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論語詳解003学而篇第一(3)巧言令色*

論語学而篇(3)要約:後世の創作。おべっかや愛想笑いで近づいてくる奴には、憐れみの心がありはしない。その通りかも知れませんが、孔子先生の生前は、君子には口の上手さが必須の技能でした。そうでないといくさに負けてしまいます。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰巧言令色鮮矣仁

論語陽貨篇17に重出。

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰巧言令色鮮矣仁

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

※ただし論語公冶長篇26

……[言]、令色、足[恭,左丘明]佴之,丘亦佴[之。匿𤇘a而]103……

とある。論語陽貨篇17は本章と同文だが、

子曰:「巧言令色,鮮矣532……

とある。

標点文

子曰、「巧言令色、鮮矣仁。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 言 金文令 金文色 金文 鮮 金文矣 金文仁 甲骨文

※仁→(甲骨文)。論語の本章は、「巧」の字が論語の時代に存在しない。内容的に後世の創作の疑いがある。「令」「鮮」の用法に疑いがある。本章はおそらく、前漢の董仲舒による創作である。

書き下し

いはく、たくみのことのはうるはしのかんばせすくななりよきひとたるを。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「巧みな言葉、うるわしい笑顔だと、少なくなってしまう、憐れみの心が。」

意訳

孔子 人形
おべっかと作り笑いで迫る者には、憐れみの心が少ないのであるぞよ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「巧みな言葉、媚びるような表情、そうした技巧には、仁の影がうすい。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「花言巧語、滿臉堆笑的人,很少有仁愛之心。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「飾り立てた聞き心地の良い言葉と、満面に笑顔をたたえた人には、思いやりの心が甚だ少ない。」

論語:語釈

、「 。」

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。
おじゃる公家 林羅山
この読み下しがいつ始まったかは明瞭でないが、漢語の「曰」に敬語の語義は全く無い。教える者が論語にもったいをつけて世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

巧(コウ)

巧 楚系戦国文字 巧 字解
「巧」(楚系戦国文字)

論語の本章では”よく作られた”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。原義は”細かい細工”。現行字体の偏は工作を意味し、つくりは小刀の象形。

中国の字書に収められた古い文字(古文)では、へんがてへんになっているものがある。上掲楚系戦国文字は、「〒」も「T]もおそらく工具で、それを用いて「又」=手で巧みに細工することだろう。詳細は論語語釈「巧」を参照。

部品の「工」にも”よく作られた”の語義があり、初出は甲骨文。ただし”貢ぐ”以外の動詞、形容詞・副詞としての用例が見られるのは戦国時代からで、論語の時代=春秋時代後期には当てはまらない。

言(ゲン)

言 甲骨文 孔子
(甲骨文)

論語の本章では”ことば”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

令(レイ)

令 甲骨文 令 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「麗」と同じく”うるわしい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「シュウ」”あつめる”+「セツ」”ひざまずいた人”で、原義は”命令(する)”。甲骨文では原義で、金文では”任命する”・”褒美を与える”・”寿命”の語義がある。ただし”美しい”の語義は、初出が前漢初期の『爾雅』で、論語の時代以前に確認できない。詳細は論語語釈「令」を参照。

色(ソク)

色 金文 色 字解
(金文)

論語の本章では”表情”。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。

鮮(セン)

鮮 金文 鮮魚
(金文)

論語の本章では”少ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「羊」+「魚」。生肉と生魚のさま。原義はおそらく”新鮮な”。春秋末期までに、人名、氏族名、また”あざやか”の意に用いた。”すくない”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「鮮」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 孟子
(甲骨文)

論語の本章では、”情け深さ”。初出は甲骨文。原義は敷物に座った貴人。詳細は論語語釈「仁」を参照。情けや憐れみと解するのは、孔子没後一世紀後に生まれた孟子が提唱した「仁義」の語義で、孔子生前の語義ではない。孔子の生前は単に”貴族らしさ”を意味した。詳細は論語における「仁」を参照。

鮮矣仁

倒置表現で、「仁鮮矣」とあるべきところを、「鮮」を強調するために前に出した句形。”仁は甚だしく鮮なのである”という意味。

日本伝承本では、清家本、正平本まではしおらしく古い文字列を伝えたのだが、本願寺坊主の手になる文明本から「鮮矣有仁」と書き換えた。この影響で続く足利本、根本本、懐徳堂本は書き換え後の文字列を伝えている。本場の中国では坊主の勝手は知らないから「有」の無いまま伝えた。

