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論語の人物:司馬耕子牛(しばこう・しぎゅう)

貴公子の生まれながら非業に死んだ悲劇の弟子

至聖先賢半身像「司馬牛」

国立故宮博物院蔵

略歴

?-BC481以降。氏は司馬、名は耕、字は子牛。百度百科によると姓は向。『孔子家語』によると宋の出身で、兄は孔子の命を狙った宋国司馬(元帥)の桓魋(カンタイ)だという。しかし孔子の子孫で前漢時代の儒者だった孔安国によると、名は犁(リ)で、『左伝』にある司馬牛のことだとし、司馬耕とは別人だという。

今仮に別人ではなく、統一して司馬牛と呼ぶことにすると、孔子の弟子で、宋国元帥の家から出た貴公子で、兄とは立場を異にしたことになる。兄が宋で失脚して亡命した際、司馬牛も自領を返上して亡命し、東へ南へと各国を流浪した後、なぜか魯で変死している。

一つの見方として、孔子一門には珍しい貴公子の出であることから、宋国での活動拠点を孔子一門に提供し、あるいは宋国で政治工作を行ったが、亡命しても孔子一門がかくまわなかったので、怒った桓魋が孔子を襲ったという筋立てが考えられる。

『史記』の記述では理由無く孔子を襲ったことから、後世での桓魋は悪人呼ばわりされているが、無関係の曹国人を政争に巻き込まないよう配慮したりと、常識人どころか戦乱の世には珍しい人情家で、理由もなく孔子を襲うとは考えづらい。

いずれにせよ当の司馬牛は孔子一門に報われることもなく、変死を余儀なくされた悲劇の人になる。

司馬牛は代々宋国の元帥(司馬)を務めた名門の家柄で、孔子一門には珍しく貴公子だった。革命を目指す孔子がその地位を見逃すはずはなく、現に司馬牛は孔子に付き従わず、教えを受けた後は故国の宋に帰郷して、宋国貴族の一員として生活している。

ここから先は必ずしも史料の裏付けはないが、孔子は司馬牛に、宋国内での政治工作を担当させただろう。司馬牛の兄は現職の宋国元帥で、国君からの寵愛も篤い有力者だった。当然、浪人中の孔子や一門には手に入らない情報も、司馬牛ならば手に入っただろう。

ところが兄の桓魋カンタイ元帥が失脚し、斉に亡命することになった。司馬牛もそれに伴い宋国内の官位と領地を返上して亡命したが、なぜか兄を避けるように逃げ回っている。桓魋が来ることになった斉からも出奔し、呉に向かったがそこでも追われて結局魯に向かった。

子貢 遊説
呉は孔子一門と関係が深い国でもある。子貢を遣わせば、例えば司馬牛を放逐させるなど簡単だったろう。そして魯に向かった司馬牛は、なぜかそこで変死を遂げる。そして本章のこの問答であり、孔子にはむしろ司馬牛はいなくなってくれた方が都合が良かったように見える。

なぜか。孔子一門の暗部を知りすぎていたからだ。それが世に広まれば、仁だの礼だの普段説いておきながら、お前達は結局政権ほしさのど汚い連中ではないか、そう言われるに決まっている。事実、孔子とすれ違うように春秋戦国時代を生きた墨子が言っている。

墨子
孔子が楚に行くと、白公の陰謀を知りながら、石乞を部下に付けて援助し、楚王は殺されかかった。そして白公は殺されてしまった。(『墨子』非儒篇下)
…子貢は南郭恵子のつてで田常に会い、呉を伐つように勧め、斉国門閥の高・国・鮑・晏氏が、田常が起こそうとしていた乱の邪魔を出来なくさせ、越に勧めて呉を伐たせた。三年の間に、斉は内乱、呉は亡国に向かってまっしぐら、殺された死体が積み重なった。この悪だくみを仕掛けたのは、他でもない孔子である。(『墨子』非儒篇下)

白公というのはもと楚の王族で、太子建の子でまだ幼かった。太子建が秦から正夫人を迎えようとしたとき、その公姫が美女だったため、父親の平王は横取りしたばかりか、太子建とその家族を殺そうとした。白公は幼い手を伍子胥ゴシショに引かれ、呉国に逃亡したが、のち楚に戻った。

しかし成長した白公は王位を狙い、反乱を起こして宰相の子西と将軍の子期を殺し、恵王を捕らえた。石乞はその側近として行動し、恵王を殺すよう白公に進言した。迷っているうちに論語にも名が見える葉公が鎮圧軍として攻めかかり、白公は自殺し石乞はゆで殺された。

この事件は魯哀公十六年(BC479)七月で、孔子は同年四月に世を去っており、さらに『墨子』でこの発言をしている晏嬰アンエイは、BC500年に世を去っている。このつじつまが合わないことから、この話は史実ではないと言われるが、晏嬰の件に目をつぶればそうとも言えない。

