寢。子曰:「㱙a木不可]雕也b,糞土之牆不可[杇]c85……?」d86曰:「始e吾於人也,聽[其言]而信其行;今吾於人也,[聽其]87而觀其行。於予與改是。」88

  1. 㱙、今本作「朽」。㱙、古朽字。
  2. 雕、皇本・唐・宋石経具作「彫」。
  3. 杇、皇本・『釋文』作「圬」。杇為正字、圬為仮借字。
  4. 此全簡僅上部書三字、下部空白、故知下簡文字別為一章。
  5. 簡文「始」下空一格。

標点文

宰予晝寢。子曰、「㱙木不可雕也、糞土之牆、不可杇也。於予與何誅。」子曰、「始吾於人也、聽其言而信其行。今吾於人也、聽其言而觀其行。於予與改是。」

復元白文(論語時代での表記)

宰 金文予 金文晝 昼 金文寝 金文 子 金文曰 金文 朽 金文木 金文不 金文可 金文周 金文也 金文 糞 甲骨文土 金文之 金文牆 墻 金文 不 金文可 金文也 金文 於 金文予 金文与 金文何 金文誅 甲骨文 子 金文曰 金文始 金文吾 金文於 金文人 金文也 金文 聴 金文其 金文言 金文而 金文信 金文其 金文行 金文 今 金文吾 金文於 金文人 金文也 金文 聴 金文其 金文言 金文而 金文観 金文其 金文行 金文 於 金文予 金文与 金文改 金文是 金文

※雕→周・糞・誅→(甲骨文)。論語の本章は杇の字が論語の時代に存在しない。「寢」「糞」「牆」「與」「何」「誅」「始」「信」「行」の用法に疑問がある。本章は前漢の儒者による創作である。

書き下し

宰予さいよひるぬ。いはく、からかなくさつちかべからかなおいなんめむ。いはく、はじめわれひとけることのはおこなひまこととせり。いまわれひとけることのはおこなひる。おいこれあらためたりと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

宰我 宰予 孔子
宰予が昼寝をした。先生が言った。「朽ちた木は彫ることが出来ないぞ。腐った土の壁は作れないぞ。(宰)予めになぜ責を行おうか。」また言った。「以前私は人を見る時まさに、その言葉を聞いてその行いを信用した。今私は人を見る時まさに、その言葉を聞いてその行いも見る。予めをきっかけに改めるのを行った。」

意訳

宰我が昼寝をした。

宰我 孔子 人形
孔子「腐れ木は彫れぬし腐れ土では壁塗りできない。あ奴を叱っても仕方がない。」
一通り怒った後「昔は私も人が良かった。いい事を言う奴はいい奴だと思った。だが今は行いを見るまで信用できない。こうなったのも宰我の奴めのせいだ!」とまわりに聞こえるように大声で言った。

従来訳

下村湖人
宰予(さいよ)が昼寝をしていた。すると先師がいわれた。――
「くさった木には彫刻は出来ない。ぼろ土の塀は上塗をしてもだめだ。お前のようななまけ者を責めても仕方がない。」
それから、しばらくしてまたいわれた。――
「これまで私は、誰でもめいめい口でいう通りのことを実行しているものだとばかり信じて来たのだ。しかしこれからは、もうそうは信じていられない。いうことと行うこととが一致しているかどうか、それをはっきりつきとめないと、安心が出来なくなって来た。お前のような人間もいるのだから。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

宰予白天睡覺。孔子說:「他象朽木一樣無法雕琢,象糞牆一樣無法粉刷,我能拿他怎樣?」孔子又說:「以前我看人,他說什麽,我信什麽;現在我看人,聽他說,再看他做。因為宰予,我改了過來。」

中国哲学書電子化計画

宰予が昼間に寝た。孔子が言った。「かれは腐った木と同じで彫刻する方法が無いし、糞を固めた壁と同じで上地が塗れないし、私は彼をどうできるだろうか?」孔子はまた言った。「以前は私は人に出会うと、彼が言ったことは、私も信じた。今では人に出会うと、彼が言ったことを聞いてから、彼が何をするのかじっと見る。これは宰予のせいで、私はそれまでを改めた。」

論語:語釈

宰予(サイヨ)

