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論語の人物:顔回子淵(がんかい・しえん)

論語時代唯一の仁者で孔子さえ畏敬した事になっている弟子第一の逸材

至聖先賢半身像「顔回」
国立故宮博物院蔵

略歴

BC521-BC481。姓は顏(顔)、名は回、字は子淵(しえん)。ゆえに顔淵(がんえん)ともいう。「顔淵」の名が見られるのは「上海博物館蔵戦国楚竹簡」からで、「淵」を「囦」と記す。「囦」は「淵」の甲骨文と原字を共有しているとされる。「顔回」の名が見えるのは、文献時代以降に時代が下る。「顔」は孔子生前、”優れた射手”を意味し、同性の弓の名手の名が『春秋左氏伝』に見える(孔門十哲の謎#もっと侮れない顔氏一族)。

『史記』によれば魯国出身、孔子より30歳年少。論語先進篇2で孔門十哲の一人として「徳行」の弟子とされたが、「顏淵」と敬語で記されており、そう評価したのはおそらく孟子(#孔門十哲の謎#孔門十哲の推挙者は誰か)。孔子に先立つこと二年前に死去し、「天は我を亡ぼせり」と嘆かせた(論語先進篇8)。死去の際貧しさのため、棺を覆う木箱が作れなかったので、顔淵の父親が孔子に車の下げ渡しを願い出ている(論語先進篇7)。

仕官もせず名誉を求めず、貧窮生活にありながら人生を楽しみ、ひたすら仁の修養に邁進したという後世の儒者によるゴマスリ伝説がある。ここから老荘思想発生の一源流とみなす説もあるが、儒者にだまされているだけであり、間抜けだから真に受けない方がいい。

才知に優れた弟子仲間の子貢にも「一を聞いて十を知る」と評されていることになっているがニセモノ(論語公冶長篇8)。顔淵もまた孔子を深く尊敬し、「仰げば尊し」の如き歯の浮くような賛辞を残したことになっているがニセモノ(論語子罕篇11)。

「仁」とは孔子の生前、必ず戦士を兼ねた「君子」=貴族らしさを意味し(論語における「仁」)、「徳」とは素手で人を殴り殺すようなえげつない暴力を含んだ、貴族にふさわしい能力を言う(論語における「徳」)。仁が憐れみ深さ「仁義」となり、徳が「道徳」を意味するようになったのは、早くても孔子没後一世紀に生まれた孟子からになる。

顔淵の本名とあざ名の呼応について、「顔回、字は子淵、淵は回水の意」と字通に言う

書経図説 慄慄深淵図
回水とは渦巻きのことで、甲骨文「淵」の字形はそうなっている。渦を巻くような深さがあるので淵という。日本ではカッパは淵から上がってくることになっているが、普段は水中深くに潜んでいるのだ。中国の顔淵も生前は潜んでいたのだが、没後神サマ扱いされた。

「顔子」とは孔子と同格の敬称で、有子・曽子と並んで宗匠扱いされた。つまりひたすら「偉かった。賢かった」というでっち上げがどしどし付け加わったわけで、とても人間とは思えないような存在に化けた。

儒者のゴマスリを含んだハッタリは、孔子没後一世紀に現れた孟子が始まりだが、存外孟子は、顔淵にごまをすっていない。『孟子』の地の文や弟子の言葉では、顔淵を敬称しているのに、孟子は呼び捨てている

孟子
孟子の弟子か後世の儒者「禹や稷は世を平らげるため、自宅の門を三度通り過ぎても入らなかった。それを孔子は讃えた。一方顔淵先生は、乱れた世の中で貧民街に隠れ住み、粗食で暮らした。常人なら耐えられないが、顔淵先生は楽しく暮らし、孔子はそれを讃えた。」

孟子「禹や稷と、顔回は同じだ。禹は天下に溺死者が出るのを思ったが、自分のせいだった。稷は天下に餓死者が出るのを思ったが、それも自分のせいだった。だから家にも帰らずイソイソ働いた。もし顔淵先生が禹や稷と同じ立場だったら、同じように働いただろう。今仮に、同じ部屋にいる人がケンカを始めるとしたら、ざんばら髪になって冠が飛んでも助太刀しようと思う、これはまあいい。だが近所でケンカがあると聞いて飛び出すのは、血迷ったと言われても仕方がない。部屋に閉じこもっていても、非難は出来ないのだ。」(『孟子』離婁下)

孟子は曽子の系統を引くから、曽子の神格化はさんざんやったが、顔淵に対しては動機が無かったらしい。すると顔淵の神格化は、儒教が国教化された、漢帝国に始まると言る。

顔淵を語り手としただろう初めての本、『公羊顏氏記』十一編があったことが、『漢書』芸文志に記されている。漢帝国で公羊学を提唱したのは董仲舒で、この男は武帝の幼少期のトラウマに付け込んで、変な教えを吹き込み、いわゆる儒教の国教化を進めた。

