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論語詳解007学而篇第一(7)賢をとうとびて色を*

論語学而篇(7)要約:後世の創作。弟子一番のカタブツ、ニセ子夏の演説。賢者を敬い、父母に奉仕し、主君に忠義を尽くし、友人に誠実であれば、たとえ学問が無くとも、それで立派に学のある人と言える、と。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子夏曰賢賢易色事父母能竭其力事君能致其身與朋友交言而有信雖曰未學吾必謂之學矣

校訂

東洋文庫蔵清家本

子夏曰賢〻昜色/事父母能竭其力事君能致其身/與朋友交言而有信雖曰未學吾必謂之學矣

後漢熹平石経

…而有信雖白未學吾必謂…

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子夏曰、「賢賢易色、事父母能竭其力、事君能致其身、與朋友交言而有信、雖曰未學、吾必謂之學矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文夏 金文曰 金文 賢 金文賢 金文易 金文色 金文 事 金文父 金文母 金文能 金文其 金文力 金文 事 金文君 金文能 金文致 金文其 金文身 金文 与 金文朋 金文友 金文 史墻盤交 金文言 金文而 金文有 金文信 金文 雖 金文曰 金文未 金文学 學 金文 吾 金文必 金文謂 石鼓文之 金文学 學 金文矣 金文

※論語の本章は、「竭」の字が論語の時代に存在しない。「易」「必」「交」「信」「未」「必」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

子夏しかいはく、さかしものたふとびてかんばせへ、父母かぞいろつかへてちからつくすにあたひ、きみつかへていたすにあたひ、朋友ともまじはるにまことらば、いままなばずとふといへども、われこれまなたりかならはん。

論語:現代日本語訳

逐語訳

子夏
子夏が言った。「賢者を敬う時には表情を改め、父母に奉仕するには力の限りを尽くすことができ、主君に仕えるには身を捧げることができ、友人と交際するには言葉に嘘がなければ、その人に学問知識が無くても、私はその人を学問を修め終えた人と必ず言う。」

意訳

子夏
さんのお説教。「誰だろうと人柄がまじめで一生懸命やっている人がいたら、学がないとか言ったりしちゃいけない。」

従来訳

下村湖人
子夏(しか)がいつた。――
「美人を慕う代りに賢者を慕い、父母に仕えて力のあらんかぎりを尽し、君に仕えて一身の安危を省みず、朋友と交つて片言隻句も信義にたがうことがないならば、かりにその人が世間に謂ゆる無学の人であつても、私は断乎としてその人を学者と呼ぶに躊躇しないであろう。」

下村湖人『現代訳論語』

賢賢ケンケンたるかなとかげの色や」
コロコロ変わるよ、トカゲの色は、という古歌がある…。

宮崎市定『論語の新研究』

「賢きものをたっとびて色ごのみをかろんぜよ」
賢者を敬って好色の者を低く見下すがよい…。

藤堂明保『論語』

現代中国での解釈例

子夏說:「重賢輕色、盡心孝順父母、盡力獻身國家、交朋友言而有信的人,即使沒有高等學歷,我也認為他已經受到了良好的教育。」

中国哲学書電子化計画

子夏が言った。「賢者を敬い色事を軽蔑し、心を尽くして父母に孝行し、力を尽くして国家に身を捧げ、友人と交わる際の言葉に信用がある人は、たとえ高い学歴が無くとも、私はそれもまた、すでに良い教育を受けた人だと認めるのだ。」

論語:語釈


子夏(シカ)

子 甲骨文 夏 甲骨文
(甲骨文)
孔子の弟子(BC507ごろ-BC420ごろ)。子夏は字、姓はボク、名は商。衛の人、一説に晋の温(現在の河南省焦作市温県)出身。『史記』弟子伝によると孔子より44年少。子夏の「子」は、「子○」の形式で学派の高弟や貴族一般を指すあざ名を示す。論語語釈「子」を参照。

子游とともに子から古典研究の才を評価された、孔門十哲の一人(孔門十哲の謎)。

今文経学では六経伝承の淵源を子夏に求めている。彼の学風からは後の荀子へと受け継がれる。(wikipedia子夏条)

今文経学が何を言ったかはともかく、荀子は子夏の派閥を手ひどく批判しており、疑わしい。

正其衣冠,齊其顏色,嗛然而終日不言、是子夏氏之賤儒也。

荀子
冠と装束をもっとももらしく身につけ、取り澄ました表情を見せ、黙ったまま一日中ものを言わないで、お布施だけ貰って帰る連中は、子夏の系統を引く腐れ儒者だ。(『荀子』非十二子篇17)

