論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子禽問於子貢曰夫子至於是邦也必聞其政求之與抑與之與子貢曰夫子温良恭儉讓以得之夫子之求之也其諸異乎人之求之與
校訂
諸本
- 論語集釋:漢石經凡「子貢」皆作「子贛」。釋文:「貢」,本亦作「贛」,音同。
東洋文庫蔵清家本
子禽問於子貢曰夫子至於是邦也必聞其政求之與抑與之與/子貢曰夫子温良恭儉讓以得之夫子之求也其諸異乎人求之與
- 「異」字は〔甲共〕。「韓勅造孔廟禮器碑」刻。
後漢熹平石経
…與意予之與子贛白夫子…㕥得之夫子之求之也…
- 「㕥」字:「以」の異体字。
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子禽問於子贛曰、「夫子至於是邦也、必聞其政。求之與、意與之與。」子贛曰、「夫子溫、良、恭、儉、讓、以得之。夫子之求之也、其諸異乎人求之與。」
復元白文(論語時代での表記)
讓
※贛→(甲骨文)・溫→(甲骨文)・恭→共・儉→虔。論語の本章は、「儉」「讓」の字が論語の時代に存在しない。「問」「必」「其」「與」「抑」「異」「乎」の用法に疑問がある。漢の高祖劉邦の名を避諱していない。本章は漢帝国以降の創作である。
書き下し
子禽、子贛於問ふて曰く、夫子の是の邦於至る也、必ず其の政を聞く。之を求むる與、之に與るを意はん與。子贛曰く、夫子は溫良恭儉讓、以て之を得たり。夫子の之を求むる也、其れ諸と人之を求むる乎は異ならん與。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子禽が子貢に質問した。「孔子先生は旅の間に諸国を巡ると、必ずその国の政治に関わります。自分から求めたのでしょうか、関わりたいと願ったからなのでしょうか。」
子貢が言った。「先生は温和で善良でうやうやしく慎み深く控えめだから政治を任されたのだ。先生が(政治の実権を)求めたのは、いろいろな点で人々が(同じ政治の実権を)求めるのとでは違うのだろうよ。」
意訳
子禽「どうにもみっともない。孔子先生は諸国をうろついて、執念深く官職あさりばかりしていたじゃないですか。これじゃ権力亡者のクソじじいと言われても仕方ないでしょう?」
子貢「コラ! 先生は人間が出来ているから政治を任された。世の権力亡者とは違うのだぞ、たぶん*。」
子禽「たぶん?」
*「與」を疑問辞としてまじめに訳すとこうなる。
従来訳
子禽が子貢にたずねた。――
「孔先生は、どこの国に行かれても、必ずその国の政治向きのことに関係されますが、それは先生の方からのご希望でそうなるのでしょうか、それとも先方から持ちかけて来るのでしょうか。」
子貢が答えた。――
「先生は、温・良・恭・儉・譲の五つの徳を身につけていられるので、自然にそうなるのだと私は思う。むろん、先生ご自身にも政治に関与したいというご希望がないのではない。しかし、その動機はほかの人とは全くちがっている。先生にとって大事なのは、権力の掌握でなくて徳化の実現なのだ。だから、先生はどこの国に行つても、ほかの人達のように媚びたり諂ったりして官位を求めるようなことはなさらない。ただご自身の徳をもって君主にぶっつかって行かれるのだ。それが相手の心にひびいて、自然に政治向きの相談にまで発展して行くのではないかと思われる。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子禽問子貢:「老師每到一個地方,就能瞭解到該地的政事,是求來的?還是人家自願告訴的?」子貢說:「老師憑著溫和、善良、恭敬、節儉、謙讓的品德得來的。老師的請求,與普通人的請求大概不同吧?」
子禽が子貢に質問した。「先生はある地方に着くと、すぐにその土地の政治を理解できます。これは求めてそうなったのですか? それとも人々が願って事情を話すのですか?」
子貢が言った。「先生は温和と、善良と、敬虔と、慎みと、謙遜の品格を基礎にして〔政治を〕理解するのだ。先生の願う所は、普通の人の願いとはほとんど同じ所が無いのだ。」
論語:語釈
子禽(シキン)
(甲骨文)
論語の本章では孔子の一門で、子貢の弟弟子。ただし孔子との直接対話の記録が無く、直弟子ではないように思われる。孔子より先立った孔鯉との対話が論語季氏篇16にあるので、孔子生前に孔子家に出入りはしていただろうが、当時から弟子だったかどうか。単に子貢の弟子と解した方が、さまざまな説明がすっきりする。
姓は陳、諱は亢。『孔子家語』に依れば孔子より40年少。論語の中でもたびたび兄弟子の子貢と孔子を比較し、「子貢の方が上」と言っており(論語子張篇19)、孔子に批判的だった。
子禽の「子」は、貴族や知識人への敬称。禽は、”とり”のこと。漢文では中国人の偉さを表現する際、異民族を「禽獣の輩」(トリやケダモノ同然の連中)・「魚鼈に塗れる」(魚やスッポンと同居する)などという。詳細は、論語語釈「子」・論語語釈「禽」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。原義=甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
子貢(シコウ)→子贛(シコウ)
「貢」(甲骨文)
BC520ごろ-BC446ごろ 。孔子の弟子。姓は端木、名は賜。衛国出身。論語では弁舌の才を孟子に評価された、孔門十哲の一人(孔門十哲の謎)。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて、外交官、内政官、大商人として活躍した。