古注は新注が科挙(高級官僚採用試験)のテキストになると、中国では一冊残らず捨てられ消えたが、清代になって古典研究が盛んになると日本から逆輸入した。清儒は(政治的に危なくない部分は)大喜びで古注の文字列をもてはやし、欽定四庫全書版古注には「有」が加わっている。

だが一時の流行りに乗せられない慎重な儒者もいて、こういうデタラメに気付いた。のちに清儒の程樹徳は「俗本妄加字」”下品な本がデタラメに文字を書き加えた”と批判した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

なお年代不明の龍雩本(info:ndljp/pid/2553141)は「鮮矣仁」と記すから、時代が下っても正平本と同程度には古い本だということになる。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

前漢年表

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「巧言令色」は上記論語陽貨篇17の重出のほか、論語公冶長篇24にも見える。だが戦国時代の儒家はおろか、他学派も「巧言令色」を言っていない。再出は前漢後期の劉向による『説苑』臣術篇から。ただし「巧言」に限って言えば、戦国末期の『呂氏春秋』にある。

何謂求諸人?人同類而智殊,賢不肖異,皆巧言辯辭,以自防禦,此不肖主之所以亂也。

呂氏春秋
「人に求める」とはどういうことか? 人間はみな同類だが、頭の程度は異なる。利口もいればバカもいる。だから誰もが口車を回し、自分のバカを隠そうとする。世の中の騒動というのは、たいていこうしたバカの口車から始まる。(『呂氏春秋』論人3)

だが本章は前漢の定州竹簡論語に無い。だから論語の本章には、前漢よりのちに創作された疑いがある。「鮮」を”すくない”と読まねばならないのも不合理で、上記の通り春秋時代の語義でないばかりか、前漢の作とされる『周礼』でも、「鮮」は”生肉”の意で用いられていた。

庖人:掌共六畜、六獸、六禽,辨其名物。凡其死生鮮槁之物,以共王之膳,與其薦羞之物,及後、世子之膳羞。共祭祀之好羞,共喪紀之庶羞、賓客之禽獻。

周礼
庖人(宮廷司厨長)は、六種の家畜・獣・鳥をいずれも管轄し、その善し悪しを鑑定する。生きたものをほふって生肉や干物を作り、他の料理と共に王の膳部に上せたあとで、世継ぎに膳部を進める。祖先祭のお供え物を作り、葬儀のお斎を作り、賓客のトリ料理を作る。(『周礼』天官冢宰88)

従って本章の成立は、あるいは後漢まで下りうるが、同文を含む論語公冶長篇24は、定州竹簡論語に含まれている。従って本章の元ネタは公冶長篇24であり、前漢前半までに作られたと見るべきだが、では一体誰が、何の目的で創作したかについては、論語公冶長篇24余話を参照。

解説

孔子 へつらい
論語の本章とは裏腹に、孔子は巧言令色が常時絶対禁止とは考えておらず、政治工作に必要なら、孔子はためらうことなくへつらいも言った(論語泰伯篇1)。矛盾ではないか、と弟子に不満が出て当然だが、そもそも孔子が「巧言令色」を説かなかったとするならつじつまが合う。

論語で巧言令色や変節をたびたび戒めたのは、それが孔子の言葉ではなく、後世の儒者による社会や初学者への口封じだったからで、孔子生前の君子は、将校として戦場で演説の一つも出来ないと兵が逃げてしまう。口の上手さは君子にとって、必要不可欠な技能だった。

孔門から出陣した冉有と樊遅の記録が、それを物語っている。

師不踰溝,樊遲曰,非不能也,不信子也,請三刻而踰之,如之,眾從之。

春秋左氏伝 定公五年
軍勢が塹壕を越えようとしないので、樊遅が部将の冉有に言った。「越えられないのではありません。あなたを信じていないからです。三度ほど皆を叱咤して、あなたが先頭に立って下さい。」冉有が言う通りにすると、軍勢は前進を始めた。(『春秋左氏伝』哀公十一年2)

孔子生前の君子とは、従軍義務の代わりに参政権を持つ貴族を言う。貴族と言っても領主貴族だけでなく、都市の商工業者を含んだが、戦場ばかりでなく、日常の政務や外交交渉でも、口が上手くないと仕事にならない。かように史実の孔子の教説と、現伝儒教の違いは大きい。