孔子からは「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」で「及ば」と評された(論語先進篇15)。とにかく頭が固く、融通が利かなかったらしい。だが孔子没後、北方の大国・魏の文侯に招かれ、相談役になった。李克呉起西門豹は魏国での子夏の弟子と言われる。

『礼記』によると、自分の子供が死亡した際にあまりの悲しみに失明した。それを聞き、同門である曽子が子夏を訪ね、子夏が「なぜ、自分だけこのような不幸に会わなければならないのか」と嘆くと、「ずっと妻子を放っておいて何事か」と怒鳴った。

それに対し「我、過てり」と嘆いたという。詳細は論語の人物:卜商子夏を参照。

なお「卜」とは”うらなう”こと「商」は殷王朝の自称「夏」は言うまでもなく最古の王朝の名。孔子の生前、知られていた最古の王朝は夏王朝だが、漢字は殷中期にならないと現れなかった。これが現在の漢字へと繋がる甲骨文だが、それ以前は文字が無いから王朝の記録もなく、夏王朝は多分に伝説の範囲に属する。

殷 金文
「殷」(金文)

ちなみに「殷」は”むやみに人の生きギモを取る残忍な奴ら”という他称。今で言うなら臓器売買に当たるのだろうか。伝統というものは本当に根が深い。そして現中国政府は御用漢学者を集めて、カミサマの時代である夏などの年代確定をした(→wikipedia)。

愚かなお金を使ったものだ。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。

なお「曰」を「のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

賢(ケン)

賢 金文 賢 字解
(金文)

論語の本章では動詞として”尊ぶ”、名詞として”賢者”。初出は西周早期の金文。字形は「臣」+「又」+「貝」で、「臣」は弓で的の中心を射貫いたさま、「又」は弓弦を引く右手、「貝」は射礼(弓術の大会)の優勝者に与えられる褒美。原義は”(弓に)優れる”。詳細は論語語釈「賢」を参照。

上掲宮崎本は「賢」を”ゆたか”の語義とし、「多色に変わるなあ、トカゲの色は」として歌われたと想像している。この語義は後漢の『説文解字』の「多才」を清の段玉裁が「多財」と解して以降の解釈となり、論語の本章に適用しがたい。

易(エキ/イ)

易 甲骨文 易 甲骨文
(甲骨文1・2)

論語の本章では、”改める”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)は”変える”の場合「エキ」、”…しやすい”の場合「イ」。甲骨文の字形は、「」”水差し”に両手を添え、「皿」=別の容器に注ぐ形で、略体は「盤」”皿”を傾けて液体を注ぐ形。「益」と語源を同じくし、原義は”移し替える”・”増やす”。

古代中国では「対飲」と言って、臣下に褒美を取らせるときには、酒を注いで飲ませることがあり、「易」は”賜う”の意となった。戦国時代の竹簡以降に字形が乱れ、トカゲの形に描かれるようになり、現在に至っている。”替える”・”…しやすい”の語義は戦国時代から。詳細は論語語釈「易」を参照。

「易」を”トカゲ”と言い出したのは後漢の『説文解字』で、ここからも上掲宮崎説には従いがたい。

蜥易,蝘蜓,守宮也。象形。《祕書》說:日月為易,象陰陽也。一曰从勿。凡易之屬皆从易。

許慎
トカゲ、蝘蜓やもり守宮やもり(発情抑制薬の材料になるヤモリ)の象形である。『祕書』(宮中に秘蔵される書)によれば、太陽や月を易と言い、陰陽を象徴しているという。一説に勿の系統に属する字で、占いのたぐいは全て陰陽を基本にしている。(『説文解字』易部6101)

後漢年表

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易 金文
(金文)

上掲金文のような鳥に見立てた字形は、西周末期にならないと現れない。このような一種の装飾文字は、三国志で有名な「伝国の璽」にも見られ、装飾に目を奪われると漢字を読みトリ損なう。

伝国の璽 「伝国璽」の想像例

受命於天、既壽永昌。
「命天に受けたり、旣にいのちとこしえにさかえん」
(天の命を受けた。だから王朝の命数は永遠に続く
=ワシは天の命令で皇帝になったのじゃから、貴様らは決して謀反など起こすのではないぞよ)

色(ソク)

色 金文 色 字解
(金文)