桓魋
さて桓魋は孔子とその一門を襲ったことになっており、論語でも史記でもその事件を記す。しかしなぜ桓魋が孔子とその一門を殺そうとするほど憎んだのか、どちらの記事も沈黙していて、儒者は全ての責任を桓魋の人品に押し付ける。しかしそうではないだろう。

貴公子の弟の人の良さに付け込んで、後ろ暗いことをやらせ、それが世間にばれそうになると見捨てて、遂には死に追いやった。兄であり将軍である桓魋が、即座に皆殺しを決意したとして何の不思議もない。だから桓魋の襲撃事件も、史記が言うように宋国滞在中ではなく、孔子が帰国し桓魋が流浪の身となった後のことだろう。おそらく孔子塾を襲撃したと思われる。

論語での扱い

顔淵篇に三章の問答を載せるが、孔子との二章ではいずれも教えを一旦聞いた後で、「それだけですか?」とたたみかけるように再度問い、孔子が言いくるめるように再度答えて問答を終えている。

残り一章は子夏との問答だが、「憂いて曰く」で始まっており、「私だけが兄弟に恵まれない」と嘆いている。これを「居ない」と取れば孔安国の言うように、桓魋の弟ではないことになり、「良い兄弟に恵まれない」と取れば、孔子を襲うような桓魋の弟である可能性が出る。

他の典籍での扱い

孔子の弟子として何をしたかは全く記されていないし、まして政治工作らしきことは書かれていない。「孔子の弟子の司馬牛」として、『史記』に「多言にして躁(悪賢い、または騒がしい)」とあり、素の「司馬牛」という人の行動を、『左伝』が淡々と記しているに止まる。以下引用。

哀公十四年(BC481)…宋では元帥の桓魋への優遇が過ぎて、国公を脅かすほどになっていた。…国公は桓魋を殺そうとし、反乱を起こして失敗した桓魋は…曹国に亡命して人質を取ったが、追っ手が曹国に入ってこれも人質を取ると、桓魋は「それはいけない。すでに殿様に仕えてしくじったのに、この上曹国の民に迷惑をかけるようなことがあれば、どうしようもない。」そこで人質を解放した。

…〔宋国の〕司馬牛は領地と地位の象徴である角形の玉を返上し、斉に行った。

兄の桓魋は衛に逃げた。公文氏が桓魋を攻め、持っていた秘宝の玉を取り上げようとすると、ニセモノを渡して斉に逃げた。斉の実権を握っていた家老・陳成子は、桓魋を迎えて家老格の次卿にした。

司馬牛はまた領地を返上して斉から逃げ、呉に行った。ところが呉の国人から嫌われて追い出されたので、西北の大国・晋の実権を握っていた趙簡子が呼び寄せた。斉の陳成子も同様に呼び寄せたが、どちらにも行かず魯の城門の外で死んだ。

つまり弟子であっても普段は孔子の近くや、孔子塾のある魯国にはおらず、宋で貴族としての生活を送っていたことになる。宋から逃げ出したのは兄に連座してのことだろうが、その後兄が斉に来ると、領地まで貰っていたのに逃げ出している。

しかも二大国の実力者に招かれたのにどちらにも行かず、なぜか魯で、それも門前で、そして死因不明の死を遂げている。なおこの年、孔子はすでに魯国に帰っている。そして論語の泰伯篇などを読むと、司馬牛が追い出された呉国と、孔子一門は相当密接な関係を結んでいる。

どう考えても怪しい。

また、『史記』が「多言にして躁」と記したことも気に掛かる。孔子塾は庶民が貴族に成り上がるための学び舎であり、塾生は入門と共に、過去を一切捨て去らねばならなかった(論語における束脩)。それにもかかわらず司馬牛は、上級貴族の出自を鼻にかけたのかもしれない。

だとするなら孔子が、司馬牛を見捨てたのにも理由がつく。

論語での発言

1

仁は言いにくそうにすることですって? たったそれだけですか!(顔淵篇)

2

君子は恐れず、心配をしないものですって? たったそれだけですか!(顔淵篇)

3

世の誰もが兄弟がいるのに、私だけ独りぼっちで兄弟がいない*。

*「無」ではなく「亡」と書いている。「独りぼっちで死んでしまいそうだ」とも解せる。

論語での記述

  1. 司馬牛問「仁」。子曰、「仁者、其言也訒。」曰、「其言也訒、斯謂之『仁』已夫。」子曰、「爲之難、言之得無訒乎。」(顔淵篇)
  2. 司馬牛問「君子」。子曰、「君子不憂不懼。」曰、「不憂不懼、斯謂之『君子』矣夫。」子曰、「內省不疚、夫何憂何懼。」(顔淵篇)
  3. 司馬牛憂曰、「人皆有兄弟、我獨亡。」子夏曰、「商聞之矣、『死生有命、富貴在天』君子敬而無失、與人恭而有禮、四海之內、皆兄弟也、君子何患乎無兄弟也。」(顔淵篇)
論語人物図鑑
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