=宰我。孔子の弟子。姓は宰、名は予、字は子我。魯国出身。孔門十哲の一人で後世弁論の達人と評された。孔門の中では最も実利主義的な人物で道徳を軽視したと言われるが、話は暖衣飽食して人をくさす能しかない儒者が言うほど単純ではない。詳細は論語の人物:宰予子我を参照。

宰 甲骨文 宰 字解
「宰」(甲骨文)

「宰」の初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「ケン」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。

予 金文 不明 字解
「予」(金文)

「予」は論語の本章では宰予子我のいみ名。初出は西周末期の金文で、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいうが、春秋末期までに一人称の用例がある。”あたえる”の語義では、現伝の論語で「與」となっているのを、定州竹簡論語で「予」と書いている。字形の由来は不明。金文では氏族名・官名・”わたし”の意に用い、戦国の竹簡では”与える”の意に用いた。詳細は論語語釈「予」を参照。

晝(チュウ)

昼 甲骨文 昼 字解
(甲骨文)

論語の本章では”昼間に”。初出は甲骨文。新字体は「昼」。字形は”日時計”+「又」”手”で、日時計の南中の位置を調整するさま。原義は”真昼”。甲骨文では原義で、金文でも原義で(㝬𣪕・西周末期)用いた。戦国の竹簡でも原義で用いた。詳細は論語語釈「昼」を参照。

寢(シン)

寝 甲骨文 寝 字形
(甲骨文)

論語の本章では”寝る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「寝」。字形は「宀」”屋根”+「帚」”ほうき”で、すまいのさま。原義は”住まい”。甲骨文では原義で用い、金文では原義、”祖先廟”、官職名を意味した。詳細は論語語釈「寝」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

朽(キュウ)→㱙(キュウ)

朽 金文 朽 字解
(金文)

論語の本章では”くさる”。論語では本章のみに登場。字形は「丂」+「木」で、「丂」は音符とされるが、カールグレン・藤堂音ともに上古音不明。原義は不明。金文では地名に用いた。詳細は論語語釈「朽」を参照。

定州竹簡論語の「㱙」はその注が「古朽字」という。大漢和辞典による語釈は”くちる・くさい”。台湾中央研究院の「小学堂」㱙字条でもそう扱っている。「国学大師」㱙字条も「同【朽或剐】字」という。剐は大漢和辞典にも見えないが、”つきやぶる・死刑の一種”と「国学大師」剐字条は言う。

木(ボク)

木 甲骨文 木 字解
(甲骨文)

論語の本章では”木材”。初出は甲骨文。「モク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は木の象形。甲骨文では原義のほか地名・国名に、金文でも原義に用いられた。詳細は論語語釈「木」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。原義は花のがく。「フ」は呉音。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

彫(チョウ)→雕(チョウ)

現存最古の論語本である定州竹簡論語は「雕」と記し、唐石経・清家本は「彫」と記す。「彫」は「雕」の異体字。時系列に従い「雕」に校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

雕 金文 雕 字解
「雕」(戦国金文)

論語の本章では、”彫刻する”。『大漢和辞典』の第一義は鳥の”ワシ”。初出は戦国末期の金文、字形は音符「周」+「隹」”とり”で、原義は鳥の”ワシ”。”ほる”の語義は音通。「彫」は異体字。彫の字も初出は戦国文字で、やはり論語の時代に存在しない。春秋時代の置換候補は、部品の周の字。”ほる”意を持つ漢字で、チョウと音読みするものに、琱があり、春秋時代の金文に存在する上、初文は周とされるから、周に”ほる”意があると解することは可能。詳細は論語語釈「雕」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「於人也」では「や」と読んで主格の強調に用いている。「不可雕也」では「かな」と読んで詠嘆の意。「なり」と読んで断定の意と解してもかまわないが、これらの語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

糞(フン)

糞 甲骨文 糞 字解
(甲骨文)

論語の本章では”廃棄物”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。金文は見つかっていない。字形は「∴」”ごみ”+「其」”ちりとり”+「廾」”両手”で、掃除をするさま。原義は”清掃”。甲骨文の字形には「帚」を加えたものがある。甲骨文では地名に用い、秦代の竹簡では原義に用いた。詳細は論語語釈「糞」を参照。

土(ト)

土 甲骨文 土 字解
(甲骨文)

