論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰弟子入則孝出則弟謹而信汎愛衆而親仁行有餘力則以學文
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰弟子入則孝出則悌謹而信汎愛衆而親仁行有餘力則以學文
後漢熹平石経
子白弟子…
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「弟子入則孝、出則悌、謹而信、汎愛衆而親仁。行有餘力、則以學文。」
復元白文(論語時代での表記)
汎
※悌→弟・愛→哀・仁→(甲骨文)。本章は「汎」の字が論語の時代に存在しない。「信」「行」「餘」「文」の用法に疑問があり、これらの文字を外すと成立しない。本章は戦国時代以降、おそらく孔子没後一世紀に現れた孟子による創作である。
書き下し
子曰く、弟子入りては則ち孝、出でては則ち悌、謹ん而信あり、衆を愛するを汎くし而仁に親け。行ひて餘れる力有らば、則ち以て文を學べ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。若者は、自宅では年上に孝行し、外では年長者を敬い、行いを謹んで約束を守り、人を大切にする対象を広げて情け深い教養人に近づきなさい。それが出来てまだ余裕がある、それならそれ(=余力)で本を勉強しなさい。
意訳
君たち若者よ。年上には懐け。手本となる情け深い教養人に出会うために。同世代や年下には、ウソをつかず意地悪をするな。以上が出来れば十分で、勉強はそれが出来てからにしろ。人でなしが学んでも一層の人でなしが出来るばかりだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「年少者の修養の道は、家庭にあつては父母に孝養をつくし、世間に出ては長上に従順であることが、先ず何よりも大切だ。この根本に出発して万事に言動を謹み、信義を守り、進んで広く衆人を愛し、とりわけ高徳の人に親しむがいい。そして、そうしたことの実践にいそしみつつ、なお餘力があるならば、詩書・礼・楽といつたような学問に志すべきであろう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「年輕人應該孝順父母,尊敬師長,認真誠信,廣施愛心,親近仁人志士。能輕鬆做到這些,才可以從事理論研究。」
孔子が言った。「若者は、父母に孝行し、師や上司を敬い、真面目に誠実に心がけ、幅広く愛情を施し、仁を心得た人や志のある人物に近づかねばならない。これらが自然に行えるようになってから、やっと理論の研究を行えるようになる。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
弟(テイ)
(甲骨文)
論語の本章では、”年下”。初出は甲骨文。字形はカマ状のほこ「戈」の、かねと木の柄を結びつけた部分で、原義は紐で順序よく結んで行くことから、順番のさま→”兄に対する弟”の意になった。春秋時代までにその意がある。詳細は論語語釈「弟」を参照。
弟子(テイシ)
論語の本章では「ていし」と読んで”年少者”。”でし”ではない。「子弟」もほぼ同義で、『史記』項羽本紀で泣かせる台詞として用いられる。
天之亡我,我何渡為!且籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還,縱江東父兄憐而王我,我何面目見之?縱彼不言,籍獨不愧於心乎?
天之我れを亡ぼす、我何ぞ渡り為せん。且つ籍や江東の子弟八千人與江を渡り而西するも、今や一人の還るもの無し。縱い江東の父兄憐み而我れを王とするも、我れ何の面目ありてか之と見えん。縱い彼言わ不るも、籍獨り心於愧じ不らん乎。
(渡し場のおやじが船を用意して、「殿、早くお逃げ候え!」と漢軍に追われた項羽に言った。だが項羽は馬上で首を振って言った。)
天がワシを滅ぼすのだ。逆らってこの川を渡り終えても、結局逃げ切れはしない。それにな、ワシはかつて江東(長江下流域)の若者八千人とともに、長江を渡って西に向かった。だがみな戦場の華と散り、ワシはただの一人も連れ帰れなんだ。仮に江東のおやじどの方がワシを憐れんで、王として迎えてくれたとして、ワシはどの面下げて、方々のお目にかかれるのか。方々が何も申されずとも、ワシは申し訳なくて、もはや入る穴も無い。
(そしておやじに「せめてもの礼じゃ。可愛がってやってくれ」と乗騎を譲り、ナイフ一本だけを手にして、寄せ来る無数の漢軍に向かい、突進した。)
『史記』は本紀に立てたように、項羽を正式な皇帝として扱っている。だから伝えられる項羽の暴虐的側面は、漢帝国の成立正当性を訴えるため、でっち上げである可能性を思うべきだ。でないと中国史は、まるで読み誤るおそれがある。
