論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「管仲之器小哉。」或曰、「管仲儉乎。」曰、「管氏有三歸、官事不攝、焉得儉*。然*則管仲知禮乎。」曰、「邦君樹塞門、管氏亦樹塞門。邦君爲兩君之好、有反坫*、管氏亦有反坫。管氏而知禮、孰不知禮。」
校訂
武内本
(清家本により儉の下に乎を補う。然の上に曰を補う。)唐石経乎曰の二字なし。玷(テン、かける・きず)、釋文及唐石経坫に作る。此本(清家本)玷に作るは誤。
定州竹簡論語
子曰:「管中a之器小[哉!」或]□:「管仲儉乎?」曰:「管氏[有三歸,官]58……亦樹塞門。國b君為兩君之好,有反坫,管氏59……
- 中、今本作「仲」。中借為仲。
- 國、今本作「邦」、漢石経作「國」。避高祖劉邦諱、以下同。
→子曰、「管中之器小哉。」或曰、「管中儉乎。」曰、「管氏有三歸、官事不攝、焉得儉。然則管中知禮乎。」曰、「邦君樹塞門、管氏亦樹塞門。邦君爲兩君之好、有反坫、管氏亦有反坫。管氏而知禮、孰不知禮。」
復元白文
攝
坫
坫
※管→官・儉→僉・焉→安。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による捏造である。
書き下し
子曰く、管中之器は小さき哉。或るひと曰く、管中儉なる乎。曰く、管氏三歸有りしとき、官の事攝らず、焉んぞ儉なるを得むとなす。然らば則ち管中は禮を知る乎。曰く、國君樹てて門を塞ぐ、菅氏も亦樹てて門を塞ぐ。國君兩君の好を爲すに反坫有り、菅氏も亦反坫有り。菅氏にし而禮を知らば、孰か禮を知らざらむ。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。「管仲の能力は小さいな」。ある人が言った。「管仲は慎み深かったのですか。」先生が言った。「管仲が三人の正妻をめとった時、政治を取らなかった。どうして慎み深いと言えようかと考えた。だから管仲は礼法は知っていた。」ある人が言った。「諸侯は門の内側に塀を建てて目隠しにします。管仲もまた塀を建てました。諸侯は固めの盃の際に、盃を返して置く台を設けます。管仲もまた台を設けました。管仲が礼を知るなら、誰が礼を知らないでしょう。」
意訳
孔子「管仲には大した能は無い。」
ある人「無いなりに、慎んだのでしょうか?」
孔子「とんでもない。奥さんを三人も貰い、それにふけって政治を忘れた。だがこれはいかんと思い直した所は、礼法を知ると言っていい。」
ある人「とんでもない。礼法破りの門を建て、礼法破りの応接間を建てたんですよ?」
孔子「…。」
従来訳
先師がいわれた。――
「管仲は人物が小さい。」
するとある人がたずねた。――
「管仲の人物が小さいと仰しゃるのは、つましい人だからでしょうか。」
先師がいわれた。――
「つましい? そんなことはない。管仲は三帰台というぜいたくな高台を作り、また、家臣を多勢使って、決して兼任をさせなかったぐらいだ。」
「すると、管仲は礼を心得て、それに捉われていたとでもいうのでしょうか。」
「そうでもない。門内に塀を立てて目かくしにするのは諸侯の邸宅のきまりだが、管仲も大夫の身分でそれを立てた。また、酒宴に反坫を用いるのは諸侯同志の親睦の場合だが、管仲もまたそれをつかった。それで礼を心得ているといえるなら、誰でも礼を心得ているだろう。」
現代中国での解釈例
孔子說:「管仲真小氣!」有人問:「管仲儉樸嗎?」孔子說:「他家不僅有三個錢庫,而且傭人很多,怎麽儉樸?「那麽管仲知禮嗎?「宮殿門前有屏風,他家門前也有屏風;國宴有酒臺,他家也有酒臺。管仲知禮,誰不知禮?」