董仲舒 前漢武帝
董仲舒による顔淵神格化の詳細は、論語先進篇3解説を参照。

だが孔子が一番愛した弟子が顔淵だったことは疑えない。なぜ愛されたのだろうか? それは顔淵が、孔子一門のKGB長官にあたる実力者で、孔子のやらかした政治的悪事の手伝いを、大いにやったからにほかならない。

意外にも孔子一門は、各地で政府転覆を謀る悪党だった。亡命先の衛の霊公に、現代換算で111億円もの年俸を貰いながら国盗りを謀ったり(論語憲問篇20)、諸国の内乱や戦争をけしかけたり(『墨子』非儒篇)、孔子一門のしわざで無念に死んだ人間は数多くいる。

その謀略を支えたのが顔淵と孔子の母(顔徴在)が属した顔氏一族で、その総領が、屋敷を衛国に、山塞を梁父山に構える顔濁スウ親分で、極道と傭兵団を足しっぱなしにしたような存在だった。孔子は生国の魯で失脚すると、一目散に親分の屋敷を目指し、わらじを脱いでいる。

論語での扱い

孔子が最も評価し、期待した弟子であることから、賞賛話ばかり載っている。

いわく、「学問を好み、たった三ヶ月で最高の徳である仁を身につけた。その他の学問は一日かせいぜいひと月だった」「私生活も非の打ち所がない」「子貢どころか自分さえ及ばないと孔子が言った」「八つ当たりや、同じ間違いの繰り返しがなかった」「ボロ家に住んで粗食するのを楽しんだ」などなど。

あまり面白くないし、本当かどうか疑わしくもなる。だが時としてこの世には、信じられないほど高潔な人物が出るから、書いてある通り立派な人物と訳者は判断したいが、こうも論語に儒者のでっち上げが混ざっているとなると、本当だったとは言いかねる。

しかしそれより特筆すべきなのは、論語時代の人間として唯一、孔子が仁者と認めたことで(論語雍也篇7)、孔子ですら自分は仁者でないと言っている(論語述而篇33)のに、顔淵はみごと仁を体現した特別な弟子だった。

他の典籍での扱い

これも論語と同様で、賞賛話どころか、神格化の風味すら付け加わる。従って紹介しても面白くないから、はるか時代が下った明代(1368-1644)の笑い話集、『笑府』から一つ引く。

士(儒者)に好飲宿娼(大酒を食らって女郎屋に通う)なる者有り。〔人聞きが悪くなったので〕賄(まいない)して德行者(役所が発行する、まじめ人間証明書)を得る。或るひとこれをあざ笑いて曰く、聞くに顏子(顔淵)に負郭田(フカクデン、城壁ぎわの畑。肥えているとされる)三十頃(ケイ、畑の広さの単位。ちょっとしたひと財産)有り。いかに窮するを得るやと。一人曰く、他(かれ)簞食瓢飲(タンシヒョウイン、茶碗一杯のめしとふくべの水、粗食)せるゆえを以て、窮し了(おわん)ぬ(財産があるのにこれ見よがしな貧乏生活をしていたから、早死にしたのだ)。又一人曰く、闞飲到去(カンイントウキョ、虎が吠えるように大口を開けて飲み干す)するも多からず。都(みな)德行頭兒(まじめ人間証明書)を買い了ぬ(飲みたければどんどん飲めばいい。飲んだ者はみな、証明書を買えばいいのだから)。〔別の者曰く〕单是(タンシ、ひたすら)嫖飲(ヒョウイン)するは、德行頭兒を買わざるを得ざりなん(簞食瓢飲でなくて单是嫖飲すれば、どのみち証明書を買うしかないに決まっている)。(巻二、徳行)

なお孔子の弟子の子路の義兄に顔濁鄒ガンダクスウがいて、孔子は衛に入るとその屋敷にわらじを脱いだ。下記の通り一説には論語時代の任侠道の大親分だったと言う。孔子の母の名は顔徴在であり、キョウで包囲された時(論語子罕篇5)の従者は顔刻であり、一番期待した弟子が顔淵である。

従って顔氏一族の頭領が顔濁鄒で、衛国を中心に勢力を張っていたとすると、孔子がそれを頼っても不思議はない。顔濁鄒は『孟子集注』によると顔讎由シュウユウで、「衛之賢大夫也」と朱子は言うが、はて。中國哲學書電子化計劃で引いても名が出てこない。

『呂氏春秋』では顏涿聚タクシュウと記されている。

顏涿聚,梁父之大盜也;學於孔子。(『呂氏春秋』孟夏紀・尊師)

盗とは論語時代では本籍を離れて流浪する人間であり(白川静『孔子伝』)、必然的に盗みを働き、集団でいると乱暴狼藉を働くこともあったので、『大漢和辞典』では「匪賊」と訳す。それに「大」が付くとそれは大親分で、梁父というのは山東省(魯も山東省)にある聖山の名。

だから顔濁鄒の子分は、そこを根拠地に活動していたのだろう。しかし大親分ともなると都市の一角に豪邸を構えて、政界財界とちんちんかもかもの関係になること、現代と変わらない。

顔涿聚は『春秋左氏伝』にも名前が載ったれっきとした実在人物で、岩波文庫版の訳によると顔コウと同一人物という。顔庚は魯哀公二十三年(BC471)、晋の知襄子(知伯)が斉を攻めた際、自ら捕虜にした斉の大夫と記されている。衛から斉に移って、貴族になっていたのだ!

