論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰管仲之器小哉或曰管仲儉乎曰管氏有三歸官事不攝焉得儉然則管仲知禮乎曰邦君樹塞門管氏亦樹塞門邦君爲兩君之好有反坫管氏亦有反坫管氏而知禮孰不知禮
校訂
諸本
- 武内本:玷、釋文及唐石経坫に作る。此本(清家本)玷に作るは誤。
※「玷」:音「テン」、訓「欠ける・きず」。
東洋文庫蔵清家本
子曰管仲之器小哉/或曰管仲儉乎/曰管氏有三歸官事不攝焉得儉乎/曰然則管仲知禮乎/曰邦君樹塞門管氏亦樹塞門邦君爲兩君之好有反玷管氏亦有反玷/管氏而知禮孰不知禮
- 「曰然則管仲知禮乎」:京大本、宮内庁本も「曰」を記す。
- 「有反玷管氏亦有反玷」:京大本、宮内庁本も「玷」と記す。
後漢熹平石経
…門國…君爲兩君之好有反…管氏…知禮…
※「國」字の〔或〕は〔幺戈〕。高祖劉邦の避諱か。
定州竹簡論語
子曰:「管中a之器小[哉!」或]□:「管仲儉乎?」曰:「管氏[有三歸,官]58……亦樹塞門。國b君為兩君之好,有反坫,管氏59……
- 中、今本作「仲」。中借為仲。
- 國、今本作「邦」、漢石経作「國」。避高祖劉邦諱、以下同。
標点文
子曰、「管中之器小哉。」或曰、「管中儉乎。」曰、「管氏有三歸、官事不攝、焉得儉。」曰、然則管中知禮乎。」曰、「國君樹塞門、管氏亦樹塞門。邦君爲兩君之好、有反坫、管氏亦有反坫。管氏而知禮、孰不知禮。」
復元白文(論語時代での表記)
攝 焉 坫 坫
※管→官・儉→虔。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「之」「器」「或」「乎」「然」「則」「禮」「孰」の用法に疑問がある。本章は前漢帝国の儒者、おそらく董仲舒による創作である。
書き下し
子曰く、管中之器は小き哉。或るひと曰く、管中儉なる乎。曰く、管氏三たり歸有りしとき、官の事攝らず、焉んぞ儉なるを得むとなす。曰く、然らば則ち管中は禮を知る乎。曰く、國君樹てて門を塞ぐ、菅氏も亦樹てて門を塞ぐ。國君兩り君の好を爲すに反坫有り、菅氏も亦反坫有り。菅氏にし而禮を知らば、孰か禮を知ら不らむ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「管仲の能力は小さいな」。ある人が言った。「管仲は慎み深かったのですか。」先生が言った。「管仲が三人の正妻をめとった時、政治を取らなかった。どうして慎み深いと言えようかと考えた。」ある人「では管仲は礼法は知っていたのですか。」先生が言った。「諸侯は門の内側に塀を建てて目隠しにする。管仲もまた塀を建てた。諸侯は固めの盃の際に、盃を返して置く台を設ける。管仲もまた台を設けた。管仲が礼を知るなら、誰が礼を知らないだろう。」
意訳
孔子「管仲には大した能は無い。」
ある人「無いなりに、慎んだのでしょうか?」
孔子「とんでもない。奥さんを三人も貰い、それにふけって政治を忘れた。」
ある人「では礼法は知っていたんですか?」
孔子「とんでもない。礼法破りの門を建て、礼法破りの宴会席をしつらえたんだぞ?」
従来訳
先師がいわれた。――
「管仲は人物が小さい。」
するとある人がたずねた。――
「管仲の人物が小さいと仰しゃるのは、つましい人だからでしょうか。」
先師がいわれた。――
「つましい? そんなことはない。管仲は三帰台というぜいたくな高台を作り、また、家臣を多勢使って、決して兼任をさせなかったぐらいだ。」
「すると、管仲は礼を心得て、それに捉われていたとでもいうのでしょうか。」
「そうでもない。門内に塀を立てて目かくしにするのは諸侯の邸宅のきまりだが、管仲も大夫の身分でそれを立てた。また、酒宴に反坫を用いるのは諸侯同志の親睦の場合だが、管仲もまたそれをつかった。それで礼を心得ているといえるなら、誰でも礼を心得ているだろう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「管仲真小氣!」有人問:「管仲儉樸嗎?」孔子說:「他家不僅有三個錢庫,而且傭人很多,怎麽儉樸?「那麽管仲知禮嗎?「宮殿門前有屏風,他家門前也有屏風;國宴有酒臺,他家也有酒臺。管仲知禮,誰不知禮?」