孔子が言った。「管仲はまことに気が小さい。」ある人が言った。「管仲は慎む深く素朴でしたか。」孔子が言った。「彼の家にはたった三個の金庫しかなかった。それなのに使用人ははなはだ多かった。どうして慎み深く素朴と言えようか。」「それなら管仲は礼法を知っていたのですか。」「宮殿の門前には目隠し塀を建てる。彼の家にも目隠し塀があった。国家の宴会では盃台を用意する。彼の家にも盃台があった。管仲が礼法を知るなら、誰が知っていただろう。」
※管仲の生きた春秋前期に「銭」は存在しない。
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
管
(金文)
論語の本章では管仲の姓。語釈としては”ふえ・くだ”。上掲の金文は白川博士オリジナルで、時代が特定できない。確定できる初出は後漢の『説文解字』から。詳細は論語語釈「管」を参照。
管仲→管中
「仲」「中」(金文)
論語では、かつての斉国の名宰相。?ーBC645。姓は管、名は夷吾、字は仲。中国春秋時代における斉の政治家で、桓公に仕え、覇者に押し上げた。
管氏
「氏」(金文)
素直に受け取るなら”管一族”・”管仲の家庭”。孔子が「管仲」と「管氏」をどう使い分けているのかは、下記・付記を参照。
器
(金文)
論語の本章では”能力”。『大漢和辞典』の第一義は”うつわ”。人物の器量、道具、一つの目的しか果たせない人、などいろいろな訳がなされる。詳細は論語における「器」を参照。
儉(倹)
(金文大篆)
論語の本章では、『大漢和辞典』の第一義と同じく”つづまやか”。節約、控えめ。この文字の初出は秦帝国期の金文大篆で、論語の当時は「剣」「険」などと共に「僉」と書かれていたと考えられる。詳細は論語語釈「倹」を参照。
三歸(帰)
(金文)
諸説あるが、論語の本章では”三人の正妻”と解した。武内本には「三区の邸宅をいう、一説には三百乗の誤という」とある。『学研漢和大字典』によると「帰」は、女性が箒を持って家事をする姿が原義という。詳細は論語語釈「帰」を参照。
官
(金文)
論語の本章では”政務”。従来の論語本では、「館」と音が通じ”屋敷の業務”と解する。しかしこれには下記の通り無理がある。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、𠂤(タイ)は、隊や堆(タイ)と同系で、人や物の集団を示す。官は「宀(やね)+𠂤(つみかさね)」で、家屋におおぜいの人の集まったさま。
また、垣(エン)や院(へいで囲んだ庭)とも関係が深く、もと、かきねで囲んだ公的な家屋に集まった役人のこと。▽宦とも書いたが、のち、宦は「宦官(カンガン)」という特殊な役目をさすようになった。館(おおぜいの人の起居する家)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「官」を参照。
攝/摂
論語の本章では(政務を)”我が物とする・とる”。この文字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はi̯apで、同音に葉・妾と、これらを部品とする漢字群など多数。獵(猟。戦国晩期の金文が初出)もその一つであり、i̯apの音には”とる”意があるようだ。葉に『大漢和辞典』は”おさえる・あつめる”の語釈を載せる。
部品の聶(ささやく・とる)は戦国文字が初出。詳細は論語語釈「摂」を参照。
官事不攝(摂)
「摂」(篆書)
論語の本章では、”政務をとらない”。
”屋敷の業務を兼任させない”と従来の論語本では解する。武内本には「官ごとに専任の役人をおくなり」とある。しかし「摂」は”とる・従事する”が『大漢和辞典』の第一義で、”兼ねる”とする理由は「夾に通ず」とあるが、なぜ通じるのか根拠を書いていない。