論語の本章では”表情”。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。

易色

論語の本章では”表情を改める”。「易色」を”色事を軽蔑しろ”と言い出したのは後世の儒者で、例によって根拠を何も言っていない。「色」に”色事”の語義は戦国末期に至ってもなお確認できない。

古注『論語集解義疏』

子夏曰賢賢易色註孔安國曰子夏弟子卜商也言以好色之心好賢則善也…云賢賢易色者凡人之情莫不好色而不好賢今若有人能改易好色之心以好於賢則此人便是賢於賢者故云賢賢易色也

孔安国 古注 皇侃
子夏曰く、賢賢易色。注釈。孔安国「子夏とは弟子の卜商である。言う所は、色事を好むような心で賢者を好めば、とりもなおさず宜しいのである。」

(撰者の皇侃)「賢賢易色というのは、およそ人間というのはどいつもこいつも助平の上に、賢者を尊ばない。仮にとある人がおのれの助平を叩き直し、賢者を好むなら、つまり賢者を尊ぶ事になる。だから賢賢易色と言うのだ。」

古注が編まれたのは後漢末から南北朝にかけてで、そこに前漢の孔安国がちょくちょく顔を出すが、この人物は高祖劉邦の名を避諱ヒキ(はばかって使わない)しないなど、実在が怪しい。

新注『論語集注』

賢人之賢,而易其好色之心,好善有誠也。

朱子 新注
朱子「賢者はその賢さでもって、自分の助平心を叩き直せたので、善を好み誠実さがあるのだ。」

だがこれらより論語の時代に近い『荘子』盜跖篇に言う「易色」は、”顔色を変える”の意。

今謂宰相曰『子行如仲尼、墨翟』,則變容易色稱不足者,士誠貴也。

論語 荘子
いま宰相閣下を讃えて、「あなたの行いは孔子や墨子のようです」と言うが、そう言われても表情を引き締め顔色を変えて、「いいやまだまだです」と謙遜する人こそ、士分が本当に尊敬する人なのだ。(『荘子』盜跖2)

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”臣従する”→”奉仕する”。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。

父母(フボウ)

論語の本章では”父母”。

父 甲骨文 母 甲骨文
(甲骨文)

「父」の初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。

「母」の初出は甲骨文。「ボ」は慣用音。「モ」「ム」は呉音。字形は乳首をつけた女性の象形。甲骨文から金文の時代にかけて、「毋」”するな”の字として代用もされた。詳細は論語語釈「母」を参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲む親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

能 三本足 亀
なお『大漢和辞典』によると三本足の亀も「能」と呼ぶらしい。これを食うと死んでしまい、姿形も残らないという。論語内容補足:『庚巳編』現代語訳:のろいの亀を参照。

竭(ケツ)

竭 篆書 竭 字解
(篆書)

論語の本章では”尽くす”。『大漢和辞典』の第一義は”背負い上げる”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「立」+「曷」”乾く”・”尽きる”で、人が力を尽くして立ち働くさま。詳細は論語語釈「竭」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

力(リョク)

力 甲骨文 力 字解
(甲骨文)

論語の本文では”能力”。初出は甲骨文「リキ」は呉音。甲骨文の字形は農具の象形で、原義は”耕す”。論語の時代までに”能力”の意があったが、”功績”の意は、戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「力」を参照。

君(クン)

君 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”主君”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

致(チ)

致 甲骨文 致 字解
(甲骨文)

論語の本章では”捧げる”。『大漢和辞典』の第一義は”おくりとどける”。初出は甲骨文で、人がものを持って送り届けるさま。金文では”与える”の語義を獲得した。『学研漢和大字典』によると、自動詞の「至」に対して、他動詞として用いる、というが、”至る”の語義で「致」が用いられる例が、戦国時代の竹簡にある。詳細は論語語釈「致」を参照。

身(シン)

身 甲骨文 身 字解
(甲骨文)

論語の本章では”自身”。初出は甲骨文。甲骨文では”お腹”を意味し、春秋時代には”からだ”の派生義が生まれた。詳細は論語語釈「身」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”~と”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

朋友(ホウユウ)

朋 甲骨文  友 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”同門の仲間”。初出は共に甲骨文。「朋」が同列の仲間を意味し、「友」が腕を出して互いにかばい合う仲間を意味する。詳細は論語語釈「朋」論語語釈「友」を参照。

交(コウ)

交 甲骨文 交 字解
(甲骨文)