入(ジュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”家庭では”。初出は甲骨文。「ニュウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は割り込む姿。原義は、巨大ダムを水圧がひしゃげるように”へこませる”。甲骨文では”入る”を意味し、春秋時代までの金文では”献じる”の意が加わった。詳細は論語語釈「入」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”必ず…しなさい”。「A則B」で”AはBである”。”のっとる”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
「すなわち」と訓む一連の漢字については、漢文読解メモ「すなわち」を参照。
孝(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”年下の年上に向けた敬意”。初出は甲骨文。原義は年長者に対する、年少者の敬意や奉仕。ただしいわゆる”親孝行”の意が確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「孝」を参照。
出(シュツ/スイ)
(甲骨文)
論語の本章では”家から外に出る”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音(遣隋使・遣唐使か聞き帰った音)は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「凵」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。
弟(テイ)→悌(テイ)
論語の本章では、弟らしいこと、つまり”年上から見て理想的な年下の態度”。唐石経を祖本とする現伝論語では「弟」と記すが、古注本では「悌」と記す。論語の本章に関して最古の古注本は宮内庁蔵清家本で、唐石経より新しいのだが、唐石経が書き換える前の古注系の文字列を伝えているので、こちらの方が古いと判断して校訂した。詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
「悌」の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代にことばは存在していたとしても、同音の「弟」と書かれていたと思われる。「悌」について詳細は論語語釈「悌」を参照。
ちなみに悌に対して怳という漢字はあるが、語義は年下にとって望ましい、年上らしい感情や態度ではなく、『大漢和辞典』に下記の通り第一義に”くるふさま”と有るが如くすさまじい。論語泰伯篇3「戦々恐々」の「恐」も、もとは「怳」(おそれるさま)と書く。
謹(キン)
「謹」(金文)/「堇」(甲骨文)
論語の本章では、”ゆるがせにしないこと”。初出は甲骨文。ただし字形はごんべんを欠く「𦰩」。字形は雨乞いに失敗したみこを焼き殺すさまで、原義は”雨乞い”・”日照り”。論語の時代までに「堇」と書かれるようになり、”つつしむ”の派生義があった。詳細は論語語釈「謹」を参照。
例えば「謹賀新年」とは、”この新年、(あなたにいい事がありますようにと、)鄭重に祈ります”ということ。
而
(甲骨文)
論語の本章では”…であって”。初出は甲骨文。字形はヒゲの象形。但しその意味で用いられることはなく、論語の時代までに確認できる語義は、祭礼の名、地名、”お前”の二人称と接続詞。詳細は論語語釈「而」を参照。
信(シン)
(金文)
論語の本章では、”他人を欺かないこと”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。
汎(ハン)
(古文)
論語の本章では”広く”。論語では本章のみに登場。字形は「氵」”水”+「凡」で、「凡」の字形の由来は詳細不明。現行字体の初出は後漢の『説文解字』。さんずいを欠く「凡」の初出は甲骨文で、論語の時代までに”およそ”の語義があり、『大漢和辞典』に”すべて・たいてい”の語釈を載せるが、”広く”とは微妙に語義が違い、「凡」の副詞”ひろく”・”あまねく”としての用例は戦国時代まで下る。詳細は論語語釈「汎」を参照。
愛(アイ)
「愛」(金文)/「哀」(金文)
論語の本章では”愛する”。初出は戦国末期の金文。一説には戦国初期と言うが、それでも論語の時代に存在しない。同音字は、全て愛を部品としており、戦国時代までしか遡れない。
「愛」は爪”つめ”+冖”帽子”+心”こころ”+夂”遅れる”に分解できるが、いずれの部品も”おしむ・あいする”を意味しない。孔子と入れ替わるように春秋時代末期を生きた墨子は、「兼愛非行」を説いたとされるが、「愛」の字はものすごく新奇で珍妙な言葉だったはず。
