論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰道千乗之國敬事而信節用而愛人使民以時
- 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱。
校訂
諸本
東洋文庫蔵清家本
子曰導千乗之國/敬事而信/節用而愛人/使民以時
※「節」字は〔即〕ではなく〔𭅺〕。
後漢熹平石経
…白道千乗之國敬事…使民以時
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「道千乘之國、敬事而信、節用而愛人、使民以時。」
復元白文(論語時代での表記)
節
書き下し
子曰く、千なす乘之國を道くには、事を敬而信あり、用を節き而人を愛み、民を使ふは時に以ぬ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。戦車千両の国を導くには、政務をまじめに行って信用があり、出費を抑えて人を思いやり、民を使うには時期に任せる。
意訳
中ぐらいの国の統治の要領。
- まじめにやれ。
- 民にウソ付くな。
- 税は安く。
- 民を題字にせよ。
- 労役はヒマな時に。
従来訳
先師がいわれた。――
「千乗の国を治める秘訣が三つある。即ち、国政の一つ一つとまじめに取組んで民の信を得ること、出来るだけ国費を節約して民を愛すること、そして、民に労役を課する場合には、農事の妨げにならない季節を選ぶこと、これである。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「治理國家應該事事認真,時時誠信,處處節約,關心群衆,及時抓住發展機遇。」
孔子が言った。「国家を治めるには、どの事案にも真面目で、いつも誠実で、どこでも倹約し、民衆に気を配り、発展の機会を逃さずつかみ取ることが必要だ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
道(トウ)
論語の本章では”みちびく”。
論語の本章は現存最古の定州竹簡論語に全文を欠き、残石のみ残る漢石経は「道」と記し、本章に関して最古の古注本である東洋文庫蔵清家本は「導」と記す。唐石経は「道」に戻している。隋初の『経典釈文』が「道一本或導に作る」と言う通り、つまり南北朝から中唐にかけては「導」と記す本があったことになる。時系列上、現存最古の漢石経に従い「道」とした。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
年代がざっくりと「唐代」としか分からない敦煌本では、疏に「導」とある。先秦両漢の文献では、前漢の『春秋繁露』に論語の本章の引用があるが、現伝『春秋繁露』は「道千乘」と記し「導」を用いていない。
「道」(甲骨文)/「導」(金文)
「道」の初出は甲骨文。「ドウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「行」”十字路”+「人」で、原義は人の通る”道”。「首」の形が含まれるのは金文から。春秋時代までの語義は”道”または官職名?で、”みちびく”・”道徳”の語義は戦国時代にならないと見られない。詳細は論語語釈「道」を参照。
「導」の初出は春秋早期の金文。「ドウ」は呉音。原義は「道」+「寸」”手”で、「道」の動詞形、”みちびく”。詳細は論語語釈「導」を参照。
千(セン)
(甲骨文)
論語の本章では、数字の”せん”=1000。初出は甲骨文。字形は「人」+「一」で、原義は”一千”。古代は「人」ȵi̯ĕn(平)で「一千」tsʰien(平)を表した。従って「人」に「三」や「亖」を加えて三千や四千を示した例がある。論語の時代までに、”多い”をも意味するようになった。詳細は論語語釈「千」を参照。
乘(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では戦車の助数詞。「ジョウ」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「乗」。甲骨文の字形は人が木に登ったさまで、原義は”のぼる”。論語の時代までに、原義に加えて人名、”乗る”、馬車の数量詞、数字の”四”に用いられた。詳細は論語語釈「乗」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