論語の本章では”付き合う”。初出は甲骨文。字形は「大」”人の正面形”が足を交差させているさま。甲骨文と金文では氏族名・人名に用いられたが、動詞”交流する・つきあう”の語義は戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「交」を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 孔子
(甲骨文)

論語の本章では”語る”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”…するときにいつも”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
「有」(甲骨文)

論語の本章では”ある”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

信(シン)

信 金文 信 字解
(金文)

論語の本章では、”他人を欺かないこと”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。

雖(スイ)

論語 雖 金文 雖 字解
(金文)

論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”今まで…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

學(カク)

学 甲骨文 学
(甲骨文)

論語の本章では”学ぶ”。「ガク」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「コウ」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

必(ヒツ)

必 甲骨文 必 字解
(甲骨文)

論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は長柄武器の柄で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では、同じ「言う」でも、”評価する”こと。『大漢和辞典』の第一義は”あたる”。現行書体の初出は春秋の石鼓文。論語の時代の金文では、部品の「胃」と書き分けられていなかった。「胃」の初出は春秋早期の金文。論語の時代までに、氏族名と”言う”の語義が確認されている。詳細は論語語釈「謂」を参照。

上掲の金文は春秋晩期の「少虡劍」の文字で、ごんべんが無い。つまり部品である「胃」(上古音同)だけなのだが、『大漢和辞典』には”いう”の語義が載っていない。加えて同音・近音で同訓の漢字は『大漢和辞典』を引いても見つからない。だが『字通』謂条にに以下の通り言う。

声符は胃。〔説文〕三上に「報ずるなり」とあるが、もとは「名づける」意であったと思われる。東周の〔吉日剣〕に「朕余之れに名づけて~と胃ふ」とあって、胃を用いる。曰・云と声近く、通用の字である。

百度で「吉日剣」検索してみると、山西省渾源県に東周時代の墓があり、吉日剣についても言及がある考古研究論文を発見したが、剣銘文についての次述は無かった。ただし「応為春秋中、晩期、不同于戦国時期文字単線刻劃類型」とある。つまり論語の時代に「胃」で”いう”を意味したことになる。
https://wenku.baidu.com/view/165b9b25ccbff121dd3683fb.html

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では「これ」と読んで”これ”。初出は甲骨文。原義は”足を止めたところ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

吾必謂之學矣

解釈は二通りあり得る。どちらでもかまわないが、上掲はとりあえず後者でんだ。

  1. ”私は(吾)学び終えたと(学矣)必ず(必)強く(之)言う(謂)”。ここでの「之」は「学」を導く語ではなく、直前が動詞であることを示す助辞で、意味内容を持たない。語気としては動詞を強調する。「必」と「之」で「謂」を挟んで、二重に強調している。「吾は学びりと必ずこれはん」と読み下す。
  2. ”私は(吾)その人が(之)学び終えたと(学矣)必ず言う(必謂)”。「之」が「曰未學」の人を意味しており、「吾はこれを学びりと必ず謂はん」と読み下す。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

子夏 青年の主張
論語の本章、「與朋友交、言而有信」部分が、学而篇4「日に三省」「與朋友交而不信乎」の別バージョンであることは明らかだが、どちらがモトか焼き直しか、判別が難しい。

「賢賢」は戦国時代の『荀子』に、「易色」は同じく『荘子』に、「事父母」「事君」は『孟子』に用例があるが、先行する『論語』の引用とは言いかねるし、「竭」の字はどうやり繰りしても孔子の生前に遡れない。「竭其力」の再出は前漢後期の劉向が書いた『説苑』。

仲尼見梁君,梁君問仲尼曰:「吾欲長有國,吾欲列都之得,吾欲使民安不惑,吾欲使士竭其力,吾欲使日月當時,吾欲使聖人自來,吾欲使官府治,為之奈何?」

劉向
孔子が梁の殿様に会見した。

殿様「私はこの国を長持ちさせたいし、領地を繁栄させたいし、民を安心させたいし、家臣の能力を引き出したいし、天候を安定させたいし、聖人が来たがるような国にしたいし、政府の統治能力を上げたい。どうすればいいか。」(『説苑』政理17)

梁とは子夏が仕えた魏国の別名で、孔子が行った証拠はないが、おそらくこの文章が本章の元ネタと思える。また本章も前漢宣帝期の定州竹簡論語から漏れているが、破損の結果か元から無かったのかはわからない。しかし前漢前半までにあった証拠が無いことになる。