ただし同訓近音に「哀」があり、西周初期の金文から存在し、回り道ながら、上古音で音通する。論語の時代までに、「哀」には”かなしい”・”愛する”の意があった。詳細は論語語釈「愛」を参照。
衆(シュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”大勢の人”。「眾」は異体字。初出は甲骨文。字形は「囗」”都市国家”、または「日」+「人」三つ。都市国家や太陽神を祭る神殿に隷属した人々を意味する。論語の時代では、”人々一般”・”多くの”を意味した可能性がある。詳細は論語語釈「衆」を参照。
『学研漢和大字典』によると、太陽のもとでおおくの人が集団労働をしているさまというが、それを言い出したもとはかなり怪しい。
現中国政権成立後、漢学の親分格だった郭沫若が、毛沢東と共産党のやらかした無差別大量殺人に震え上がって、”灼熱の太陽の下で大勢の人が働くさま”と解してゴマをすり、同時期に頭が真っ赤になってしまった藤堂博士もその線に沿った解釈をした。
だがソ連でペテルブルクをレニングラードと言い換えたようなもので、こういう政治的解釈は長持ちせず、もとより間違いである。若い衆はご存知ないかも知れないが、訳者は吊り上げられたレーニン像が、よってたかって叩き壊されるさまを、画面ごしだが同時代に見た。
なお藤堂博士は主義のためにはT大教授も辞めた硬骨漢だったが、郭沫若は変転常ならぬ時の権力者を渡り歩いてゴマをすり、学界の大立て者としてチヤホヤされた人生を全うした。この男のように中国のインテリの言うことは、真に受けないで自分でも調べる必要がある。
汎愛衆
論語の本章では”人を愛する範囲を広げる”。できるだけ多くの人々と親しむこと。中国語は古来一貫してSVO型の言語だから、「汎」が述語動詞で「愛衆」はVO構造を持つ目的語。従って訓読は「ひとびとをあいするをひろくす」となる。「ひろく~す」と「汎」を副詞的に読むのは、間違いではないが誤読の可能性があるので賛成できない。
親(シン)
(金文)
論語の本章では、動詞として”したしむ”。初出は西周末期の金文。「辛」”針・小刀”+「見」。おそらく筆刀を使って、目を見開いた人が自分で文字を刻む姿。金文では”みずから”の意で、”おや”の語義は、論語の時代では確認できない。詳細は論語語釈「親」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、後世の創作でないとするなら、孔子生前の語義である”貴族(らしさ)”。偽作なら孟子の提唱した「仁義」の意で、”情け深い地位ある教養人”。原義は敷物に座った貴人の姿。詳細は論語における「仁」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”持っている”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
餘(ヨ)
(甲骨文)
論語の本章では、『大漢和辞典』の第一義と同じく”あまる”。この語義は春秋時代では確認できない。「餘」の初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。新字体「余」の初出は甲骨文。原義は諸説あって明瞭でない。一人称に用いるのは音を借りた転用とされるが、甲骨文の時代からその用例がある。ただし”あまる”の語義は、戦国時代の竹簡にならないと見られない。詳細は論語語釈「余」を参照。
力(リョク)
(甲骨文)
論語の本文では”力”。初出は甲骨文。「リキ」は呉音。甲骨文の字形は農具の象形で、原義は”耕す”。論語の時代までに”能力”の意があったが、”功績”の意は、戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「力」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”選ぶ”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
「則以学文」を伝統的には「則ち以て文を学べ」と訓むが、「以」とはもと”道具を使って仕事をする”ことであり、漢文では可能ならば「用いる」と訓んだ方が、わかりやすい書き下しになる。
論語の本章も「則ち文を学ぶを以いよ」と訓めなくはない。ただそれより可能性が高いのは、語数を揃えて口ずさみやすくした結果だろう。「而親仁」も本来なら「而」は不要。
- 入則孝、出則悌、謹而信、汎愛衆、而親仁。(三字句)
- 行有餘力、則以學文。(四字句)
つまりもともと「以」は要らなかったのが、口調を整えるためにつけ加えられた。後ろに目的語を持たない「以」は、「もて」と読んで”それで”の意。読みは「もって」ではない。