國(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”周王を宗主とする諸侯国”。新字体は「国」。初出は甲骨文。字形はバリケード状の仕切り+「口」”人”で、境界の中に人がいるさま。原義は”城郭都市”=邑であり、春秋時代までは、城壁外にまで広い領地を持った”くに”ではない。詳細は論語語釈「国」を参照。
加えて恐らくもとは「邦」と書かれていたはずで、漢帝国になって高祖劉邦のいみ名を避ける(避諱)ため、当時では同義になっていた「國」に書き換えたのが、そのまま元に戻らず現伝していると考えられる。詳細は論語語釈「邦」を参照。
千乘之國
論語の本章では”中ぐらいの国”。おそらくこの言葉の初出は、戦国時代まで下る。
「千乗之国」を『孫子』の記述を真に受けて計算すると、総兵力10万の、当時としては超大国になってしまう。孔子の故国、魯は中規模の諸侯国にもかかわらず、下記の通り「千乗の国」を自称しているから、おそらくこれは間違いだろう。
『春秋左氏伝』哀公十四(BC481)年の記述に、魯の家老季康子が、使者として孔子の弟子冉有に、これも孔子の弟子である子路に語らせた言葉として、自国の魯を「千乗の国」と言っている。
また『春秋左氏伝』哀公七年(BC488)の記事では、魯国に攻められた隣国・邾の使者が、呉王に援軍を乞うて「魯国の戦車は八百乗、我が国は六百乗」と言っている。千乗にやや足りないが、国力に大差がある魯国の戦車台数が三割り増し強とは考えにくい。使者の詭弁だろう。
当時の魯はさかんに周囲の小国を兼併するなどしているから、決して小国とは言えないが、西北の晋、東の斉、南の楚、東南の呉といった大国に脅かされる、中原諸侯国の一国なので、”中ぐらいの国”と解するべきだろう。
鄭玄と並び後漢時代きっての大学者と崇め奉られた馬融は、「千乗」について、古注に以下の通りウンチクを書き連ねている。
司馬法六尺為歩歩百為畝畝百為夫夫三為屋屋三為井井十為通通十為城城出革車一乘然則千乘之賦其地千城也居地方三百一十六里有竒唯公侯之封乃能容之雖大國之賦亦不是過焉
春秋時代の兵法諸『司馬法』によると、六尺を一歩とし、百歩を一畝とし、百畝を一夫とし、三夫を一屋とし、三屋を一井とし、十井を一通とし、十通を一城とし、一城には戦時に重戦車一両を軍役として課す。つまり千乗の軍役とは、城千箇所分の軍役である。広さに直すと三百十六里四方よりやや余りがある。これでは公爵や侯爵のような高位な諸侯に限られる。大国の軍事動員力だろうと、これ以上ではない。(『論語集解義疏』)
口から出任せだ。馬融は漢代の儒者が創作した「周の法制度」なるものを根拠に、千乗の国は大国に限られる、と言っている。古注ではこれに続けて、包咸の異説も記されており、「そんなに大きな国ではない」とあるが、これも根拠はニセの「周の制度」。
馬融ほどの人物なら、「周の制度」なるものが、実はニセモノだと知っていたかも知れないが、おそらくはただ不勉強なだけだ。冗談ではなく本気で言うのだが、後漢という時代は調べれば調べるほどふざけた時代で、学者も不埒者が揃っていた(論語解説「後漢というふざけた帝国」)。
新注を書いた朱子は、”諸侯の国”とだけ言い、史実はこれに近い。日本の論語の「訳本」には、”(超)大国”と記しているのがあるが間違っている。また「千乗」という言葉が用いられている論語の他の章は偽作が多く、出土物で確認できるのも戦国時代になってから。
是虖(乎)作爲革車千乘,帶甲萬人,戊午之日,涉於孟津,至於共、縢之間,三軍大犯。武王乃出革車五百乘,帶甲三千。
そこで(周に味方する諸侯の)戦車千乗、鎧武者一万人が集まり、戊午の日に孟の渡し場(現在の河南省孟州市付近)を渡り、共(河南省輝県市付近)、縢(山東省滕州市付近)の付近に集結し、三個軍が気勢を上げた。武王はそれを待って、戦車五百乗、鎧武者三千を旗本とした。(「上海博物館蔵戦国楚竹簡」容成51)
また本章を除く「千乗」の文献上の初出は、孫武の『孫子兵法』ということになっている。
孫子曰:凡用兵之法,馳車千駟,革車千乘,帶甲十萬;千里饋糧,則內外之費賓客之用,膠漆之材,車甲之奉,日費千金,然後十萬之師舉矣。
戦争の基本は兵站だ。軽戦車千両、重戦車千両、装甲兵十万を進撃させるとする。千里の先の戦場まで糧食を輸送するための損耗、命令授受や戦場外交・謀略にかかる費用、武具の修理部品、車両や鎧の修理部品、これらには毎日千金がかかる。その負担に耐えうるのを前提に、やっと十万の兵を出すことが出来るのだ。(『孫子兵法』作戦篇)