論語の本章では”つち”。「ド」は慣用音。呉音は「ツ」。初出は甲骨文。字形は「一」”地面”+「∩」形で、地面の上に積もったつちのさま。甲骨文の字形には、「一」がないもの、「水」を加えたものがある。甲骨文では”領土”、”土地神”を意味し、金文では加えて”祭祀を主催する”、天に対する”大地”、また「𤔲土」と記し後年の「司徒」の意を示した。詳細は論語語釈「土」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では「の」と読んで”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。

牆(ショウ)

牆 甲骨文 牆 字解
(甲骨文)

論語の本章では”土壁”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「爿」”板”+「禾」”イネ科の植物”2つ+「㐭」”ふくろ”で、穀物袋を収蔵する板囲いのさま。原義は”囲い”。甲骨文では人名に用い、金文では人名、”行う”の意に用いた。詳細は論語語釈「牆」を参照。

杇(オ)

杇 金文 杇 字解
(戦国金文)

論語の本章では”壁を塗る”。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「ウ」は呉音。同音に「洿」”たまり水”、「污」=「汚」、「圬」”こて、左官、壁を塗る”。「小学堂」は「圬」を「杇」の異体字として扱っている。字形は「木」+「亏」で、「亏」は「虧」”欠ける”の略体と『大漢和辞典』はいう。原義は不明。詳細は論語語釈「杇」を参照。

一部版本が記す同音の「圬」の初出は不明。論語の時代に存在しない。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”…について”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”用いる”→”それで”。「於予與何誅」「於予與改是」の両句で、「於予」=”宰予子我のせい”で、を強調するために倒置して「於予」を前に出した結果、”それで”を意味する「與」が挿入された。

この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。新字体初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
「何」(甲骨文)

「何」は論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

誅(チュウ)

誅 甲骨文 誅 字解
(甲骨文)

論語の本章では”とがめる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。金文は戦国末期の「中山王壺」まで見つかっていない。字形は「蛛」”クモ”+「戈」”カマ状のほこ”で、「蛛」は音符で語義に関係ないと思われる。原義は不明だが、”傷付ける”・”殺す”に関わると思われる。詳細は論語語釈「誅」を参照。

始(シ)

始 金文 始 字解
(金文)

論語の本章では”以前”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は殷代末期の金文。ただし字形は「㚸 外字」。字形は「司」+「女」+〔㠯〕”農具のスキ”。現伝字形の初出は西周末期の金文。ただし部品が左右で入れ替わっている。女性がスキをとって働くさま。原義は不詳。金文で姓氏名に用いられた。詳細は論語語釈「始」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」(藤堂上古音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。しかし論語で「我」と「吾」が区別されなくなっているのは、後世の創作が多数含まれているため。論語語釈「我」も参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ひと”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

聽(テイ)

聴 甲骨文 聴 字解
(甲骨文)

論語の本章では”聞く”。初出は甲骨文。新字体は「聴」。「チョウ」は呉音。字形は「口」+「耳」+「人」で、人の口から出る音を耳で聞く人のさま。原義は”聞く”。甲骨文では原義、”政務を決裁する”、人名、国名、祭祀名に用いた。金文では”聞き従う”の意に、また人名に用いた。詳細は論語語釈「聴」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”。初出は甲骨文。原義は農具の。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”発言”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”~かつ~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

信(シン)

信 金文 信 字解
(金文)

論語の本章では、”信じる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行い”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

今(キン)

今 甲骨文 今 字解
(甲骨文)

論語の本章では”いま”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「シュウ」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味した。詳細は論語語釈「今」を参照。

觀(カン)

観 甲骨文2 観 字解
(甲骨文)

論語の本章では”観察する”。新字体は「観」。『大漢和辞典』の第一義は”みる”、以下”しめす・あらはす…”と続く。初出は甲骨文だが、部品の「雚」の字形。字形はフクロウの象形で、つの形はフクロウの目尻から伸びた羽根、「口」はフクロウの目。原義はフクロウの大きな目のように、”じっと見る”こと。詳細は論語語釈「観」を参照。

改(カイ)

改 甲骨文 改 字解
(甲骨文)

論語の本章では”あらためる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「巳」”へび”+「ホク」”叩く”。蛇を叩くさまだが、甲骨文から”改める”の意だと解釈されており、なぜそのような語釈になったのか明らかでない。詳細は論語語釈「改」を参照。

是(シ)

是 金文 是 字解
(金文)

論語の本章では”これ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用しておらず、前漢中期の『史記』弟子伝に「不可圬也」までが再録されており、事実上の初出。後半は後漢前期の王充による『論衡』問孔篇に見え、定州竹簡論語に次ぐ再録。よって前漢中期までに漢儒によって創作されたと断じうる。