學(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”学ぶ”。「ガク」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
文(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では「武」に対する「文」で、”学問芸術一般”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章の「入則孝、出則悌」「親仁」は『孟子』に引用があるが、「謹而信」は引用が見られず、「汎愛衆」は墨子の主張、「行有餘力、則以學文」は後漢前期の王充『論衡』まで引用例が無い。漢字の用法が多数疑わしいこともあり、本章は戦国時代以降の創作だろう。
創作者はおそらく、孔子没後一世紀に現れた孟子で、弟子を躾けるのに孔子を持ち出した。孔子とすれ違うように春秋末期から戦国初期を生きた墨子の言葉を、生年で言えば一世紀後の孟子はよく知っており、「天下に響いていた」と証言している(『孟子』滕文公下14)。
だから墨子を真似て「汎愛衆」を孟子が言うのには無理がないが、「孝悌」”大人しく”「親仁」”ワシに従え”については、自分が言い出したと知れてしまうと、おそらく言うことを聞いて貰えなかったのだろう。間抜けではあるが、そこが孟子の魅力でもある。
実のところ読み物としては、『論語』より『孟子』の方が圧倒的に面白い。『孟子』滕文公上現代語訳を参照。
解説
実際に一国の権力を握った孔子と異なり、孟子は戦国諸侯に教説を売り歩く世間師に過ぎないが、引き連れた弟子は諸侯に対するハッタリの道具でもあった。街の不良が徒党を組むのと同じで、戦国の遊説家はそれなりに手下を引き連れていないと、格好が付かなかった。
彭更問曰:「後車數十乘,從者數百人,以傳食於諸侯,不以泰乎?」
孟子曰:「非其道,則一簞食不可受於人;如其道,則舜受堯之天下,不以為泰,子以為泰乎?」
曰:「否。士無事而食,不可也。」
(孟子が世間師商売をしているのを見て、寄食先国の役人がイヤミを言った。)
彭更「先生は数十両の車を従えて、お付きの者が数百人、そうやって諸侯の間を説き回ってはめしを食っていますが、いつまで続くものですかね?」
孟子「確かに長続きはしないかも知れませんな。本当は(心がいじけるから、)粗末な一膳めしの施しすら、人から恵んで貰ってはいけないのです。だがこうした生活がいけないと言うなら、舜は堯から天下を譲られても、それで安心、とは言いませんでした。あなたは天下を貰えばそれで安心、とでも言うのですか?(ずいぶん俗物なことですな。)」
彭更「いいえ。でも定職に就かないでブラブラしていては、やはりいけないのでは?」(『孟子』滕文公下9)
彭更を孟子の弟子に仕立てたのははるか後世の朱子で、実は誰だか分からない。再出は孟子没後三世紀も過ぎた『論衡』だが、それでも弟子とは書いていない。だから弟子ではなく、孟子滞在国の役人が、半ばやっかみ、半ば愛国心からイヤミを言ったと考えるのが妥当。
でなければ、孟子が彭更を「子」と敬称で呼ぶ理由がない。
孟子は手下の統制には苦労したらしい。『孟子』滕文公下篇はそれゆえに、弟子などに対するお説教ばかりになっている。孔子も孟子も寄ってきた弟子は、出世目当ての者どもだったが、大男で武人だった孔子と違い、腕力に自信の無い孟子は弟子を威圧できなかった。
春秋と戦国の儒者の間には、深くて暗い河がある。孔子の弟子が目指した春秋の君子=貴族は、素手で人を殴刂殺せるえげつない暴カを持たないと戦場働きが出来ず、世間に特権を説明できない。対して戦国時代は庶民も徴兵されたから、かえって出陣しない君子が現れた。
孔子一門にも悪党はいた。孔子と入れ替わるように生きた墨子の証言によれば、孔子一門は後ろ暗い政治工作にも手を付けている。さらに孔子が亡命して最初に向かったのは、衛にあった国際傭兵団の頭領・顔濁鄒の屋敷だった。『呂氏春秋』は顔濁鄒を「大盗」と書いている。
「盗」とは必ずしもドロボーではなく、公権力に属さない武装勢力を意味した。顔濁鄒はおそらく孔子の母・顔徴在と、高弟の顔淵の一族だったろう。春秋も後半になっていくさのやり方が変わり、顔濁鄒のように需要に応じて物騒な連中を、諸侯に派遣する稼業が生まれた。
孔子は陰謀も働いたが直弟子を生涯統制しきって見せたし、顔濁鄒は荒くれどもに言うことを聞かせられるから、傭兵団の親分が務まった。どちらも途方もなく腕力が強いから、手下がヘイヘイと従ったのである。対して細腕繁盛な孟子の弟子は、孔子の弟子より素行が悪い。
孟子之滕,館於上宮。有業屨於牖上,館人求之弗得。或問之曰:「若是乎從者之廀也?」曰:「子以是為竊屨來與?」曰:「殆非也。」夫子之設科也,往者不追,來者不距。苟以是心至,斯受之而已矣。