この部分は貨幣経済の無い時代に「千金」と書いており、まるまる信用は出来ないが、文字的には本物と断定できる。だが孫子は身分制の一環として「千乗」と言っているわけではない。儒家で千乗と言い出した初めは、実は戦国の世間師である、孟子に他ならない。
萬乘之國弒其君者,必千乘之家;千乘之國弒其君者,必百乘之家。
戦車万乗の国で君主を殺すのは、必ず千乗の家臣で、千乗の国で君主を殺すのは、必ず百乗の家臣だ。(『孟子』梁恵王上篇)
そして孟子も、各氏族の武力の大きさを示すために、万・千・百乗と言っているだけであり、「この家格では戦車は何両」という規定があった、とは全く言っていない。
家格を示す基準として戦車の両数や、「百室の邑」などの部曲の数が示されるのは、漢代の『小載礼記』からになる。
故制:國不過千乘,都城不過百雉,家富不過百乘。
昔の制度。一国は千乗以上の戦車を持ってはならず、都市国家の城壁は百雉(高さ一丈、長さ三丈)を超えてはならず、一家に車百台分以上の財産を蓄えてはならない。(『小載礼記』坊記篇)
つまり「千乗の国」を大国と誤解する始まりは、漢帝国の儒者による創作。
敬(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”慎重に取り扱う”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。
「攵」は手に道具を取った形で、何かを”行う”、”させる”の意を持つ。かしこまっている姿だけでは、くたびれて座っているのと区別がつかないので、のちに「攵」をつけるようになったのだろう。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”政務”。動詞としては主君に”仕える”の語義がある。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
信(シン)
(金文)
論語の本章では、”他人を欺かないこと”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。
節(セツ)
「節」(金文)
論語の本章では”節約する”。初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音も存在しない。詳細は論語語釈「節」を参照。
論語の時代より百年ほどのちから始まる戦国時代、それ以降は、君主が軍隊など支配下にある組織や器物の使用を臣下に許可する際、割り符の片方を臣下に与えた。もう片方は君主が保管しておき、使用を許可する際には使者に持たせて、割り符が一致すれば動員できた。
その割り符を「節」といい、おそらく竹の節のようにその割れ目で二つの割り符が一致するからだろう。ここから、権限はあっても使用には許可が要るような、制御状態にあることを節制といった。
これは虎符と呼ばれる割り符。
縦にスパリと二分され、片方を前線の将軍が、片方を君主が保管した。文字が刻まれることがあり、片身に「これを某地の将軍に与える」もう片身に「これを首都に置く」のように記された。銅で作られたものは戦時に用い、竹で作られたものは演習に用いられたという。
また君主の権限を使者や将軍に委任したことを示す旗印があり、これも「節」という。
用(ヨウ)
(甲骨文)
論語の本章では、.”経費”。初出は甲骨文。字形の由来は不詳。字形の由来は不詳。ただし甲骨文で”犠牲に用いる”の例が多数あることから、生け贄を捕らえる拘束具のたぐいか。甲骨文から”用いる”を意味し、春秋時代以前の金文で、”~で”などの助詞的用例が見られる。詳細は論語語釈「用」を参照。
愛(アイ)
「愛」(金文)/「哀」(金文)
論語の本章では”愛すること”。初出は戦国末期の金文。一説には戦国初期と言うが、それでも論語の時代に存在しない。同音字は、全て愛を部品としており、戦国時代までしか遡れない。
「愛」は爪”つめ”+冖”帽子”+心”こころ”+夂”遅れる”に分解できるが、いずれの部品も”おしむ・あいする”を意味しない。孔子と入れ替わるように春秋時代末期を生きた墨子は、「兼愛非行」を説いたとされるが、「愛」の字はものすごく新奇で珍妙な言葉だったはず。