上掲wikipedia子夏条が「今文経学では六経伝承の淵源を子夏に求め」というのが事実なら、前漢期に儒家の主流だった今文学派が、本章を創作する動機はある。対立する古文学派の祖は劉向の子で前漢末のキンとされるから、本章はあるいは劉向と劉歆の間ごろの作と見られる。

前漢年表

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解説

文字史から本章は後世の創作が明らかだが、「竭」の字を同音同訓(ただし上古音は異なる)の「屈」の字に換えれば、戦国時代の文章として通用する。戦国の儒者で著名なのは孟子と荀子だが、荀子は上掲のようにこき下ろし、孟子は「子夏より曽子の方が偉い」と言う。

孟施舍似曾子,北宮黝似子夏。夫二子之勇,未知其孰賢,然而孟施舍守約也。昔者曾子謂子襄曰:『子好勇乎?吾嘗聞大勇於夫子矣:自反而不縮,雖褐寬博,吾不惴焉;自反而縮,雖千萬人,吾往矣。』孟施舍之守氣,又不如曾子之守約也。」

孟子
孟子が申しました。「孟施舍の勇気は曽子に似ているし、北宮ユウの勇気は子夏に似ている。だが勇気はあってもどちらが偉いとまでは言えない。それでも孟施舍は威張らなかった分だけ立派だろう。ただし。

むかし曽子が子襄に言った。”へえ。あなたは勇気がお好きのようですね。私は孔子先生から聞きましたが、自分に問うて正しくない事なら、ゴロツキに脅されてもやらない。正しい事なら、千万人が何と言おうとやる、と。”

だから孟施舍が自制していたと言っても、曽子の謙虚には及ばない。」(『孟子』公孫丑上2)

子夏の武勇伝は伝わらないし、孔門十哲の中でも大人しい子夏が、孟子の言う勇者には思えない。だが子夏も春秋の君子であり、つまり素手で人を殴刂殺せるえげつない暴カは身につけていた(論語における「君子」)。前漢ごろ成立とされる『孔子家語』に、それらしい話がある。

子夏問於孔子曰:「居父母之仇如之何?」孔子曰:「寢苫枕干,不仕,弗與共天下也。遇於朝市,不返兵而鬭。」曰:「請問居昆弟之仇如之何?」孔子曰:「仕弗與同國,御國命而使,雖遇之不鬭。」曰:「請問從昆弟之仇如之何?」曰:「不為魁,主人能報之,則執兵而陪其後。」

子夏 和み 孔子 キメ
子夏「親の敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「市場の近くで小屋がけし、楯を枕に寝なさい。仕官はせず、仇討ちに専念しなさい。仇を生かしておいてはならない。そ奴がノコノコと朝市にやって来たら、その場でバッサリ討ち果たし、家に武器を取りに帰って取り逃すことのないように。」

子夏「兄弟の敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「仕官してもいいが、仇と同じ国に仕えてはならない。もし君命で仇と顔を合わせることがあっても、我慢して撃ちかかったりしないように。」

子夏「いとこの敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「自分から撃ちかかってはならない。もし主人が仇を討つなら、その時は武器を取って主人の助太刀をしなさい。」(『孔子家語』曲礼子夏問1)

駄菓子菓子。

孟子の言った「子夏」は、孔子の弟子の「子夏」ではないという異聞がある。陳の公子で、父の霊公を手ずから射殺した夏徵舒だというのである。年代的には、春秋時代の丁度中頃、孔子が生まれるより約半世紀前のことになる。

春秋時代年表

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子夏媯姓陳公子少西字子夏因氏


子夏、姓は媯。(春秋時代)陳国の公子少西が子夏をあざ名に名乗った。その氏族は帝舜の末裔だったからである。(『万姓統譜』巻一百三十二)

『万姓統譜』は明の凌迪知が編んだ本で、彼が生まれたのは春秋時代が終わってから1935年が過ぎてからだった。つまり例によって儒者の出任せでありそうだが、何ら根拠が無いわけでは無い。その根拠とは、春秋時代きっての「淫乱」と言われた夏姫の伝説にある。

陳靈公與孔寧,儀行父,通於夏姬,皆衷其衵服以戲于朝,洩冶諫曰,公卿宣淫,民無效焉,且聞不令,君其納之,公曰,吾能改矣,公告二子,二子請殺之,公弗禁,遂殺洩冶。


陳の霊公の妃の一人に夏姫がおり、夫の霊公公認で、家老の孔寧や儀行父をねやに引き込んで通じた。「兄弟」となった三人は、朝廷で夏姫の下着を互いに見せびらかした。家臣の洩冶が、霊公の面目を思って一対一の機会に苦言を言った。

