論語006学而篇第一(6)弟子入りては則ち孝

論語学而篇(6)要約:親孝行も年上孝行も、それは義務だからやるのじゃありません。それは若者が年上に好かれて、人生が生きやすくなるからでした。いかめしい孔子も若い弟子には、幸せな人生を送って欲しいと願ったのです。

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆、而親仁。行有餘力、則以學文。」

書き下し

いはく、弟子ていしりてはすなはかうでてはすなはていつつしまことあり、ひろひとびとあいしてじんちかづき、おこなひてあまれるちから有らば、すなはぶんまなぶをもつてせよ。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 孔子 切手
先生が言った。諸君、自宅では年上に孝行し、外では年長者を敬い、行いを謹んで約束を守り、幅広く人を愛して打算の無い愛情を持った人に近づきなさい。それが出来てまだ余裕があるなら、勉強しなさい。

意訳

論語 孔子 水面
年上には懐け。手本となる仁者に出会うために。同世代や年下には、ウソをつかず意地悪をするな。以上が出来れば十分で、勉強はそれが出来てからにしろ。クズが学んでも大クズが出来るばかりだ。

従来訳

 先師がいわれた。――
「年少者の修養の道は、家庭にあつては父母に孝養をつくし、世間に出ては長上に従順であることが、先ず何よりも大切だ。この根本に出発して万事に言動を謹み、信義を守り、進んで広く衆人を愛し、とりわけ高徳の人に親しむがいい。そして、そうしたことの実践にいそしみつつ、なお餘力があるならば、詩書・礼・楽といつたような学問に志すべきであろう。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

論語 則 金文 論語 則 解字
(金文)

論語の本章では、”必ず…しなさい”。「A則B」で”AはBである”。”のっとる”。

『学研漢和大字典』によると会意文字で、「刀+鼎(カナエ)の略形」。鼎にスープや肉を入れ、すぐそばにナイフをそえたさま。そばにくっついて離れない意を含む。即(そばにくっつく)と同じ。転じて、常によりそう法則の意となる。

さらにAのあとすぐBがくっついておこる意をあらわす助詞となった。類義語の乃(スナワチ)は、Aのあと曲折をへてBがおこる際に用い、やっと、そこで、ついになどの意を含む。而(ジ)は乃ほどではないが、やはり曲折した、しかも、しこうしてなどの意をあらわす。

斯(ココニ)・即は、則と同じように、前後をさらりと直結して、…ならすぐの意をあらわす、という。

論語 弟 金文 論語 弟 解字
(金文)

論語の本章では、”年上から見て理想的な年下の態度”。

『学研漢和大字典』では指事文字で、「棒+ひも」で、低い位置、転じて背たけの低い弟をいう。また年下らしいへりくだった態度を弟・悌(テイ)という、とある。

一方『字通』に「韋皮の紐でものを束ねた形」とあり、「次第してものを締結する意。のち兄弟の意に用いる。第は後起の字である」とする。つまり”順序”が原義で、”おとうと”は後付けということになる。

武内本によると、唐石経では「弟」と書き、日本の清家本では「悌」と書く、という。

(唐石経)出則弟。
(清家本)出則悌。

論語 謹 金文 論語 沙漠の骨 謹
(金文)

論語の本章では、”ゆるがせにしないこと”。例えば「謹賀新年」とは、”この新年、あなたにいい事がありますようにと、鄭重に祈ります”ということ。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、右側の堇(キン)は「動物の頭+火+土」からなり、かわいた細かい土砂のこと。謹はそれを音符とし、言を加えた字で、細かく言動に気を配ること。こまごまと小さい、の意を含む。

僅(キン)(細かい、わずか)・饉(キン)(食物がわずか)などと同系。懃(キン)ときわめて近く、懇切の懇(コン)とも縁が近いことば、という。

論語 汎 古文 論語 汎 字解
(古文)

論語の本章では”広く”。『大漢和辞典』の第一義は”ただよう”。広い水の上に浮いた様から、”ひろい”の意味が出来た。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、凡(ハン)は、広げた帆を描いた象形文字で、ふわふわと広がる意を含む。汎は「水+〔音符〕凡」で、広い水面がふわふわと広がること。帆(ふわふわと広がったほ布)と同系のことばという。

論語 愛 金文 論語 愛 解字
(金文)

論語の本章では、”愛する”。『大漢和辞典』の第一義は”いつくしむ”。論語では愛でも常時無差別の愛は、「仁」ということばで区別した。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、旡(カイ)・(キ)とは、人が胸を詰まらせて後ろにのけぞったさま。愛は「心+夂(足をひきずる)+〔音符〕旡」で、心がせつなく詰まって、足もそぞろに進まないさま。

既(キ)(いっぱいである)・漑(カイ)(水をいっぱいに満たす)と同系のことば。また、哀(アイ)(胸が詰まってせつない)ときわめて近いことばという。

論語 親 金文 論語 親 解字
(金文)

論語の本章では、動詞として”したしむ”。

古書体の字体は、『字通』では、辛(ハリ)+木+見で、神事に用いる木を選ぶためにハリを打ち、切り出した木材を「新」といい、新で位牌を作って拝むことを「親」という。それが”おや”の意味に転じたのは、新しい位牌は父母のものであることが多いからだと推測している。

