略歴
BC502-?。孔子の弟子。姓は宓、名は不齊(斉)。字は子賤。ものすごい老人に描かれているが、『史記』によれば孔子より49年少で、孔子の直弟子としては最も若いグループに属する。地方都市を治める程度の政治の才があったとされるが、そのやり方は得体が知れず、謎の多い人物。
論語での扱い
公冶長篇で「君子なるかなかくのごとき人」と孔子に言われており、君子としては立派だったと評されているが、この君子の定義によってどのような人物か想像が分かれる。学問的に何かしたという記録はないから、教養人として立派、という意味にはなりにくい。戦場働きの記録もないから、そうなると政才に優れていたことになるが、その方法や詳細が分からない。
得体の知れない人物である。
他の典籍での扱い
論語と同時代やそれ以前の記録はないから、後世の人が伝承や想像に基づいた記録ではあるものの、単父(ぜんほ)というまちの代官になったことが記されている。赴任の際、魯公から付けられた下役に、字を書けと命じて書かせ、横から下役のひじをちょいちょいと引っ張っておきながら、書いた字が下手だと叱った。怒った下役が辞任を申し出ると、「ああ、辞めていいよ」と追い払った。都城に帰った下役が、魯公にこの意地悪を訴えると、「子賤が私を諌めているのだ」と魯公は言い、思い通りの政治を執るよう子賤を扱った、という。
これが「掣肘」の語源になったが、記された書物は秦代の『呂氏春秋』。子賤が下役の讒言を恐れての行動だったという。その後前漢の『説苑』や『韓詩外伝』などの儒者の書き物には、同じ単父のまちを巫馬期が治めて苦労したと記しているから、地元勢力が強くて治めにくく、改革のたぐいを行おうとすれば、あることないこと君主や上役にご注進が行き、即座に降ろされてしまうようなまちだったと想像できる。
ただし『左伝』の記事を素直に読むのなら、当時すでに魯国の政治を魯公は執っておらず、魯公を味方に付けた所で、難治のまちが治まるとは思えない。この点同じく儒者の書き物に、子賤は赴任しても琴ばかり弾いて政治を執らず、自宅からも出てこない引き籠もりだったが、まちは治まったと書く。対して巫馬期は、夜から夜までかけずり回ってやっとまちが治まったという。
そこで巫馬期が子賤に政治の秘訣を聞いた所、人に任せているからだ、と答えたという。当たり前に考えれば、琴ばかり弾いて政治が出来るわけがないが、孔子がどのように治めたかを聞いた所、「父代わりが三人、兄代わりが五人、友とする人物が十一人、これらと付き合いました」と答えている(『説苑』)。
これを意訳すれば、現地の有力者と親しげに付き合って、何かしら新しい政策なるものを持ち出さず、現地の習慣そのままに放置していたことになる。聞いた孔子は「何もしないで治まった、治めた土地は小さかったが、政治のやり方としては大したもので、いにしえの堯や舜の跡を継ぐものだ」と褒めたという。
「何もしないで治まった」というのを本当に孔子が評価したなら、旧来の習慣をいじって改めさせるのが大好きな孔子は、放浪などの苦労をせずに済んだはずで、考えようによっては後世の道家的価値観が入り込んでいるように見える。
確かに論語の泰伯篇などで、孔子はそういった聖王の治世を褒め称えてはいる。ただしワケが分からなかったようで、どうして何もしないで治まったか、のからくりは、孔子には分からなかっただろう。好意的に読むなら、それをやって見せたから子賤に政治の秘訣を聞いたのだろうが、その政治力を得体が知れないとは思ったことだろう。
その逸話を伝えるのがこの図。
ここでは単父は衛国領ということになっており、子賤の命令で、漁師は小魚を捕っても逃がしたとある。
なお『孔子家語』では公冶長篇の章を、「魯国に君子が多いから子賤が立派になった」と解し、そのための逸話として以下を載せる。
しかし魯の君子のおかげで子賤が君子になったのなら、同じ環境にある兄の子が君子になれていない理由がない。帝政時代中国の知識人は一般に、やたらと本を読んで物知りだが、論理は実にいい加減で、同時代の文明圏であるインドが、実に論理にうるさいのとは大きく異なっている。「なんか変や」と思いつつも、古典を伝統通りに読まねばならないという態度は、このあたりから出ているが、現代人には無用の遠慮だろう。
なお『韓非子』には、「宓子賤、西門豹不鬥而死人手」”子賤と西門豹(魏国の名代官)はケンカを避けていたのに、殺されてしまった”と記す。先秦両漢の記事で子賤の目出度くない話はこれが唯一だから、史実かどうかわからないが、何か重大なことが子賤の生涯にあったことを示している。
論語での発言
なし。
論語での記述
- 子謂子賤,「君子哉若人!魯無君子者,斯焉取斯?」(公冶長篇)
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