論語での発言

1

出来るなら善事を誇らず、苦労を人に押し付けないようにしたいです。(公冶長篇)

2

先生を仰げばますます高く、切り込めばますます固い。前にいるかと思えば、いつの間にか後ろにいる。先生は穏やかに筋道を通して巧みに人を導き、私の知見を文章で広め、礼でけじめを付けた。その指導につい釣り込まれて、止めようとしても止まない。すでに私の才は出し尽くしたが、まだひときわ高くそびえ立っている。付き従おうとしても、手がかりが得られない。(子罕篇)

3

先生が生きておわすのに、何で私めが先に死にましょう。(先進篇)

4

私はぼんくらですが、先生のお話に専念しましょう。(顔淵篇)

論語での記載

  1. 子曰:「吾與回言終日,不違如愚。退而省其私,亦足以發。回也,不愚。」(為政)
  2. 子謂子貢曰:「女與回也孰愈?」對曰:「賜也何敢望回。回也聞一以知十,賜也聞一以知二。」子曰:「弗如也!吾與女弗如也。」(公冶長)
  3. 顏淵、季路侍。子曰:「盍各言爾志?」子路曰:「願車馬、衣輕裘,與朋友共。敝之而無憾。」顏淵曰:「願無伐善,無施勞。」子路曰:「願聞子之志。」子曰:「老者安之,朋友信之,少者懷之。」(公冶長)
  4. 哀公問:「弟子孰為好學?」孔子對曰:「有顏回者好學,不遷怒,不貳過。不幸短命死矣!今也則亡,未聞好學者也。」(雍也)
  5. 子曰:「回也,其心三月不違仁,其餘則日月至焉而已矣。」(雍也)
  6. 子曰:「賢哉回也!一簞食,一瓢飲,在陋巷。人不堪其憂,回也不改其樂。賢哉回也!」(雍也)
  7. 子謂顏淵曰:「用之則行,舍之則藏,唯我與爾有是夫!」子路曰:「子行三軍,則誰與?」子曰:「暴虎馮河,死而無悔者,吾不與也。必也臨事而懼,好謀而成者也。」(述而)
  8. 顏淵喟然歎曰:「仰之彌高,鑽之彌堅;瞻之在前,忽焉在後。夫子循循然善誘人,博我以文,約我以禮。欲罷不能,既竭吾才,如有所立卓爾。雖欲從之,末由也已。」(子罕)
  9. 子曰:「語之而不惰者,其回也與!」(子罕)
  10. 子謂顏淵,曰:「惜乎!吾見其進也,未見其止也。」(子罕)
  11. 德行:顏淵,閔子騫,冉伯牛,仲弓。言語:宰我,子貢。政事:冉有,季路。文學:子游,子夏。(先進)
  12. 子曰:「回也非助我者也,於吾言無所不說。」(先進)
  13. 季康子問:「弟子孰為好學?」孔子對曰:「有顏回者好學,不幸短命死矣!今也則亡。」(先進)
  14. 顏淵死,顏路請子之車以為之椁。子曰:「才不才,亦各言其子也。鯉也死,有棺而無椁。吾不徒行以為之椁。以吾從大夫之後,不可徒行也。」(先進)
  15. 顏淵死。子曰:「噫!天喪予!天喪予!」(先進)
  16. 顏淵死,子哭之慟。從者曰:「子慟矣。」曰:「有慟乎?非夫人之為慟而誰為!」(先進)
  17. 顏淵死,門人欲厚葬之,子曰:「不可。」門人厚葬之。子曰:「回也視予猶父也,予不得視猶子也。非我也,夫二三子也。」(先進)
  18. 子曰:「回也其庶乎,屢空。賜不受命,而貨殖焉,億則屢中。」(先進)
  19. 子畏於匡,顏淵後。子曰:「吾以女為死矣。」曰:「子在,回何敢死?」(先進)
  20. 顏淵問仁。子曰:「克己復禮為仁。一日克己復禮,天下歸仁焉。為仁由己,而由人乎哉?」顏淵曰:「請問其目。」子曰:「非禮勿視,非禮勿聽,非禮勿言,非禮勿動。」顏淵曰:「回雖不敏,請事斯語矣。」(顏淵)
  21. 顏淵問為邦。子曰:「行夏之時,乘殷之輅,服周之冕,樂則韶舞。放鄭聲,遠佞人。鄭聲淫,佞人殆。」(衛靈公)
論語人物図鑑
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