孟子が子分どもを引き連れて滕の国へ巡業し、殿様の屋敷に逗留した。子分の一人が、窓の上に置いてあったスリッパをくすね、屋敷の管理人が探しても見つからない。
管理人「ああたの従者って、平気で人のものを盗むんですね。」
孟子「管理人どの、我らがスリッパ泥棒の巡業に来たとでも?」
管理人「そうまでは言いませんが…。」
後世の編者「孟子先生は、弟子を役割によって分類したが、嫌がる者に無理強いせず、なりたがる者は好きなようにさせた。そういうわけで、その気がある者は(ドロボー・チンピラだろうと)全て受け入れたのだ。」(『孟子』盡心下76)
「去る者追わず、来る者拒まず」の元ネタだが、これでは居直り強盗だ。『孟子』のこのくだりも論語同様、もの凄く孟子に都合のよい「お上品」な解釈がまかり通っているので、上掲の訳に首をかしげる諸賢もおられるかも知れない。
だが「往者不追」は戦国~北宋まで誰も引用していない。初出は南宋・朱子の注である。孟子は宋儒が持ち上げるまでは、誰も「亜聖」とは思っていなかった。上掲後世の編者部分は、おそらく宋儒が勝手に書き加えた。それでもくすねた話の部分は史実だろう。
国際的陰謀をたくましくして黙っていた孔子と異なり、孟子はスリッパをくすねるなどという、小悪事まで正直に記している点は微笑ましいが、孟子の弟子を称する連中が、かなりろくでもないことがわかる。だがそれでも孟子は興行上、コソ泥も受け入れるしかなかった。
だから孟子は出来る・出来ないにかかわらず、知っていることや思っていること全てを、弟子と共有するわけにはいかなかった。弟子もそのあたりは心得ていて、孔子が弟子と生死の危険を分かち合いつつ放浪したのに対し、孟子とその弟子には苦難の伝説が無い。
人に余計な知恵をつけるのは危険でもある。生まれつき奴隷で、まわりに奴隷と主人しか居ないような社会では、奴隷は自分の惨めさに気付かない。危険物を子供にいじらせるのが危険なように、一見他愛の無い文系の知識も、まかり間違うと重大な事態を引き起こしかねない。
余話
一方的に都合がいい
日露戦争中、うち続く生活苦を和らげて貰おうと、ロシア帝国の民衆が連れ立って、皇帝に請願を行おうとしたことがある。生まれつきの臣民で、まわりにもと農奴か旦那様しかいない社会では、生活苦の根源が、張本人である皇帝の強欲に始まることが理解できなかったのだ。
果然、不埒な連中だと皇帝は民衆の集まりを銃弾で皆殺した。いわゆる血の日曜日事件だが、これ以降明らかに、ロシアの革命には弾みが付いた。皇帝が悪そのものである、という知識が、帝国全土の民衆にまで知れ渡ったことが、どれほどその原動力になったか分からない。
イワン=ウラジーミロフ(1870-1947)「冬宮前での民衆の虐殺、1905年1月9日」
もう一つ諸賢にお読み頂きたい。
冬宮前に集まったロシアの民衆と、インド独立の父ガンジーの運動は共に非暴カだったが、ガンジーは成功したのに、ロシアの民衆はこんな無残に遭った。自分が文明人であろうとする者は、むごいことはしたがらない。だがロマノフ家やナチや中共に非暴カは通用しない。
事は独裁国に限らない。同じガンジーの非暴カ運動も、南アでスマッツ将軍相手には成功したが、インドでダイヤー将軍を相手にすると、アムリットサルの虐殺になってしまった。同じ大英帝国の将軍にも文明人と野蛮人がいて、結局野蛮人なら人道や非暴カは通用しない。
話を論語に戻せば、孔子の弟子の就職率は高かった。だが孟子の弟子が仕官できた話を聞かない。孟子が孔子のように、当時の出世に必要な技能や知識を教えた形跡も無い。弟子と言うより世間師の使い走りの上、親分の孟子が就職に失敗している。見限った弟子も多かったろう。
学問は必ずしも、学ぶ者を幸せにしない。請願などしない方が、ロシア人は苛烈極まる革命と内戦、その後の強権支配を経験せずに済んだかも知れない。孤児から成り上がった孔子は、そうした学問の残酷な一面に気付いていただろう。だが孟子は別の動機から本章を説いた。
孔子はきわめて現実的だった。弟子は、貴族から平民への成り上がりを目指した。そのためには血統貴族より人格に優れる必要があった。貴族になるには、貴族的教養を学ぶだけでは不可能だった。だから孔子は実践を強調し、孔門の座学は修養の一部に過ぎなかった。
対して現伝の論語では「孝・弟(悌)」のように、年少の義務は説くが年長の義務は説かない。およそ非現実的で、世代間の互恵を説いた孔子の説教(論語学而篇11)ともちぐはぐだが、釣り込まれた東アジアの伝統的価値観は、親や年上への奴隷的奉仕を当たり前だと見なした。
だが年長者への奴隷根性を言う論語の章は、どれも実のところ偽作と判明している。
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