「殿やご家老ともあろうお方々が、おふざけもいい加減になされよ。殿が淫乱の先頭を切るようでは、民はいっそうしまりが無くなります。民に隠そうとしても、早晩漏れ聞こえて笑いものになりますぞ。その前に、さっさとそんなものはお収いなされよ。」

霊公「わかった、わかった。言うとおりにするから、もう説教はやめい。」霊公はその後で孔寧と儀行父にこぼした。

霊公「あのまじめ人間にコテンパンに言われたわい。」
孔・儀「じゃあ殺しちまいましょう。」
霊公「う、ううむう。」

洩冶は孔・儀に殺されてしまった。(『春秋左氏伝』宣公九年)


陳靈公與孔寧,儀行父,飲酒於夏氏,公謂行父曰,徵舒似女,對曰,亦似君,徵舒病之,公出,自其廄射而殺之,二子奔楚。


陳の霊公が孔寧・儀行父と、夏姫の息子だから当然公族の夏徵舒の屋敷で酒を飲み、夏徵舒が席を外したすきに言った。

霊公「のう行父よ、徵舒はそちに似ておるのう。父はそちか?」
儀行父「何の。あれは殿にそっくりでございます。」

これが夏徵舒の耳に届いて真っ赤になって怒り、酔っ払った霊公が帰ったのを戦車で追い掛けて自ら射殺し、仰天した孔寧と儀行父は、隣の大国・楚国へ飛んで逃げた。(『春秋左氏伝』宣公十年)


楚子為陳夏氏亂故,伐陳,謂陳人無動,將討於少西氏,遂入陳,殺夏徵舒,轘諸栗門,因縣陳,陳侯在晉,申叔時使於齊反,復命而退,王使讓之曰,夏徵舒為不道,弒其君,寡人以諸侯討而戮之,諸侯縣公皆慶寡人,女獨不慶寡人,何故,對曰,猶可辭乎,王曰,可哉,曰,夏徵舒弒其君,其罪大矣,討而戮之,君之義也,抑人亦有言曰,牽牛以蹊人之田,而奪之牛,牽牛以蹊者,信有罪矣,而奪之牛,罰已重矣,諸侯之從也,曰,討有罪也,今縣陳,貪其富也,以討召諸侯,而以貪歸之,無乃不可乎,王曰,善哉,吾未之聞也,反之,可乎,對曰,吾儕小人,所謂取諸其懷而與之也。


孔寧と儀行父の亡命を受け容れた楚の荘王が、夏徵舒の謀反をとがめると称し、大軍を率いて陳に押し寄せた。先遣隊は「陳の一般人は騒ぐな。楚は少西氏(=夏徵舒)を征伐するだけだ」と触れ回った。そのまま本隊が陳軍を押しつぶし、捕らえた夏徵舒を殺し、車裂にして祖先祭殿の門にさらした。

陳の公位を継いだばかりの成公は北方の晋国へ挨拶に出掛けていたが、それをいい事に荘王は陳を楚に併合してしまった。丁度その時、斉に使いに出ていた楚の家臣・申叔時が帰国したが、荘王に謁見して「只今帰りました」とだけ言って出て行ってしまった。首をかしげた荘王が、人をやって申叔時に言わせた。

使い「殿のお言葉でござる。”夏徵舒が無道を働いて主君を殺したゆえ、ワシは同盟の諸侯を率いて謀反人を処刑した。諸侯も陳の知事どもも皆、ワシに感謝しているというのに、そちだけが不機嫌な顔をしよる。どういうわけじゃ”と。」

申叔時「御前へ申し開きに出向いてもよろしゅうござるか?」
使い「いかにも。昇殿せよと殿から言い付かってござる。」

(昇殿した)申叔時「夏徵舒が主君を殺したのは確かに大罪であります。その謀反人を処刑されたのも、殿は正義の味方と言ってよろしいでしょう。ですが世間ではこう申します。牛を牽いてうっかり他人の畑を横切るのは、確かによろしくないが、だからといって牛を取り上げるのはやりすぎだ、と。こたび諸侯が殿に従ったのは、大罪を討つという名分があったからです。ところが殿は陳を併合してしまわれた。これは欲張りと言われても仕方がありません。世間から、正義など立て前に過ぎなかった、最初から欲得づくだったと悪口を言われますぞ。」