ただし同訓近音に「哀」があり、西周初期の金文から存在し、回り道ながら、上古音で音通する。論語の時代までに、「哀」には”かなしい”・”愛する”の意があった。詳細は論語語釈「愛」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では人。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
本章では「愛人使民」とあり、「愛民使民」でも「愛人使人」でもない。「人」と「民」を使い分けている。『春秋左氏伝』では「某国人」とあった場合、その国で参政権と従軍義務を持つ士分以上の貴族を指す。論語の本章を創作した儒者が、何の理由で使い分けたかは不詳。
ただし孔子は前代の殷王朝がやった、人をいけにえにするような蛮行には反対したが、民を自分と対等な生き物とは思っておらず、政治的にいじくる対象ととらえた。貧しく生まれて一財産築いた者が、概して貧乏人に厳しいのと似ている。
孔子にとっての民は、牧畜家の家畜と同じで、守りはするが最終的には、利用の対象だった。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”労役に動員する”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
古代中国の税は古代日本同様、収穫物の年貢と労役の二本立て。論語の時代、規格品の貨幣はまだ出現しておらず、南方楚国の金貨「郢爰」が確認できる程度。チョコレート状の金の板で、切り取った一片が「郢爯」と呼ばれる。
現物は日銀金融研究所に収蔵されているらしい。若い頃、仕事で現地に見に行ったが、気のいいお兄ィちゃんが複写フィルムを出してくれたのみで、現物は見ていない。
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”(よい時期に)まかせる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
伝統的には本章を「以てす」と読むが、「以」の原義が”手で道具を用いて仕事をする”であり、もともと動詞の”用いる”の意がある。漢文訓読で「以」の処理に困ったら、ためらわずに「もちいる」という読みを試すとよい。
時(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”良い頃合い”=”農閑期”。初出は甲骨文。「ジ」は呉音。甲骨文の字形は「之」(止)+「日」で、その瞬間の太陽の位置。石鼓文の字形はそれに「又」”手”を加えた形で、その瞬間の太陽の位置を記録するさま。詳細は論語語釈「時」を参照。
当時の庶民はほとんどが農民なので、農繁期に動員したり徴兵したりすると、国力に大きな打撃を受けた。
論語:付記
検証
論語の本章、「敬事而信」の再出は前漢の『春秋繁露』まで下り、その間儒者も他学派も引用していない。「節用而愛人」は孔子とすれ違うように生きた墨子が、「愛人節用」と公孟篇で言っている。しかし孟子は言わず、「使民以時」は誰一人引用していない。
本章は文字史的に論語の時代に遡れないだけでなく、内容的にも疑わしい点がある。
本章について上掲の通り「千乗の国」にもったいを付けた『小載礼記』だが、同じ本で、大国とは言えない魯国に、もともと千乗の戦車があったと書く混乱を見せている。
成王以周公為有勛勞於天下,是以封周公於曲阜,地方七百里,革車千乘,命魯公世世祀周公以天子之禮樂。
周の二代成王は、周公が天下平定に功績があったとして、曲阜を都城として、七百里の領地と、重戦車千両を与え、代々の魯公は周公を祀り、その格式は天子と同等にするよう命じた。(『小載礼記』明堂位)
「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
小載礼記が編まれた前漢代は、いわゆる儒教の国教化が行われた時代だが、必ずしも儒教が他学派を圧倒していたわけではなく、儒家の中でも意見が統一されず、このような異同があったことを示している。現伝の論語の形が定まるのが、後漢末に下るのはそれゆえだ。
以上から本章は、後漢になってから既存の言葉を綴って作られたと考えるべきだろう。
解説
孔子は経済の充実が統治の基本だと理解はしていた(論語顔淵篇7)が、あまりに貧弱な政策だと現代人として思う。ただし孔子の時代の経済状況を、考慮しなければならない。古代ゆえに技術と産業がか細く、貨幣の存在も心細く、おそらく規格品の通貨は存在しない。