前漢年表

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解説

論語の本章が創作された目的は、派閥を作らず、漢帝国に至るまでの後継者を残せなかった宰我をおとしめるため。たかが昼寝で怒りすぎと思ったのか、吉川本には荻生徂徠の想像として、女性と共にいた、と紹介している。日本の儒者も中国儒者に劣らず言いたい放題だ。

古注『論語集解義疏』

註苞氏曰宰予弟子宰我也…註苞氏曰朽腐也彫彫琢刻畫也…註王肅曰圬墁也二者喻雖施功猶不成也…註孔安國曰誅責也今我當何責於汝乎深責之辭也…註孔安國曰改是者始聴言信行今更察言觀行發於宰我晝寢也

包咸 論語 孔子家語 王粛 孔安国
注釈。包咸「宰予とは弟子の宰我である。」

注釈。包咸「朽とは腐ることである。彫とは彫って画像を刻むことである。」

注釈。王粛「圬は壁塗りコテである。腐れ木も糞土も、手を加えても仕方が無いことの例えである。」

注釈。孔安国「誅とは責めることである。今さらお前を責めても仕方が無いと言ったのである。つまり深刻に責める言葉である。」

注釈。孔安国「改是とは、以前は発言から行動を信用できたが、今は発言を吟味して行動に表れるかどうか検証するということである。そのきっかけが宰我の昼寝だと言うのである。」

新注『論語集注』

朽,許久反。杇,音汙。與,平聲,下同。晝寢,謂當晝而寐。朽,腐也。雕,刻畫也。杇,鏝也。言其志氣昏惰,教無所施也。與,語辭。誅,責也。言不足責,乃所以深責之。…行,去聲。宰予能言而行不逮,故孔子自言於予之事而改此失,亦以重警之也。胡氏曰:「『子曰』疑衍文,不然,則非一日之言也。」范氏曰:「君子之於學,惟日孜孜,斃而後已,惟恐其不及也。宰予晝寢,自棄孰甚焉,故夫子責之。」胡氏曰:「宰予不能以志帥氣,居然而倦。是宴安之氣勝,儆戒之志惰也。古之聖賢未嘗不以懈惰荒寧為懼,勤勵不息自強,此孔子所以深責宰予也。聽言觀行,聖人不待是而後能,亦非緣此而盡疑學者。特因此立教,以警群弟子,使謹於言而敏於行耳。」

論語 朱子 新注

朽は、許-久の反切で読む。杇の音は汙である。與は平らな調子で読む。以下同じ。晝寢とは、昼間なのに寝床にいることである。朽とは、腐ったということである。雕は、画像を刻むことである。杇は、壁塗りのコテである。要旨は、志が下劣で怠惰な人間には、教えても仕方がないということである。與は、語気を表す字である。誅は、責めることである。責めるに足りないとは、つまり深く責めることを意味している。

行は、尻下がりに読む。宰予は言葉巧みだが行動が伴わず、だから孔子は宰予の発言と行動の食い違いを言挙げして、重い言葉で戒めた。

論語 胡寅 范祖禹
胡寅「子曰くの部分はおそらく間違って入った文字列で正しくない。つまりある日に限って宰予を責めたのではないのである。」

范祖禹「君子が勉強するからには、毎日努力を重ねるべきで、死ぬまで止めないのが当然で、ひたすら学問が出来ていないことをおそれるものだ。それなのに宰予は昼寝なんかして、学問を捨てるにこれほどひどい例は無い。だから先生は責めたのだ。」

胡寅「宰予は志で自分の生理を制御できず、ボンヤリ過ごして怠けた。怠け心が強すぎて、自戒の精神が足りなかったのである。古の聖者賢者というものは、ひたすら自分が怠惰に陥るのをおそれ、努力に努力を重ねて自分を高めたので、孔子は宰予を深く責めたのである。発言を聞いて行動を観察するについては、聖人は別に宰予に出くわさなくとも、初めから出来たのだから、宰予はきっかけにもならず、ただ学徒にふさわしくないと見放しただけだ。それでもこれを例にとって教えを明らかにし、数多くの弟子を戒め、弟子たちを発言に慎み深く、行動に素早い性格へと導いたのである。」