荘王「言う通りじゃ。この件で、そちのようにはっきりものを言ってくれる家臣は、初めてじゃのう。陳を陳公に返してやれば、それでよいか。」
申叔時「それでよろしゅうございますよ。やつがれなど下人の間では、こういうのを丁度、”他人の財布で支払いを済ます”と申しますから。」(『春秋左氏伝』宣公十一年)

ところが事件はこれで収まらなかった。

楚之討陳夏氏也,莊王欲納夏姬,申公巫臣曰,不可,君召諸侯,以討罪也,今納夏姬,貪其色也,貪色為淫,淫為大罰,《周書》曰,明德慎罰,文王所以造周也,明德,務崇之之謂也,慎罰,務去之之謂也,若興諸侯,以取大罰,非慎之也,君其圖之,王乃止,子反欲取之,巫臣曰,是不祥人也,是夭子蠻,殺御叔,弒靈侯,戮夏南,出孔儀,喪陳國,何不祥如是,人生實難,其有不獲死乎,天下多美婦人,何必是,子反乃止,王以予連尹襄老,襄老死於邲,不獲其尸,其子黑要烝焉,巫臣使道焉,曰,歸,吾聘女,又使自鄭召之,曰,尸可得也,必來逆之,姬以告王,王問諸屈巫,對曰,其信,知罃之父,成公之嬖也,而中行伯之季弟也,新佐中軍,而善鄭皇戌,甚愛此子,其必因鄭而歸王子,與襄老之尸,以求之,鄭人懼於邲之役,而欲求媚於晉,其必許之,王遣夏姬歸,將行,謂送者曰,不得尸,吾不反矣,巫臣聘諸鄭,鄭伯許之,及共王即位,將為陽橋之役,使屈巫聘於齊,且告師期,巫臣盡室以行,申叔跪從其父將適郢,遇之,曰,異哉,夫子有三軍之懼,而又有桑中之喜,宜將竊妻以逃者也,及鄭,使介反幣,而以夏姬行,將奔齊,齊師新敗,曰,吾不處不勝之國,遂奔晉。


荘王は陳から軍を引き上げたが、捕虜の中には夏姫がいた。荘王は一目見て舌なめずりし、自分の後宮へ入れてしまった。楚の配下にある藩主の申公巫臣が、まじめな顔を「作って」いさめた。

「まずいですぞ。殿が諸侯を集めて陳を討ったのは、正義の審判を下すためでござった。ところが殿は夏姫を自分のものにしてしまわれた。色香に迷ったと言われても仕方がありませんぞ。それに色香に迷えば、必ず天罰が下り申す。『周書』にもござる、徳を明らかにし刑罰を慎重にしたから、文王は天下を取れたと。徳を明らかにするとは、人格を高めることでござる。刑罰を慎むとは、いらぬことをせぬ事でござる。諸侯に布令を出して大軍を催しておきながら、大きな天罰が下るようなことをなさる。これは慎むとは申しませぬぞ。よくよくお考えあれ。」

荘王は「そうじゃのう」といって夏姫を後宮から出した。朝廷に引きずり出された夏姫を見て、たまたまその場にいた王族の子反が心を奪われ、「俺の嫁にするんじゃあ」と言い出した。巫臣はそれにも「顔を作って」説教した。

「あれは疫病神のような女で、最初の夫だった子蠻は若死にし、次の夫の御叔も若死にし、次の夫の霊公は殺され、息子の夏徵舒は刑殺され、孔寧と儀行父は亡命の目に遭い、陳国は一度滅亡し申した。つくづく、どこまで不吉な女でござろう。娶れば貴殿も命が危のうござるぞ。死にたくなければ、他の女になされ。広い天下、美人などいくらでもおるではござらぬか。夏姫に夢中になる価値などござらぬぞ。」ここまで言われて、さすがに子反もあきらめた。

こうなって荘王が始末に困っていると、列座の家臣の中から元老の襄老がまろびでて、「殿~ぉ。老い先短いやつがれに、しぇめて、しぇめて一度春を見しゃせて下しゃいましぇ~。」と言う。「よかろう」と荘王は夏姫を下げ渡したが、襄老は直後に鄭国で起こった邲の戦いで戦死してしまい、遺体も回収できずに終わった。そこに待ってましたとばかりに、襄老の息子黒要が夏姫と通じた。