孔子が言った。「管仲はまことに気が小さい。」ある人が言った。「管仲は慎む深く素朴でしたか。」孔子が言った。「彼の家にはたった三個の金庫しかなかった。それなのに使用人ははなはだ多かった。どうして慎み深く素朴と言えようか。」「それなら管仲は礼法を知っていたのですか。」「宮殿の門前には目隠し塀を建てる。彼の家にも目隠し塀があった。国家の宴会では盃台を用意する。彼の家にも盃台があった。管仲が礼法を知るなら、誰が知っていただろう。」
※管仲の生きた春秋前期に「銭」は存在しない。
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
管仲(カンチュウ)→管中(カンチュウ)
論語では、かつての斉国の名宰相。?ーBC645。姓は管、名は夷吾、字は仲。中国春秋時代における斉の政治家で、桓公に仕え、覇者に押し上げた。
「管」(前漢隷書)
「管」の初出は前漢の隷書。部品の「官」は同音、初出は甲骨文。字形は「竹」+「官」で、原義は『説文解字』の言う、”笛”だと理解するしか法が無い。論語では斉の名宰相管仲の姓氏として用いるが、当時存在しない字であり、どのように書かれていたかは憶測するしかない。おそらく「官」だったろう。詳細は論語語釈「管」を参照。
「仲」(甲骨文)
「仲」の初出は甲骨文。ただし字形は「中」。現行字体の初出は戦国文字。「丨」の上下に吹き流しのある「中」と異なり、多くは吹き流しを欠く。字形は「○」に「丨」で真ん中を貫いたさま。原義は”真ん中”。「漢語多功能字庫」は「甲金文」というおおざっぱな括りで、「仲」=兄弟の真ん中、次男を意味したという。論語語釈「中」も参照。詳細は論語語釈「仲」を参照。
「中」(甲骨文)
定州竹簡論語の「中」の初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
器(キ)
(金文)
論語の本章では、”人間の器量”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。新字体は「犬」→「大」と一画少ない「器」。字形は中央に「犬」、周囲に四つの「𠙵」”くち”。犬を犠牲に捧げて大勢で祈るさま。原義は大規模な祭祀に用いる道具。金文で人名に用いられた例がある。詳細は論語語釈「器」を参照。
小(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”小さい”。初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、用例を詳しく記さないが、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味した。詳細は論語語釈「小」を参照。
哉(サイ)
(金文)
論語の本章では”…だなあ”。詠歎の意を示す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。
或(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”ある人”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ワク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は「戈」”カマ状のほこ”+「𠙵」”くち”だが、甲骨文・金文を通じて、戈にサヤをかぶせた形の字が複数あり、恐らくはほこにサヤをかぶせたさま。原義は不明。甲骨文では地名・国名・人名・氏族名に用いられ、また”ふたたび”・”地域”の意に用いられた。金文・戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「或」を参照。
儉(ケン)
(秦系戦国文字)
論語の本章では、”つつしみ深い”。新字体は「倹」。初出は秦の戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語の時代の置換候補は「虔」。字形は「亻」”人”+「僉」(㑒)で、初出が春秋末期の金文である「僉」の字形は、「亼」”あつめる”+「兄」二つ。「兄」はさらに「口」+「人」に分解でき、甲骨文では「口」に多くの場合、神に対する俗人、王に対する臣下の意味をもたせている。『魏志倭人伝』で奴隷を「生口」と呼ぶのは、はるか後代の名残。「儉」は全体で、”多数派である俗人、臣下らしい人の態度”であり、つまり”つつしむ”となる。詳細は論語語釈「倹」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…か”。疑問を示す。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
