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論語の人物:顓孫師子張(せんそんし・しちょう)

見た目が立派なあまり兄弟弟子から嫌われてしまった孔子塾のやんちゃ坊主

至聖先賢半身像「子張」
国立故宮博物院蔵

略歴

BC503年 - ?。孔子の直弟子。姓は顓孫(せんそん)、名は師、字は子張。 陳国出身で、『史記』仲尼弟子列伝によれば、孔子より48年少。

『春秋左氏伝』荘公二十二年(BC672)によると、陳で太子の禦寇が殺される事件があったときに、陳公の子であった陳完(田斉の祖)と陳顓孫は斉に逃亡した。陳顓孫はそこからさらに魯に逃げたという。子張はその子孫で、陳顓孫の名から顓孫を氏とした可能性がある。 一方、『呂氏春秋』孟夏紀・尊師では、子張が魯の鄙家の出身であったという(『尸子』勧学篇では「駔」(商人)であったとする)。いずれにせよ、貴公子の生まれとは言い難い。

弟子の多くがそうだったように、子張は官界での栄達を求めたが、孔子は子張に政治の才を認めず、かえって危険だと見て、学者への道を進むよう促した形跡がある。

『史記』儒林列伝によると、孔子没後は陳に移ったという。南宋の咸淳3年(1267年)には、祭祀において顔回にかえて子張を十哲に加えた。

姓の顓孫とは、顓なる人物の末裔を意味する。中国史では、超古代にセンギョクという聖王がいたことになっているが、もちろん儒者のラノベである。名の「師」は、もともと出陣を前にして、軍隊が祈りを込めて神に捧げた肉の意があると『字通』はいう。ゆえに軍隊がその原義。

それもまとまった数の軍隊で、「師団」というのはここから来ている。しずかなること林の如くとはいかず、ゆえに「師」には”にぎやか”の意がある。だから人の多い首都を京師という。
あをによし

あざ名の子「張」には、言うまでも無く”盛大”の意味がある。本名とあざ名の呼応をかこつければ、こんなところになるだろうか。その名の通り、”やり過ぎ”子張は弟子仲間から、ちょっとイタい人扱いを受けていた形跡がある。そして仕官や学問業績の記録も無い。

だが孔子はそんな子張を可愛がった。孫ほど年が離れていた上に、何か教えればすぐさま、帯の垂れなど手近な物にメモ書きしたからである。教師としては嬉しい人物で、だから孔門十哲ではないにも関わらず、多くの言葉が論語に残り、あまつさえ子張篇まで出来上がった。

子張はそのあざ名「張」が論語の当時にさかのぼれない事で、子貢と共通する(論語語釈「張」)。だが有若澹台滅明タンダイメツメイと違って「実在しなかった」では論語が崩壊する。荀子の証言にも戦国時代に子張派があったというから、おそらく戦国時代になってから付けられた、「あざ名」ではなく「あだ名」”出しゃばりな奴”だろう。

付けたのはもちろん曽子派である。「こんな奴とは仁を実践しがたい」(論語子張篇16)とこき下ろしたのが曽子だからだ。秦漢帝国の官僚儒者は、もれなく曽子派の系統だから、論語編集の過程で呼び名が「子張」に統一されたと考えるのが、最も単純と考える。

論語での扱い

孔門十哲には含められていないが、『論語』では子路子貢に次いで出現回数が多い。全二十篇のうち第十九篇は「子張篇」と呼ばれている。師の孔子からは「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」で「過ぎたる」と評された(先進篇)。 また、同門の曽子は、「風采が立派だが、ともに仁をなすことは難しい」、子遊は「才覚はあるが人が悪い」などと評している(子張篇)。

確かに同世代からはそう見えようが、孔子にとっては孫の如きやんちゃ坊主だろうし、ずいぶん可愛がられていた形跡がある。

他の典籍での扱い

『孟子』に伝えるところでは、孔子没後有若を後継者に据えようとした一人である。曽子の反対や、有若の不出来もあってこれは実現しなかった。『礼記』檀弓篇には、病に死を覚悟して「君子の生涯は終わると言い、凡人の生涯は死ぬという。私もそろそろだな」と言っている。

『韓詩外伝』巻九では、自分と議論して激高する子夏をたしなめている。『孔子家語』では、孔子に「自分より頼もしく賢い」と評されている。また「人は見かけによらない、それを子張で悟った」ともある。弟子仲間からは友達付き合いされたが、尊敬はされなかったともある。

『韓非子』顕学篇には儒家八派のひとつとして「子張の儒」があったとある。

荀子
子張の儒は『荀子』非十二子篇では「腐れ儒者」と非難されている。

弟陀其冠、衶禫其辭、禹行而舜趨、是子張氏之賤儒也。

冠を縮こまらせ、口数を減らして立場をごまかし、いにしえの聖王の掟だと言いながら、奇妙な歩きや小走りを見せつけるのが、子張の系統を引く腐れ儒者だ。(『荀子』非十二子篇)

『礼記』檀弓上には、子張の子の申祥、および子張の弟子の公明儀の名が記されている。

『大載礼記』子張問入官篇では、孔子は子張に政治向きではない性格を見ていたと思わせる記述がある。

子張問入官於孔子,孔子曰:「安身取譽為難也。」子張曰:「安身取譽如何?」孔子曰:「有善勿專,教不能勿搢,已過勿發,失言勿踦,不善辭勿遂,行事勿留。君子入官,自行此六路者,則身安譽至,而政從矣。

子張、官に入るを孔子於(に)問うて、孔子曰く、「身を安らかにして誉れを取るを難しと為す也」と。子張曰く、「身を安らかにして誉れを取るに如何」と。孔子曰く、「善(のう)有りて専らにする勿れ、教えて能わ不るに搢(まじわ)る勿れ、已に過ぎたるに発(いか)る勿れ、言を失いて踦(かく)す勿れ、善あら不して辞むるを遂う勿れ、事を行いて留める勿れ。君子官に入るは、此の六つの路を行く自り者(は)、則ち身を安らかにして誉れを至し、而て政従わるる矣(なり)。

子張が仕官を孔子に問うた。孔子は「身の安全を保ったまま、名誉を受けることが難しい」と言う。「どうすればいいですか」と子張が問う。孔子は言った。「自分の能力を振り回すな。嫌われるぞ。教えてもどうしようもない連中と交わるな。仲間外れだぞ。他人の過去の間違いを言い立てるな。怨まれるぞ。失言して取り繕うな。笑われるぞ。出来る能もないことを追いかけるな。呆れられるぞ。仕事を溜めるな。バカにされるぞ。この六つに気を付けている限り、身の安全を保ったまま、名誉を受けることができ、民も言うことを聞くのだ。」

孔子のお説教はこの十倍ほど続くが、これは「過ぎて及ばない」子張には無理な注文というもので、逆に「お前は政治に向いていない」と言われたに等しい。

論語での発言

1

士族は命を投げ出して人の危難を救う。
利益を前にする時は筋が通っているかを思う。
祭礼では敬いの心を忘れない。
葬儀では心より悲しむ。

…これでよろしい。(子張篇)

2

大した芸も身に付いていない。
自分の志を信じられない。

そんな奴はな、取り柄以前の問題だ。(子張篇)

論語人物図鑑
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