論語 見 解字
一方『学研漢和大字典』では会意兼形声文字で、辛(シン)は、はだ身を刺す鋭いナイフを描いた象形文字。親の左側は薪(シン)の原字で、木をナイフで切ったなま木。親はそれを音符とし、見を加えた字で、ナイフで身を切るように身近に接して見ていること。

じかに刺激をうける近しい間がらの意。類義語の戚(セキ)は、小さいの意を含み、隔ての小さいみうち、という。

論語 仁 甲骨文 論語 仁 古文
(甲骨文・古文)

論語では、なさけ、憐れみを基本とした、常時無差別の愛。詳細は論語における「仁」を参照。

論語 行 甲骨文 論語 行 金文
(甲骨文・金文)

論語の本章では”行う”。『大漢和辞典』の第一義は”あるく”。しかし甲骨文を見ると、『字通』の言う”十字路”が原義だろう。

『学研漢和大字典』では象形文字で、十字路を描いたもので、みち、みちをいく、動いて動作する(おこなう)などの意をあらわす。また、直線をなして進むことから、行列の意ともなる。衡(コウ)(まっすぐなはかり棒)・桁(コウ)(まっすぐなけた)などと同系のことばという。

餘(余)

論語 余 甲骨文 論語 余 金文
(甲骨文・金文)

論語の本章では、『大漢和辞典』の第一義と同じく”あまる”。『字通』によると、一人称の「余」と”あまる”の余は、本来別の字だという。『説文解字』という古い中国の字書によると、「余」=「饒」(饒舌ジョウゼツの饒)で、食べ物が余ることだという。

一方『学研漢和大字典』では会意兼形声文字で、餘は、「食+〔音符〕余(ヨ)」で、食物がゆったりとゆとりのある意を示す。ゆとりがあることから、あまってはみ出るの意。余・徐(ゆったり歩く)・舍(=舎。ゆったり休む家)と同系のことばという。

論語 余 解字
また新字体の「余」は会意文字で、「スコップで土を押し広げるさま+八印(分散させる)」で、舒(ジョ)(のばす、ゆったり)の原字。ゆったりとのばし広げるの意を含む。余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がないという。

論語 文 金文 論語 遠山の金さん
(金文)

論語の本章では「武」に対する「文」で、”学問芸術一般”。『大漢和辞典』の第一義は”文様”。首から下に入れた入れ墨のことを「文身」という。『字通』も「文」の原義を入れ墨だという。

論語 文 甲骨文 論語 己 土器
(甲骨文)

一方『学研漢和大字典』では象形文字で、もと、土器につけた縄文(ジョウモン)の模様のひとこまを描いたもので、こまごまとかざりたてた模様のこと。のち、模様式に描いた文字や、生活のかざりである文化などの意となり、紋の原字。

紊(ビン)(色糸が交差して模様をなす)・美(細かくうつくしい)などと同系のことばという。

論語:解説・付記

既存の論語の解説本では吉川本で、論語本章の「弟」を「なかよかれ」と読み下す。藤堂本では書き下しから「悌」と書き、「低く構えておだやかなこと。低と同系の言葉」とある。また「則ち以て文を学べ」を「そのときこそ文化教養を学べ」と解する。

一方吉川本は、「一般的な教えとしては、学問を軽視した言葉ととれらそうなので、弟子は後生ホウションの意味であって、若者のことであり、専らそれに対する教訓だと、清の劉宝楠の『論語正義』に書く」と言う。つまり吉川博士は、孔子が学問を勧めないのはおかしいと言っている。
論語 吉川幸次郎

しかし孔子が塾を立ち上げた動機は、論語を通読する限り、学問を授けるより、その先の復古的政治革命にあった。となれば学はあるが志が違う弟子は好ましくないわけで、さらには人が悪く簡単に裏切るようでは、革命政党として致命的な危険分子になりかねない。

もちろん孔子は2500年も師匠として慕われただけあって、弟子を道具ではなく目的そのものとして見ていたろうが、それならそれで、「学問よりまず人が良くなければならない」と教えるのはしごくまっとうに思う。とりわけ論語の中でも初学者に向けた本篇ではなおさら。

わざわざ中国語音や儒者の話を引用した吉川博士の主張は、間違いではないだろうか。

さて論語には「孝・弟(悌)」のように、年上への心がけはたくさんあるが、年下へのそれは極めて少ない。それに釣り込まれて東アジアの伝統的価値観は、親や年上への奴隷的隷属を勧めがちになったが、考えてみれば本章は、もとは孔子と弟子の関係ばなしであり、入塾心得。

だから本章は、若い弟子への教訓として年上への心がけを説いたに過ぎないし、師を敬わないような弟子は教えようがないと言っている。こんにち多くの塾経営者や道場の師範、また公共の学校の先生方も、不埒な生徒児童・弟子の扱いに苦労しておられるが、察するに余りある。
論語 孔子 哀

ちなみに悌に対してキョウという漢字はあるが、語義は年下への望ましい感情や態度ではなく、『大漢和辞典』第一義に”くるふさま”と有るが如くすさまじい。「戦々恐々」の「恐」はもとは「怳」(おそれるさま)と書く。なお「悌」とあるのは古注本、新注本には「弟」とある。

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