管氏(カンシ)
「氏」(甲骨文)
論語の本章では”管仲と家族や使用人を含めたその一党”。辞書的には論語語釈「氏」を参照。春秋時代では血統を条件にする「姓」に対し、「氏」は山賊のような同業集団でも名乗り得た。論語で文字史的に偽作を疑えない章にも例がある。
子路「孔氏からだ。」(論語憲問篇41)
子路は孔子の母・顔徴在の属した顔氏一族の頭領、顔濁鄒の妹を娶っているから、孔子と縁戚ではあるものの、血統のつながりは無い。「孔氏」とは孔子一門、または孔子を頭領とする政党を意味した。孔子が「管仲」と「管氏」をどう使い分けているのかは、下記・付記を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”持っている”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
三歸(サンキ)
(金文)
論語の本章では”三人の正妻”。「歸」の新字体は「帰」。字形は「𠂤」+「帚」で、凱旋軍を迎える王妃のさま。武内本には「三区の邸宅をいう、一説には三百乗の誤という」とある。詳細は論語語釈「三」・論語語釈「帰」を参照。
官事(カンシ)
(甲骨文)
論語の本章では”政務”。従来の論語本では、「官」kwɑn(平)は「館」kwɑn(去)と同音だから意味が通じて”屋敷の業務”と解する。「館」の初出は秦系戦国文字で、それ以前は部品の「官」が”屋敷”を意味した可能性はあるが、ブツとして証拠が出ていない。「官」」の字形は「宀」”屋根”+「𠂤」”軍隊”で、兵舎に待機した軍隊のさま。原義は”役所”。甲骨文では地名に用い、金文では原義、”管理する”、”官職”、戦国の金文では”広い”の意に用いた。「事」を「ジ」と読むのは呉音。詳細は論語語釈「官」・論語語釈「事」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
攝(ショウ)
(隷書)
論語の本章では(政務を)”執行する”。新字体は「摂」。「セツ」は慣用音。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に「葉」があり、『大漢和辞典』は”おさえる・あつめる”の語釈を載せる。ただし物証として漢代の帛書以前にその語義は確認できない。字形は「扌」+「聶」”とる”で、物事を手に取るさま。原義は”とる”。部品の「聶」の初出は楚系戦国文字。詳細は論語語釈「摂」を参照。
官事不攝(おおやけごととらず)
論語の本章では、”政務をとらない”。
”屋敷の業務を兼任させない”と従来の論語本では解する。武内本には「官ごとに専任の役人をおくなり」とある。しかし「摂」は”とる・従事する”が原義で、”兼ねる”の語義は戦国時代以前には確認できない。『大漢和字典』は「夾に通ず」とあるが、なぜ通じるのか根拠を書いていない。
『学研漢和大字典』の”あわせて手に持つ”から、従来訳のような”兼ねる”意が出たのだろうし、『大漢和辞典』では論語の本章などと共に、『春秋左氏伝』昭公十三年の記事、「羊舌鮒攝司馬」を載せるが、春秋左氏伝の現存する最古の版本は唐代の「開成石経」であり(→京大蔵写本)、かならずしも春秋時代の文字列を伝えているわけではない。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「いずくんぞ」と読んで、”なぜ”を意味する疑問のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
得(トク)
(甲骨文)
論語の本章では”…でありうる”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。
然(ゼン)
(金文)
論語の本章では”それなら”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、「A則B」で”AはBである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章では”身分秩序”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