原義は『学研漢和大字典』によると、会意兼形声文字で、聶は、耳三つを描き、いくつかの物をくっつけることを示す。囁(耳に口をつけてささやく)の原字。攝は「手+(音符)聶」で、あわせくっつけること。散乱しないよう多くの物をあわせて手に持つ意に用いる、という。
『字通』では、『説文』十二上に「引きて持するなり」とあり、衣のすそをとって、整える意の字であろう、という。
『学研漢和大字典』の”あわせて手に持つ”から、従来訳のような”兼ねる”意が出たのだろうし、『大漢和辞典』では論語の本章などと共に、『春秋左氏伝』昭公十三年の記事、「羊舌鮒攝司馬」を載せる。しかしだからといって、”兼ねる”と解釈しなければならない理由はない。
焉
(金文)
論語の本章では”なぜ”。この文字の初出は上掲戦国時代末期の金文で、論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
禮(礼)
(金文)
孔子の生前は、孔子があこがれるように想像し創造した仁者の、詳細なスペック。孔子没後は、儒者がでっち上げた煩瑣な礼儀作法と儀式の式次第、身分別の衣食住制限。文字の原義はたかつきに盛ったお供え。詳細は論語における「礼」を参照。
樹
(金文)
論語では本章だけに登場。『大漢和辞典』の第一義は”樹木”だが、論語の本章では外から門内が見えないように目隠しをする塀。照壁。

伝統的な中国家屋・四合院
via https://ja.pngtree.com/
塞
論語の本章では”目隠しする”。論語では本章だけに登場。詳細は論語語釈「塞」を参照。
反坫(ハンテン)
論語の本章では、飲み終えた盃を反して置く土製の台。爵坫。坫は論語では本章のみに登場。
坫の字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はtiamで、同音に占を部品とする漢字群。それら點(点)、玷(きずつける)、痁(おこりやまい)、いずれも盃台の意味は無い。部品の占も同様。
論語:解説・付記
論語の本章は、諸侯の礼法として目隠し塀をこしらえたとか、反坫を備えたとか、ごてごてとうるさいお作法をでっち上げた、漢代儒者の創作。
従来訳のように、従来の論語本は、本章の切り分けを間違っている。「曰く」でそれぞれの発言を切るべきだろう。『論語集解』を参照すると、この間違いは古注からで、新注の朱子も疑問を抱かなかったようだ。
従来の論語本
- 子曰、「管仲の器は小さき哉。」
- 或曰、「管仲、倹なるか。」
- (子)曰、「管氏に三帰あり、官の事は摂(か)ねさせず、焉(いずく)んぞ倹なるを得ん。」
- (或曰、)「然らば則ち、管仲は礼を知るか。」
- (子)曰、「邦君は樹(た)てて門を塞(ふさ)ぐ、管氏もまた樹てて門を塞ぐ。邦君、両君の好(よし)みを為すに、反坫あり。管氏もまた反坫あり。管氏にして礼を知らば、孰ぞ礼を知らざらん。」
3と4を勝手に切り、4の頭に「或曰」を補い、5を孔子の言とする。だから3の「官事不攝」を、”屋敷の業務を分担させない”という、でっち上げたような妙な訳をする。しかし摂政というように、官事を摂(と)ると言えば政治を行うことで、管仲は斉の名宰相だった。
冒頭で孔子が「管仲は器が小さい」と言っている事から、管仲に対して否定的な言葉は全て孔子の言としたのだろう。加えて、門の塞ぎや反坫といったウンチクは、知識に優れた孔子が言ったに違いないとの思い込みがある。儒者がいかに当てにならないか、おわかりだろうか。
訳者による切り分け
- 子曰、「管仲の器は小さき哉。」
- 或曰、「管仲、倹なるか。」
- (子)曰、「管氏に三帰あり、官の事を摂(と)らず。焉(いずく)んぞ倹なるを得んとす。然らば則ち、管仲は礼を知るか。」