『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。子禽だけでなく、斉の景公や魯の大夫たちからも、孔子以上の才があると評されたが、子貢はそのたびに否定している。
孔子没後、弟子たちを取りまとめ葬儀を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。孔子一門の財政を担っていたと思われる。また孔子没後、礼法の倍の6年間墓のそばで喪に服した。斉における孔子一門のとりまとめ役になったと言われる。
詳細は論語の人物:端木賜子貢参照。
子貢の貢は、文字通り”みつぐ”ことであり、本姓名の端木賜と呼応したあざ名と思われる。所出は甲骨文。『史記』貨殖列伝では「子贛」と記し、「贛」”賜う”の初出は楚系戦国文字だが、殷墟第三期の甲骨文に「章丮」とあり、「贛」の意だとされている。詳細は論語語釈「貢」を参照。
漢石経では「子贛」と記す。『論語集釋』によれば全て「子贛」と記すという。定州竹簡論語でも、多く「」と記す。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。
なお「曰」を「のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
夫子(フウシ)
(甲骨文)
論語の本章では”孔子先生”。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。詳細は論語語釈「夫」を参照。
至(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”(その国に)到着する”。甲骨文の字形は「矢」+「一」で、矢が届いた位置を示し、”いたる”が原義。春秋末期までに、時間的に”至る”、空間的に”至る”の意に用いた。詳細は論語語釈「至」を参照。
是(シ)
(金文)
論語の本章では”とある”。「是邦」で”(多数ある諸侯国のうちの)とある国”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
邦(ホウ)
(甲骨文・金文)
論語の本章では、建前上周王を奉じる”諸侯国”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「田」+「丰」”樹木”で、農地の境目に木を植えた境界を示す。金文の形は「丰」+「囗」”城郭”+「人」で、境を明らかにした城郭都市国家のこと。詳細は論語語釈「邦」を参照。
同じ「くに」でも、「國」(国)は武装した都市国家を言う。詳細は論語語釈「国」を参照。
現伝の論語が編まれたのは前後の漢帝国だが、「邦」の字は開祖の高祖劉邦のいみ名(本名)だったため、一切の使用がはばかられた。つまり事実上禁止され、このように歴代皇帝のいみ名を使わないのを避諱という。王朝交替が起こると通常はチャラになるが、定州竹簡論語では秦の始皇帝のいみ名、「政」も避諱されて「正」と記されている。
本章では「邦」の字を使っていることから、おそらく後漢滅亡後に作られた話と思われる。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで下の句とつなげる働きに用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
必(ヒツ)
(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は長柄武器の柄で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
聞(ブン)
(甲骨文1・2)
論語の本章では”関わる”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。詳細は論語語釈「聞」を参照。
甲骨文の字形から考えて、”政務を決裁する”の語義は当初よりあったと思われる。
「政をきく」と読む句に、他に「聴政」がある。この場合も”臣下の提言を聴いて裁可する”の意味で、”政治を摂る”こと。「垂簾聴政」という言葉が漢語にはあり、実権の無い皇帝の、玉座の後ろにすだれを掛け、その後ろに実権者の母后や皇后が座って政務の決済をした。唐の高宗、清の同治帝などがその例。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
おなじ「これ」と訓読する中でも、「此」が直近の事物を指すのに対して、やや遠い事物を指す。「夫子至於是邦也、必聞其政」では、「是邦」を意味する。
政(セイ)
(甲骨文)
初出は甲骨文。ただし字形は「足」+「丨」”筋道”+「又」”手”。人の行き来する道を制限するさま。現行字体の初出は西周早期の金文で、目標を定めいきさつを記すさま。原義は”兵站の管理”。論語の時代までに、”征伐”、”政治”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「政」を参照。
定州竹簡論語では「正」と記し、理由は恐らく秦の始皇帝のいみ名を避けたため(避諱)。『史記』で項羽を本紀に記し、正式の中華皇帝として扱ったのと理由は同じで、前漢の認識では漢帝国は秦帝国に反乱を起こして取って代わったのではなく、正統な後継者と位置づけていた。