その夏姫の所へ巫臣がこっそりやってきて、「生国の鄭に帰りなさい。私があなたを娶るから」と言った。その上で鄭に使いをやって工作し、「襄老どのの遺体が見つかったから迎えに来て欲しい」と鄭国に言わせた。夏姫が荘王にこの話を言うと、荘王は何も知らずに巫臣に相談した。

巫臣「鄭の話は事実でしょう。こたび邲の戦いで捕らえた知罃の父・知荘子は…」と、巫臣は春秋諸国朝廷の「序列」やら貴族たちの「関係」やらのウンチクを、あああだこうだと披露したので、うんざりして反論する気を削がれた荘王は、夏姫を鄭に帰すことにした。

出発しようとしたとき、夏姫は見送りの者に「遺体を帰して貰えるまで楚に戻りません」と言った。巫臣は鄭の宮廷に工作し、鄭国公から夏姫との婚姻許可を取り付けた。しばらくして楚で代替わりがあって共王が即位し、王は斉との外交に実績のある屈巫を、斉へ使いに出した。屈巫は「ここぞ」と家財一切を運び出して、斉に向かうと称しその実鄭国に旅立った。

そのとき、楚の家臣・申叔跪は父に同行して楚の都である郢に向かっていたが、道中で屈巫の行列とすれ違った。申叔跪はつぶやいた。「おかしいぞ、巫臣どのは軍使として出向くのに、まるで逢い引きのような笑顔をしている。不真面目にもほどがある。まるで間男が女を連れて逃げるようだ。」

巫臣は斉ならぬ鄭に着くと、「お前は用済みだ」と副使を楚へ蹴り返し、滞在中の夏姫を連れてさっさと斉に逃げようとした。だがまさにその時、斉が戦いに負けてしまったので、「こんな弱っちい国にいては命が危ない」と言い、結局は晋国へ逃げた。(『春秋左氏伝』成公二年)

いずれ書くかも知れないが、訳者が現代のいわゆる「中国通」が得々と語る、「誰それは党内序列ナンバーどうこう」と言うのを、全くの役立たずと聞き流しているのは、中国が春秋の昔からこういう世界だったのを知っているからでもある。

閲覧者諸賢、心されよ。たった今の中国しか知らぬ者の中国ばなしは、話半分になさるがよろしい。

余話

塩漬けニシン

上記のように、論語の本章を色事禁止と言い出した張本人の一人は朱(朱子)。
朱子 新注

国土の北半分を異民族の占領下に置かれた南宋時代ならではで、軍国主義者の朱熹は、論語や儒教に奴隷的献身の教義を持ち込んだ。宋の儒学は合理主義を装った黒魔術で、人の行動の自由を奪った。一方当人は、確認できるだけでも息子三人、娘五人の子だくさんである。

言っている事とやっていることがまるで違う。出来の悪い中学教師のような、助平おやじだ。スポーツで発散できるわけがなく、励めば励むほど●欲が増す生理現象を子供のせいにするような。塩漬けニシンの高級品で有名なオランダの都市、スケベニンゲンを思い出した。
南宋 地図
出典:http://www.rockfield.net/kanbun/classicmap/

儒者のこういう偽善と欺瞞を、明の馮夢竜は遠慮無く笑い飛ばした。

有道學先生行房。既去褻衣。拱手大言曰。吾非。為好色而然也為祖宗綿血食也。乃凸一下。又曰。吾非為好色而然也為朝廷添戶口也又凸一下。復曰。吾非為好色而然也。為天帝廣化育也。又凸一下。或問弟四凸說甚麼。有識者曰。如此道學先生。只三凸便完了。還有甚說。

論語 笑府 馮夢竜
ある儒者の先生が妻と寝る。いざ裸になると大げさな礼を行い、大声で言う。

「色好みゆえではない。ご先祖さまの供養を絶やさぬためである」と一突き。
「色好みゆえではない。お国のために人口を増やすためである」と一突き。
「色好みゆえではない。天が万物を営みたまうのを助け申すのである」と一突き。

ある者「四回目は何と言い訳するんですかね?」
もの知り「こんな先生に言えることなどあるものか。三こすり半でおしまいだよ。」(『笑府』巻二・行房

馮夢竜は明が滅ぶと、それに殉じた数少ない儒者でもある。偽善を笑ったからこそだろう。

『論語』学而篇:現代語訳・書き下し・原文
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