孔子の生まれる前、いくさは君子の仕事で庶民には関係なかった。しかし存命中、訓練や筋力が少なくて済む(クロスボウ)が実用化されると、庶民が徴兵されて戦場に出るようになった。それまでの主役だった戦車に取って代わり、同時に軍の多数が庶民で構成された。

君子は家名に傷が付くことを恐れて、戦場で逃げ出す例は少なかったが、庶民兵は隙あらば逃げだそうとする。それが現在に至る中国兵の常で、それゆえ将校は兵士を叱咤激励して、逃げ出さないように努めねばならない。戦場に出ない帝政期の儒者とは事情がまるで違った。

なお漢語で口上手を「佞」といい、論語にもそれへの非難が載るが、初出は後漢の『説文解字』で、もちろん孔子の言葉ではない。中国史上に演説の記録が極めて少ないのも、儒者が削ってしまったか、儒教的価値観に染まった当人が、権力の座に就いてから消させたからだ。

儒教的価値観に染まらなかった数少ない創業者である始皇帝も、言葉を石碑に刻んで視覚的に見せはしたが、演説の記録は残っていない。その代わり不老長寿のためとして、人前から姿を隠しまでした。世界の古代文明の中で、中国が特異な点の一つにこうした価値観がある。

それがのちに、汗流して働く事を賤しむ習慣を生む。中国の不幸の一つといっていい。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子曰巧言令色鮮矣有仁註苞氏曰巧言好其言語命色善其顔色皆欲令人悅少能有仁也


本文「子曰巧言令色鮮矣有仁」。
注釈。包咸「巧言とはその語り言葉を聞こえよく言うことである。顔つきを見て気分よく作るのは、全て相手を喜ばせるためで、仁の心を持ちうる者は少ないのだ。

新注『論語集注』

子曰:「巧言令色,鮮矣仁!」巧,好。令,善也。好其言,善其色,致飾於外,務以悅人,則人欲肆而本心之德亡矣。聖人辭不迫切,專言鮮,則絕無可知,學者所當深戒也。程子曰:「知巧言令色之非仁,則知仁矣。」


本文「子曰:巧言令色,鮮矣仁!」
巧とはよいということである。令とはうるわしいことである。言葉をよいように飾り、顔つきをよいように作るのは、他人に対する見せかけで、相手を好い気分にしようとする作り事であり、つまり自分勝手を通すためなので本心の道徳は消え失せてしまっている。聖人の言葉は押しつけがましくないにもかかわらず、言葉がはっきりしており、つまり誤魔化そうとするところが全くない。儒学を学ぶ者はこの点について深く自分を戒めるべきである。

程頤「巧言令色が仁の道に外れたことを知れば、それだけで仁を知ったと言いきってよい。」

論語 程伊川
程頤(程伊川)の出任せには呆れるしかない。前章で仁を何と説教したか。

ある人「孝行や年上への奉仕が仁の基礎なら、その二つを実践すると仁者になれますか?」
程頤「なれはしない。仁を実践する始まりが孝行と年上への奉仕なのだ。それは仁の一部であって全てではない。二つを行うのを、仁の基礎を行うというのはよいが、仁の根本を行うというのはよくない。おそらく仁とは人の本性で、二つはそれを発揮した結果だから、人の本性は仁、正義、礼儀、知恵の四つに他ならない。この全てが二つの行為から生まれはしない。仁とは愛に基づくものであり、愛は親族を愛するより強力なものはない。だから孝弟とは、仁の本体ではないか、と書いてあるのだ。」

宋儒のろくでもなさについては、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

余話

沈黙は愚者の美徳

ワーレ 生肉 庖丁

「鮮」ってスッパリ斬れる生肉なんだぜ

道徳的に朱子以降の儒教が大きく影響している我が国では、沈黙は美徳の一つになりうるが、他文明圏では必ずしもそうでない。F・ベーコンが「沈黙は愚者の美徳」と言ったのは、愚者がしゃべると愚かがバレてしまうので、黙っていた方がいいという教訓だった。

決して沈黙そのものに価値を置いたわけではない。古代ギリシアやローマの政治家や将軍は多くの名演説を残しているし、同時代、春秋戦国の中国でも沈黙を美徳とする価値観は無い。しかもそれは孔子の存命中に、軍の主力が歩兵になったことで、より明瞭になっていった。

だが儒者が他人の巧言令色を非難し、自分は常に真意をごまかして巧言令色し始めたのは、秦帝国の時代に博士官として空理空論を説けば済む役人になってからのことで、漢帝国になるとその職域は行政官全般にまで広がった。だがまじめに公務に取り組む者は少数だった。