求(キュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”もとめる”。初出は甲骨文。ただし字形は「豸」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。論語の時代までに、”求める”・”とがめる””選ぶ”・”祈り求める”の意が確認できる。詳細は論語語釈「求」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”・”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
漢石経も唐石経も、「夫子之求之也」と「求之也」と記している。対して東洋文庫蔵清家本では「夫子之求也」とあり「求也」と「之」を記さない。時系列では「之」のある漢石経が古く、ゆえに東洋文庫蔵清家本には従わなかった。
日本伝承本では、正平本・龍雩本は清家本に従い「之」を記さず、本願寺坊主の手に成る文明本以降は「之」を記す。坊主が中国伝来の論語を参照して訂正した可能性が高いが、文明本には中国伝承にも無い改竄が少なからずあり、坊主の勝手で書き改めた可能性もある。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では、”あたえる”・”…か”と、一般動詞と疑問辞に使われている。後者の語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。”…か”の用法は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「与」を参照。
抑(ヨク)→意(イ)
慶大本以降の現伝論語では「抑」”それとも”と記し、論語の本章に関して現存最古の漢石経は「意」”願う”と記す。時系列に従い「意」と校訂した。
(甲骨文)
「抑」は論語の本章では”…か、それとも…か”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』の第一義は”おさえる”。初出は甲骨文。ただし字形は「卬」(ゴウ)。現行字体の初出は説文解字。甲骨文・金文の字形は「𠂎」(音不明)”手”+「卩」”土下座する人”で、手で人を押さえつけるさまを示す。”そもそも”などの語義は派生義。詳細は論語語釈「抑」を参照。
(金文)
「意」は論語の本章では”願う”。初出は西周中期の金文で、ただし字形は「啻」または「𠶷」。西周金文の字形は「辛」”刃物”+「○」+「𠙵」”くち”で、”切り開いて口に出たもの”の意。現伝字形はその下にさらに「心」を加えた字で、”言いたいような思い”の意。「𠙵」が「曰」に変化しているのは、”言葉を口に出した”ことを意味する。同音に「医」の正字の他、意を部品とする漢字群。西周の金文で、おそらく”思い”の意に用いた。詳細は論語語釈「意」を参照。
溫(オン)
(甲骨文)
論語の本章では”温かい”→”温和”。初出は甲骨文。甲骨文が知られるまで、日本の漢字学の解釈では、鍋に火を掛けて熱気が籠もるさま、と解されたが誤り。甲骨文は人を火あぶりにする姿でなければ、水+人+皿(風呂桶)の”風呂”を象形した会意文字。それゆえ『大漢和辞典』にも、「温」に”いでゆ”の語釈を載せる。詳細は論語語釈「温」を参照。
良(リョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”善良”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、「日」”太陽”+上下の雷文のものが少なからずあり、甲骨文では天体の太陽と自然現象の雷の組み合わせだが、同音に「粱」”アワ”・「量」”食糧”があることから、作物の生長を育む太陽と、窒素固定で土壌を豊かにする雷の組み合わせ、すなわち原義は”利益をもたらすもの”。雷は金文に至って、神を意味するようになる。甲骨文では”良好”のほか、地名人名に用いる。金文でも同様、戦国の竹簡では”賢者”を意味するようになる。詳細は論語語釈「良」を参照。
恭(キョウ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”つつしみ”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。原字は「龏」とされ、甲骨文より存在する。近音の「共」に、”謹んで従う”の用例が論語の時代までにある。「共」の初出は甲骨文。字形は「共」+「心」で、ものを捧げるような心のさま。詳細は論語語釈「恭」を参照。
儉(ケン)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”つつましい”。新字体は「倹」。確実な初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「虔」。同音は存在しない。字形は「亻」”人”+「僉」(㑒)で、初出が春秋末期の金文である「僉」の字形は、「亼」”あつめる”+「兄」二つ。「兄」はさらに「口」+「人」に分解でき、甲骨文では「口」に多くの場合、神に対する俗人、王に対する臣下の意味をもたせている。「儉」は全体で、”多数派である俗人、臣下らしい人の態度”であり、つまり”つつしむ”となる。詳細は論語語釈「倹」を参照。
讓(ジョウ)
(晋系戦国文字)
論語の本章では”人に譲る”。新字体は「譲」。初出は晋系戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。同音は旁に襄を持つ一連の漢字群。字形は「言」+「口」+「羊」で、”羊を供えて神に何かを申す”ことだろう。従って『大漢和辞典』の語釈の中では、”祭りの名”が原義と思われる。さらに”ゆずる”の語義は派生義となる。詳細は論語語釈「譲」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”~で”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