後世の儒者は通常、孔子の直弟子をあざ名=敬称で呼び、いみ名=本名で呼び捨てするようなことをしないのだが、新注の宋儒はよってたかって「宰予」と呼び捨てにしている。魯迅の言う「水に落ちた犬は打て」というやつで、弱り目の人間を叩き回るのが宋儒のならいだった。

宰我をこのように評した胡寅は、金軍が帝都開封に迫り、素直に「こんな事になってごめんなさい」と謝った徽宗皇帝に同情した民百姓の義勇軍が続々と集まる中、大学構内に姿をくらまし、落城すると山奥に逃げ、南宋が成立したとたんに現れて官職を要求した。

論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

吉川幸次郎 吉川幸次郎 論語
昼寝の同衾ばなしを自著に記した吉川幸次郎は、日中戦争が激化し太平洋戦争の危険が迫り、哀れな庶民が兵隊に引っ張られて絶望的な戦いを強いられる中、中国服を着て大学構内に姿をくらまし、いよいよ開戦となって中国に逃げ、敗戦後は京大教授として漢学界を睥睨した。

これらだけが理由ではないが、訳者は儒者や漢学教授の感想とは見解を異にする。

孔子は口を極めて宰我をこき下ろしたように読めるが、「朽木…。」の前半を別にして、直接小言を言っていない。宰我を「予」と三人称で言ったことから、後半の発言は明らかに、宰我以外の誰かに聞こえるように言わされている。これではまるで負け犬の遠吠えではないか?

孔子一門は革命政党だった。孔子が後ろ暗い陰謀を逞しくしたことについては、時代の近い墨子が証言しており(『墨子』非儒篇)、公冶長のような政治犯も出た。だが塾生にはただの学徒もいたから、孔子は人に言えない謀略を行っている事を、知られたくなかった。

そんな孔子一門の一人である宰我は、下掲の通り政才を大国・楚の国王に評価されていながら、後世孟子に弁舌の才を評価されながら、実際にどのような活動をしたのか、史料は揃って沈黙している。となると孔子一門の闇の活動に、宰我が加わっていたと考えていい。

楚の宰相・子西「王の官吏をとりまとめる者で、宰予ほどの者がいますか。」
楚王は言った。「おらぬ。それゆえ孔子を招くのじゃ。」(『史記』孔子世家)

盗人の昼寝と巷間言う。盗人が夜の仕事に備えて昼寝することだが、宰我はそれではなかったか。論語以外の典籍では、宰我は旅の話が伝わっている。孔門情報部の監察役ではなかったか。そういう謀臣はやっかいなもので、ささいな行動を人が見て、うわあ謀略だと騒ぐ。

豊臣秀吉 黒田如水
日本で言えば豊臣秀吉が、嫌がる黒田如水を無理やり茶室に連れ込んで、説教したという話が『名将言行録』にあると聞く。「お前と俺がサシで会えば、すわ悪だくみだと人が騒ぐ。茶会と言えば安心するだろうが。」「それがしは今日初めて、茶の味を習い覚えました。」

前漢武帝の時代、いわゆる儒教の国教化が行われるに当たって、孔子は聖人でなければならなくなった。謀略などもってのほかである。そこで記録の管理を独占した儒者は、孔門の後ろ暗い記録を徹底的に消したに違いない。すると宰我が何をしたか分からなくなってしまった。

あるいは、宰我のそうした記録を知っている者が、万一に備えて、宰我を悪党に仕立てたのだろう。

余話

ウソにはウソで

論語の本章について、明代の笑い話集『笑府』は、面白がってパロディに仕立てている。

一師晝寢。及醒。謬言曰。我乃夢周公也。明晝。其徒効之。師以界方擊醒。曰。汝何得如此。徒曰。亦往見周公耳。師曰周公何語。荅曰。周公說昨日並不曾會尊師。

論語 笑府 馮夢竜
ある儒者の先生が昼寝をした。目を覚ましてもったいを付け、「孔子先生にならって、夢で周公にお目にかかっていた(論語述而篇5)のじゃ」。

翌日、弟子の一人が昼寝をした。先生怒って物差しでひっぱたいて言った。「何をしておるのじゃ」。弟子答えて曰く、「私も周公のお目にかかっていました」。「なんじゃと? では周公は何と言っておいでであったか」。

答えて曰く、「昨日君の先生は来なかったよ」。(『笑府』巻二・昼寝)

『論語』公冶長篇:現代語訳・書き下し・原文
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