これは現在に至るまで中国の官界とはそうで、民間人はすっかり公権力による福祉を諦めているから、自助努力する覚悟がある。中国人とワイロが不可分なのも、この民間の諦めにある。たとえば現代中国で、手ぶらで役所へ陳情に行くと「現在研究研究」と追い払われる。

”今検討中だ”の表の意で、”放置する”の裏の意だが、北京語では「シェンツァイ・イェンチュウ・イェンチュウ」と読む。この音の間抜けも相まって、日本人としては呆れるしかない。だが当の中国人は切実だから、始めからワイロを用意して出向く。そのほうが手間が無い。

中国人の不実をなじる声は多いが、実は勘所を間違えているだけだ。中国人はワイロには忠実で、貰い逃げのおそれがほとんど無い。あるとすれば対抗勢力が、より多額のワイロを放ったり強過ぎた場合で、そうなったら何と、負けた側へのワイロの払い戻しがあったりする。

先事後賄,禮也。


きちんと仕事をしてから受け取るのが、ワイロの作法というものですぞ。(『春秋左氏伝』襄公二十八年)

薛霸「…一路護送到滄州,因此下手不得。舍得還了他十兩金子,著陸謙自去尋這和尚便了。我和你只要躲得身子乾凈。」
董超道:「說得也是。」


(上役筋の陸謙からワイロを貰ったおまわりの薛霸は、流罪人の林沖を護送する途中で、謀殺するよう命じられた。だが豪傑の花和尚魯智深にはばまれた上、道中を魯智深がついて見張っている。薛霸は相方の董超に言った。)

薛霸「こんな化け物坊主に見張られては、とうてい林沖を謀殺できない。貰った銀十両のワイロは、陸謙さまに返さにゃならんな。全部この坊主のせいにして、陸謙さまご自身で追い回して貰おう。わしらはただ、坊主を怒らさんよう、道中おとなしくして身を守ればいい。」
董超「そうするしかないなあ。」(『水滸伝』第八回・柴進門招天下客 林沖棒打洪教頭)

『水滸伝』を史書ではないと見下してはならない。芝居台本『水滸伝』は、文字の読めない庶民が文句を言うような、絵空事の世間を描けなかった。古来中国人の九分九厘は庶民である。そっぽを向かれては芝居小屋が潰れる。正史より社会の実態を正しく示していると見ていい。

上掲二つの事例は、いずれも収受双方の関係がその後も続くのが前提で、食い逃げしづらい事情はある。だが「情けは人の為ならず」と日本人は言いながら、「金の切れ」る前に「縁の切れ目」を喜び、他人との付き合いは所詮「旅の恥は掻き捨て」と思っている。

つまり日本人はワイロに不義理で、負けたら最後ワイロの出し損になる場合が多い。合理で判断すると日本人の方が不実で、しかもむやみに笑みを絶やさないから信用できない。中国人に限らず諸外国では、金を出すまで笑まない店員が多く、出しても笑まない者も少なくない。

日本人も自分自身の不実を自覚しているらしく、「煮え切らない」という言葉はしょっちゅう聞く。「竹を割ったような」スパリは賞賛言葉だが、他人に期待しても自分ではやらない。むしろ世間知の無い憐れな奴だとさげすんでいる節さえある。中国人を悪く言えない。

もちろん、だからといって中国人が善人と言えるわけでもない。だが日本人は心からお金を欲しがっているくせに、お金について口にするのを「汚い」とか平気で言う。巧言令色とはまさにこのことで、その結果ワイロよりも権力者の口添えの方が効果があったりする。

これは言い換えると、お金が権力の上へ上へと集まる構造で、だから国会がバラ撒き議員の集まりになりもする。視野を全人類に広げると、こういうからくりは貧しい社会に見られるもので、少数の有力者に多数がぶら下がって生きる世の中だと言える。ところが。

二次大戦の敗戦後、日本は模範的な社会主義社会になり、貧富の差が著しく縮小した。その時代の道徳なら、自助努力は説得力があった。だが二十一世紀の今は元の木阿弥で、その代わり自己責任の声だけが残った。その結果社会から退場せざるを得ない人が増えたが理の当然。

日本の人口が縮小したのは、何も不婚率が上がっただけではない。過去の道徳の呪いである。

『論語』学而篇:現代語訳・書き下し・原文
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