得(トク)
(甲骨文)
初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。
諸(ショ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”もろもろ”。多くの漢和辞典は論語の本章を引いて、「之於」(シヲ)と音が通じるので一字で代用した言葉とし、”~を…において”と説明しているが適切でない。まず論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。次に、先秦両漢で「諸」を「之於」の合音だとする説を記した書籍は見られない。論語の本章は文字史から偽作だが、それでも成立は先秦両漢から下らない。従って「之於」と解すべき理由は存在しない。
分化前の「者」の初出は西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。される。金文の字形は「者」だけで”さまざまな”の意がある。詳細は論語語釈「諸」を参照。
異(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”違う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は頭の大きな人が両腕を広げたさまで、甲骨文では”事故”と解読されている。災いをもたらす化け物の意だろう。金文では西周時代に、”紆余曲折あってやっと”・”気を付ける”・”補佐する”の意で用いられている。”ことなる”の語義の初出は、戦国時代の竹簡。詳細は論語語釈「異」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”~と”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、定州竹簡論語に無く、春秋戦国の誰も引用していない。再出は『史記』仲尼弟子伝・子貢の部が初出。後漢になると王充の『論衡』に引用が見られる。
論語の本章の史実性については、上記の検証通り漢字の文字史的にも疑いがあり、漢の高祖劉邦の「邦」の字を置き換えず使っている。漢代では論語の「邦」の字は「國」(国)に書き換えられた(→論語八佾篇22)。だが本章はそうでない上に、定州竹簡論語から漏れている。
竹簡破損の結果である可能性はあるが、本章が論語に加えられたのは漢石経を建てた後漢と見てよい。本章の古注には、後漢儒の鄭玄の注記があるが、おそらく注そのものが偽作。鄭玄は他の箇所では律儀に避諱を守っているのに、この箇所だけ「邦」と言っているからだ。
以上から、本章の成立は孔子生前や直後の時代まで遡れない。もし偽作でなければ、『漢書』芸文志が記す「伝記」から取られた話かもしれない。従って論語の本章が収録されたのは後漢であり、論語としては新しい、と言える。
解説
漢文には王朝ごとの作法があり、当時の王朝の、それまでに即位した皇帝のいみ名(本名)に含まれた字は、使わないのが決まりだった。これを避諱という。王朝が滅びると一旦チャラになるが、後漢は前漢の続きを主張したから、後漢儒も前漢皇帝を避諱して書かねばならない。
詳細はwikipediaを参照。やり方の一つに元の字の最後の一画を欠いて別字と言い張るのがある。中国哲学書電子化計画が載せる古注「論語集解義疏」は、種本が清代の欽定四庫全書で、鄭玄の名を鄭𤣥と記しているのはその一例。康煕帝のいみ名・玄燁をはばかったのである。
避諱していないなら理由は二つで、その文が後世の偽作か、後世に書き換えられたかのどちらかだ。だが儒者による文献の書き換えは通時代的に行われたが、王朝が交替しても既存本の避諱はおおむね継承され、その上に新王朝の避諱が新たに積み重なっていく。
だが新王朝になったからと言って、既存文献の避諱をいちいち書き戻したりしない。
だから偽作の疑いは鄭玄と並んで実在が確からしい馬融の注にもあり、おおむね「邦」の避諱を守っているのに、ある箇所だけ「邦」と言っている(『論語集解義疏』巻七60)。その他の孔安国や包咸は漢儒なのに「邦」と言いたい放題で、ここから孔安国の実在までが疑われる。
それでも包咸にはまだ、「邦」と言っておかしくない理由がある。それは包咸の活動期が前漢が滅びた後であり、後漢が天下統一する前だったからで、統一後も生きてはいたが、すでに書いたものまで書き改めるには至らなかった可能性がある。しかし孔安国は完全にアウトだ。
余話
ちゃっかり引用
「枪杆子里面出政权」(『毛主席語録』5-6)
そして論語の本章には別の新しさもある。文中の「温良恭倹譲」は、「批林批孔」で知られる毛沢東自身が、自分の言葉で引用している。
革命不是请客吃饭,不是做文章,不是绘画绣花,不能那样雅致,那样从容不迫,文质彬彬,那样温良恭俭让。革命是暴动,是一个阶级推翻一个阶级的暴烈的行动。
革命は、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章をねったり、絵をかいたり、刺しゅうをしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級をうち倒す激烈な行動である。(『毛主席語録』日本語版第四版1972年)
下段は中共政府の官製日本語訳だが、否定する対象としながらも、ちゃっかり引用していたのだ。
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