孔子の経済政策として、よく「寡きを憂えず、均しからざるを憂う」(論語季氏篇3)が取りあげられるが、この季氏篇の章は史実とは言いがたく、史実と認めうる論語の章で、孔子が経済を説いたのは、本章のみになる。
また魯国の地方代官だった当時の孔子は、肉屋のはかりの誤魔化しを許さなかったほかは、厳罰主義で民を黙らせただけで、生活を豊かにしてやり、好かれたという記録は一切ない。その代わり過酷な取り締まりで民に恐れられたことが、『史記』などの記述から窺える。
具体的には国中にお巡りと密告者をばらまいて、男女が疫病のように互いを寄せ付けずに歩かずにはいられないような奇観を強制した(『史記』孔子世家)。孔子が長年亡命せざるを得なかったのは、こうした厳罰統治を行ったために、貴族だけでなく民衆からも嫌われたからだ。
孔子は本章で民を大事にしろと言わされたが、民の視点で愛民を言い出したのは、孔子ではなく一世紀のちの孟子になる。孟子は確かに論語をいじり回し、創作をねじ込みはしたが、民の視点で政治を語ったからこそ、後世の儒者から好かれたに違いない。
余話
残酷な元手作り
長きにわたり孔子の言葉と信じて疑われなかった本章だが、経済政策として実際後世重んじられたのは、うち「節用」のみだった。孔子没後一世紀に生まれた孟子は「節用」を説かなかったが、さらに60ほど年下の荀子は富国篇で「節用」を説き、歴代の為政者も同様だった。
足國之道:節用裕民,而善臧其餘。節用以禮,裕民以政。彼裕民,故多餘。裕民則民富,民富則田肥以易,田肥以易則出實百倍。上以法取焉,而下以禮節用之,餘若丘山,不時焚燒,無所臧之。夫君子奚患乎無餘?
国の財政を成り立たせる方法は、出費を抑えて民に余裕を持たせることであり、それが実現してから余剰を備蓄するべきである。出費を抑えるには礼法に従い、民に余裕を持たせるには適切な政策を用いる。民に余裕が出来れば、余剰も多くなる道理だ。民に余裕が出来るとは、つまり民が富むことであり、民が富めば農地はよく手入れされ、農地がよく手入れされたら、収穫は百倍に上ろう。そこで政府が定め通りに徴税し、民百姓は礼法に従って節約する。そうすれば余剰は山のように積み上がる。不意の火事で焼けてしまったり、仕舞い場所に困ることはあろうが、君子が世の財政に余裕が無いと心配する必要はどこにも無くなる。(『荀子』富国2)
日本では松平定信や水野忠邦もそうであり、徳川吉宗の享保の改革はその先頭を切ったが、経済政策は全て失敗と評価されている。市場に倹約を強要すれば、一挙に景気が冷え込むからだ。それが分からなかったのは、「数」を教えた孔子と違い、数理を重んじなかったからだ。
江戸のいわゆる三代改革のうち、享保の改革に限っては、確かに幕府財政は持ち直したとされる。ただしこれは幕府のツケを諸藩や民間に押し付けた結果であり、日本一国単位でうまく行ったとは言いがたい。自家さえ助かればよいとするのは、政府をやめます宣言に他ならない。
「寡き」を奪い合い、自家に偏る「均しからざる」に狂奔した。封建国家とはそういうものかも知れないが、自国に植民地を置くのと変わらない。東北諸藩は米を飢餓輸出し、白川藩主として成果を出した松平定信は、近隣諸藩に飢餓を押し付けることで「名君」の評判を得た。
天保の改革とほぼ同時期、薩摩藩の調所広郷は、一説に500万両(すごくおおざっぱに言って5千億円)*に膨れあがった藩の借金を、踏み倒しとニセ金造りと奄美諸島の搾取で解消し、倒幕の基礎を作った。スターリンは工業化の資金を、一説に約1.5億人の農民を殺して作った。
*wikipediaによると、2012年度の鹿児島県の標準財政規模は4728億9602万円。
だが調所とスターリンは、おそらく毒殺されている。イングランドが大英帝国創立の元手を作った手は、新大陸で現住民を殺して銀を奪っていたスペイン船を襲い、アイルランド人を殺して土地を奪い、次にジャワで虐殺と略奪をほしいままにしていたオランダ船を襲ったことだ。
自国ではせいぜい拉致による水兵調達しかしなかったから、悪口を言われずに済んでいる。
人間は光合成の出来ない従属生物である以上、生命を殺して食べないと生きられない。どころか毎呼吸ごとに万単位の微生物を粘膜の作用で殺さないと死んでしまう。だからある種の人が食事のたびに、「頂きます」と感謝を口にする。人間としてかなり大切なことのように思う。
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