曰然則管仲知禮乎(いはく、しからばすなはちくわんちうゐやをしるか)
中国伝承論語の定本となっている唐石経は、「焉得儉」と「然則」の間の「曰」を記さない。つまり孔子が、”(管仲は)慎み深いと言えない。だが礼法は知っていたと言えるかも”と続けて言ったことにしている。つまり孔子の管仲評は、”図々しいが作法の範囲内だ”ということになる。
確かに、現存最古の論語本である定州竹簡論語にはこの部分を欠くが、唐が石経を刻む前の隋代までには、日本は論語を輸入し唐石経より古い論語の文字列を伝承していた。それが慶大本であり、清家本である。慶大本は本章を欠くが清家本はあり、「焉得儉」と「然則」の間の「曰」を記す。
つまり孔子が、”(管仲は)慎み深いと言えない”と言ったのに対し、「ある人」が”それでもお作法は知って従ったんでしょう?”と聞き返したことになっている。すなわち孔子の管仲評は”図々しい上に作法も破った”と厳しく、「ある人」の管仲に対する期待を叩き壊している。
唐が石経を刻んだのは王朝が傾いた晩唐のことで、しかも唐朝の都合で論語の文字列を勝手に書き換えた部分がある。一例は論語郷党篇19で、孔子が歌で讃えた「野良トリ」を、唐代の音ではヘンだと言い出し、勝手に「キジ」だと言い出した。つまり「大唐帝国公認」論語も、眉につばを付けねばならない。ゆえに本サイトでは清家本に従い校訂した。
なお論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
邦(ホウ)→國(コク)
(甲骨文・金文)
論語の本章では、建前上周王を奉じる”春秋諸侯国”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「田」+「丰」”樹木”で、農地の境目に木を植えた境界を示す。金文の形は「丰」+「囗」”城郭”+「人」で、境を明らかにした城郭都市国家のこと。詳細は論語語釈「邦」を参照。
同じ「くに」でも、「國/国」は武装した都市国家を言う。詳細は論語語釈「国」を参照。
現伝の論語が編まれたのは前後の漢帝国だが、「邦」の字は開祖の高祖劉邦のいみ名(本名)だったため、一切の使用がはばかられた。つまり事実上禁止され、このように歴代皇帝のいみ名を使わないのを避諱という。王朝交替が起こると通常はチャラになるが、定州竹簡論語では秦の始皇帝のいみ名、「政」も避諱されて「正」と記されている。
現存最古の論語本である定州竹簡論語が「國」とする以上従うほか無いが、唐石経以降が「邦」に改めたのは何らかの根拠があってかどうか分からない。現伝の論語は春秋時代の金文はもちろん、戦国時代の竹簡にも見られず、事実上の成立は前漢中期にいわゆる儒教の国教化が行われた時期だと想像できる。従って「邦」と記した戦国時代以前の出土がない限り、この問題は正解を知る術が無い。
君(クン)
(甲骨文)
論語の本章では”君主”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
樹(シュ)
(甲骨文)
論語の本章では”築造する”。論語では本章だけに登場。初出は甲骨文。「ジュ」は呉音。甲骨文の字形にも金文同様「豆」”たかつき”を添えたものがある。字形は「又」”手”+「木」で、木を植えるさま。原義は”植える”。たかつき=お供えを伴った字は、何らかの宗教的威儀のある植樹を指すと考えるべき。詳細は論語語釈「樹」を参照。
塞(ソク/サイ)
(甲骨文)
論語の本章では”閉じる”→”目隠しする”。論語では本章だけに登場。初出は甲骨文。「ソク」の音で”ふさぐ”を意味し、「サイ」の音で”とりで”を意味する。字形は「宀」”屋根”+「工」”工具”二つ+「廾」”両手”で、両手で建物にかんぬきを掛けるさま。原義は”閉じる”。甲骨文での語義は不明。金文では「息」として国名に、戦国や漢代の竹簡・帛書では原義に用いた。詳細は論語語釈「塞」を参照。
伝統的な中国家屋・四合院。via https://ja.pngtree.com/
門(ボン)
(甲骨文)