- (或)曰、「邦君は樹(た)てて門を塞(ふさ)ぐ、管氏もまた樹てて門を塞ぐ。邦君、両君の好(よし)みを為すに、反坫あり。管氏もまた反坫あり。管氏にして礼を知らば、孰ぞ礼を知らざらん。」
論語における、孔子による管仲の評価は一定しており、論語最上の徳とされる「仁」=貴族らしさを身につけていると評価する(論語憲問篇17)。器が小さいのは大した問題ではなく、贅沢してはっと我に返った=礼を知るのだから、当然仁を身につけていることになる。
論語に言う仁-礼-知の関係は、まず孔子が想定した「貴族らしさ」が仁であり、仁の定義が礼であり(論語顔淵篇1)、礼を知ることが知だった。管仲は孔子のメガネにかなう、立派なサムライだったのだ。
なお露悪的に考えると、「管仲は奥さん三人ごときで政治を忘れた。器の小さいお人だ」と孔子が言ったとも考えられる。衛国の霊公夫人、南子の誘惑をはねのけて見せた孔子は(論語雍也篇28)、自分の性●制御に自信があったのだろう。朱子のごとき助平の及ぶ所ではない。
さて、ここで以上をあるいはブチ壊す話をせねばならない。日本の清家本と中国の唐石経を校訂した武内本によると、清家本では論語の本章はこうなっていたという。太字が上掲原文と違う箇所。
太字のうち玷は坫の誤りと武内本も指摘するが、新たに加わった「乎・曰」は、清家本が正しいとすると、「どうして管仲が慎ましいと言えよう」と「では管仲は礼を知っているか」の間で話者が孔子から「ある人」へ移ったことになる。そうすると従来訳が正しいことになる。
この異同はおそらく清家本を引いたであろう、大坂・懐徳堂の『論語義疏』でも同じであり、皇侃の疏(注の注)も「又或人問也」とあって、「乎・曰」があろうとなかろうと、日中で話者が入れ替わったと解釈していることになる。ただし皇侃の疏には根拠が記されない。
皇侃以前の注釈として、『論語義疏』には「苞氏曰、或人以儉問、故荅以安得儉、或人聞不儉、更謂為得知禮也」とあり、後漢の時代にはやはり話者が入れ替わったと解釈されていたことを示す。ただし後漢の儒者はごますりがひどく、あまり信用できないように訳者は思う。
どちらが正しいか、それは武内本でさえ言明を避けており、訳者ごときの及ぶ所ではない。清家本が唐石経より古いとは必ずしも言えず、古いから正しいとは言えないからだ。ただ、さすがの孔子先生も反論されて口ごもることもあったのかと、微笑ましく思いたい。
なお論語の本章についてはもう一つ、捨てきれない別の解釈がある。「管氏有三歸、官事不攝、焉得儉。」の「焉」が、句頭ではなく句末の助辞だったとするとどうなるか?
管氏三たり帰有るに、官事摂らざり焉もて、倹を得たり。然らば則ち管仲礼を知る乎。
管氏が妻を三人娶った時、政務を放り出したことで、やっと家政を取り締る余裕が出来た。となると管仲は、(取り締まりの原則である)礼だけは知っていたんだろうか。
「倹」(篆書)
「焉」は句末では完了・断定を意味する。「倹」は金銭を節約することである事と同時に、原義は大勢の人やものを取り締まること、と『学研漢和大字典』はいう。この解釈が正しいとすると、論語の本章全体を再解釈する必要がある。
或る人:でも家政をビシッと取り締まってはいたんでしょう?
孔子:それでも漢として小さい小さい。妾にしておけばいいものを、管一族の繁栄に焦って、三人も正妻をめとった挙げ句、とても面倒が見きれず、政務を放り出して、やっとのことで家政を治める余裕を作った。まあそれでも、家政取り締まりの原則としての礼は、一応知っていたことにはなるがな。
或る人:でも礼法破りの門を建て、分不相応の応接間をしつらえました。管仲程度の知識で礼を知っているなんて言ったら、世間の誰もが知っている事になってしまいますよ。
孔子:ホホホ。それはそうじゃなあ。
訳者は存外、これが正解なのではないかと思っている。