論語の本章では”屋敷の門”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形はもんを描いた象形。甲骨文では原義で、金文では加えて”門を破る”(庚壺・春秋末期)の意に、戦国の竹簡では地名に用いた。詳細は論語語釈「門」を参照。
亦(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”…もまた”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
兩(リョウ)
(金文)
論語の本章では”二人の”。新字体は「両」。初出は西周早期の金文。字形は車を牽く家畜のくびきの象形で、原義は不明。金文では”二つ”、量の単位に用いた。詳細は論語語釈「両」を参照。
好(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”親睦”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
反坫(ハンテン)
「反」(甲骨文)/「坫」(隷書)
論語の本章では、飲み終えた盃を反して置く土製の台。爵坫。坫は論語では本章のみに登場。
「反」は”ひっくり返す”で、初出は甲骨文。字形は「厂」”差し金”+「又」”手”で、工作を加えるさま。金文から音を借りて”かえす”の意に用いた。その他”背く”、”青銅の板”の意に用いた。詳細は論語語釈「反」を参照。
「坫」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。論語に次ぐ再出は『墨子』備城門篇で、「百步一木樓,樓廣前面九尺,高七尺,樓囪居坫,出城十二尺。」とあり、”城壁”と解されている。詳細は論語語釈「坫」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”~かつ~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
孰(シュク)
(金文)
論語の本章では”誰が”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章、「管仲之器小哉」は、春秋戦国の誰一人引用せず、再出は董仲舒の「春秋繁露」精華篇の4になる。前漢中期に埋蔵の定州竹簡論語にあることと、論語の時代に存在しない文字、漢字の用法を合わせ考えると、いわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒一派が、論語の本章を偽作したと考えるのが筋が通る。
董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。
解説
中国史上屈指の名宰相と言われる管仲だが、結構ヘマをやらかしている。
まず最初に仕えたのが公子糾で、公子小白(のちの桓公)との政争に敗れて殺された。政争の際、管仲は公子小白を弓で射て倒したのだが、小白は死んだふりをしてその場をしのいだ。即位後は「殺してやりたいから」と魯に逃げていた管仲の引き渡しを求めた。
管仲は高小手に枷をはめられた上に、サルのように車の付いたオリに入れられて引き渡された。小白に仕えていた親友・鮑叔牙の口利きで、小白=桓公はすでに管仲を許し宰相に取り立てる気でいたというのが伝説だが、殺し合いの政争を生き延びた桓公が、そう甘い人物とも思われない。
宰相になった管仲は桓公を中国史上初の覇者に押し上げたが、それは最初の三十年間、小国ばかり相手に軍事介入したからだ。三十年目に調子に乗って南方の大国・楚を攻めたときは、楚軍が余りの大軍で、「何しに来やがった」と楚王に怒鳴られ逃げ帰っている。
四年,春,齊侯以諸侯之師侵蔡,蔡潰,遂伐楚。楚子使與師言曰:君處北海,寡人處南海,唯是風馬牛不相及也。不虞君之涉吾地也,何故,管仲對曰,昔召康公命我先君大公曰,五侯九伯,女實征之,以夾輔周室,賜我先君履。東至于海,西至于河,南至于穆陵,北至于無棣。爾貢包茅不入,王祭不共,無以縮酒,寡人是徵。昭王南征而不復,寡人是問。對曰,貢之不入,寡君之罪也,敢不共給,昭王之不復,君其問諸水濱。
魯の僖公四年(BC656)春、斉の桓公が手下の小国軍を集めて蔡国を攻め、蔡は壊滅した。そのまま調子に乗って楚に攻め込んだ。
楚の成王「お前さん方は北の海に住まい、ワシ等は南の海に住まっておる。牛と馬が同時に盛ってもコトに至らんように、関係の無い間柄だ。いったい何しにワシ等の国に攻め込んだ?」
管仲「えーとですねえ。むかしウチの殿さまが周王陛下に命じられて、諸侯の頭を務めて王室を助けよと命じられましてね。中華東西南北の地を好き勝手に踏み回って良いとお許しがありました。ですから今回も周室の使いでござる。貴国は周室にカヤを納める義務がありながらサボっておられる。それで祭祀の酒が造れなくなって、周室は困っておられる。取り立てに来たから出されよ。またむかし周の昭王陛下が帰国に向かわれたが、行方不明のままになってござる。いったいどういうことでござろう。」
成王「困っておるならワシにも責任があるから、カヤは出してやってもよいが、昭王とやらについては全然知らん。そのあたりの水辺で、土左衛門でも探すんだな。」(『春秋左氏伝』僖公四年。→同じ話の『史記』版の訳)
それより前の二十三年、今の満洲当たりにあったと言われる孤竹国に攻め込んで、一面何も無い曠野(野ざらしのだだっ広い平原)の中で道に迷ってしまい、行くも退くも出来なくなった。動物に詳しい者の機転で、老いた馬の綱を外して放置し、その後を付いていって道を見つけた。
だが道は見つかったが、乾いた大地があるばかりで給水の当てが無い。今度は全軍渇き死にの羽目になりかかったが、虫に詳しい者の機転で、「山の南側にある蟻塚を掘れば水が出る」と教えられてやっと水を得た(『韓非子』説林上)。
もし道も見つからず水も見つからずでは、管仲以下斉の全軍は、あわれ満洲の曠野でむくろをさらす所だった。そんな管仲が論語の本章のような贅沢三昧にふけっても、桓公はとがめなかった。管仲をしっかと政治上の天秤にかけて「よし」と判断したわけで、バカ殿に出来る芸当ではない。
有司請事於齊桓公。桓公曰:「以告仲父。」有司又請。公曰:「告仲父」,若是三。習者曰:「一則仲父,二則仲父,易哉為君!」桓公曰:「吾未得仲父則難,已得仲父之後,曷為其不易也?」桓公得管子,事猶大易,又況於得道術乎?
役人が桓公に決済を乞う。桓公は言った。「仲父(=管仲)に問え。」役人がまた決済を求めた。公は言った。「仲父に問え。」このようなことが三度あった。桓公の近習が言った。「一に仲父、二に仲父。殿様稼業も楽でございますなあ。」桓公が言った。「仲父がいない時には、私はさんざん苦労した。だがすでに、仲父を宰相に据えている。楽をするのも当然だ。」(『呂氏春秋』任数3)
桓公は管仲の死後、小部屋に閉じこめられて飢え死にさせられるなど終わりが良くなかったから、あたかもバカ殿のように思われているが、気宇が壮大だったから、能はあっても失敗もあり、それ以上に人に嫌われやすい管仲を、宰相に据えてその地位をずっと守ってやった。
桓公あっての管仲で、こういう君臣コンビは、なかなか出来るものではない。
余話
孔子不細工説
加地伸行は、孔子の面相について『荀子』を引用して孔子不細工説を言う。
お他人様の面相は、しげしげと鏡を見て身の程を知ってから言った方がいい。
上掲は根拠の無い説ではないが、孔子没後約180年後に生まれた荀子の見てきたような話を、史実としては受け取れない。直弟子の証言によれば、顔つきは温和だったという(論語述而篇37)。男女それぞれに異性に求める面相は違うだろうが、孔子は同性には温和に見えた。
荀子も孔子以外の偉人を何人も取り上げながら、「みなヘンな人相だった。だからと言って偉人でないわけがないではないか」と言っている。孔子の人相を知って言っているのではなく、外見と人格は違うと言いたいがために、孔子なまはげ説を書き記したに過ぎない。
儒者と司馬遷は衛の霊公の夫人、南子が孔子に秋波を送ったとし(論語雍也篇28)、だから南子は淫乱で夫の霊公はバカ殿だと言い回ったが、史実は全然違って、霊公はやり手の殿様で、これは孔子も認めざるを得なかった(論語憲問篇20)。南子の場合は命がかかっていた。
外国出身の南子にとって、身を守るのは霊公の寵愛でしかなく、しかも霊公が先妻との間で儲けた太子の蒯聵は、南子を殺そうとまでした。太子から外されるのを恐れたからだが、暗殺の危険にあって、南子は物騒な弟子を引き連れた大男の武人である孔子をどう見たか。
男の価値は異性にとっても、どうやらイケメンばかりがいいとは限らないらしい。
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