『史記』現代語訳:孔子世家(10)衛国放浪

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

匡人解圍

孔子遂適衛、主于子路妻兄顔濁鄒家。衛靈公問孔子「居魯得祿幾何?」對曰「奉粟六萬。」衛人亦致粟六萬。居頃之、或譖孔子於衛靈公。靈公使公孫余假一出一入。孔子恐獲罪焉、居十月、去衛。
孔子遂に衛に適き、子路の妻の兄、顔濁鄒(ガンダクスウ)の家に主(やど)る。衛の霊公、孔子に問う、「魯に居りしとき禄を得たること幾何ぞ」と。対えて曰く、「奉粟六萬なりき」と。衛人も亦た粟六萬を致す。居ること之の頃(ころあい)、或るひと孔子を衛の霊公に譖(そし)る。霊公、公孫余をして一出一入を仮さしむ。孔子、罪を獲ることを恐れ、居ること十月にして、衛を去る。

孔子はとうとう衛に行き、子路の妻の兄の顏濁鄒家に滞在した。衛の霊公は孔子に問うた。「魯での俸禄はどれほどか。」答えて言った。「俸禄、粟六万*です。」そこで霊公は同じく粟六万を支給した。しばらくしてある人が霊公に、孔子を悪く言った。霊公は公孫余をつかわして、家の出入りを一々許可制にした。孔子は罰せられるのを恐れ、滞在十ヶ月で衛を去った。


*粟六万:現代換算で約111億円。詳細は論語憲問篇20語釈を参照。


將適陳、過匡、顔刻爲仆、以其策指之曰「昔吾入此、由彼缺也。」匡人聞之、以爲魯之陽虎。陽虎嘗暴匡人、匡人於是遂止孔子。孔子狀類陽虎、拘焉五日、顔淵後、子曰「吾以汝爲死矣。」顔淵曰「子在、回何敢死!」
将に陳に適(ゆ)かんとし、匡(キョウ)を過ぐ。顔刻、僕と為り、其の策(むち)を以て之を指して曰く、「昔、吾、此こに入りしは、彼の缺(すきま)に由りしなり。」匡人、之を聞き、以て魯の陽虎と為す。陽虎、嘗て匡人を暴(しいた)げり。匡人、是に於いて遂に孔子を止む。孔子の状は陽虎に類(に)たり。焉(これ)を拘(とら)うること五日。顔淵後る。子曰く、「吾、汝を以て死せりと為す。」顔淵曰く、「子在すに、回、何ぞ敢て死せん。」

顔刻 顔高
今ここで陳に行こうとして、匡を通り過ぎた。顔刻が御者になり、その鞭で城壁を指して言った。「昔私がこのまちに入ったのは、この隙間からです。」匡の住人はこれを聞いて、魯の陽虎だと思った。

陽虎は以前、匡で乱暴を働いたので、住人はとうとう孔子を取り囲んだ。孔子の顔が陽虎に似ていたので、人違いされたのである。

顔回
五日間取り囲まれているうちに、顔回が取り残されてしまった。追いついた顔回に孔子は言った。「お前が死んでしまったかと思った。」顔回が言った。「先生が生きておわすのに、なぜ私が先立ちましょう。」

匡人拘孔子益急、弟子懼。孔子曰「文王既沒、文不在茲乎?天之將喪斯文也、後死者不得與于斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何!」孔子使從者爲甯武子臣於衛、然後得去。去即過蒲。
匡人、孔子を拘ること益々急にして、弟子懼(おそ)る。孔子曰く、「文王既に没し、文は茲(ここ)に在らずや。天の将に斯(か)の文を喪(ほろぼ)さんとするや、後に死せん者、斯の文に與るを得ざらんなり。天の未だ斯の文を喪さざるや、匡人、其れ予(われ)を如何せん。」孔子、従者をして衛に甯武子(ネイブシ)の臣と為らしめ、然る後去るを得たり。去りて即ち蒲を過ぐ。

匡の住人は孔子をますますきびしく取り囲んだので、弟子は恐怖した。孔子が言った。「周の文王はすでに没し、その文化は私と共にある。天が今ここで文化を滅ぼそうとするなら、後世の者はこの文化に触れることはできない。

天がまだこの文化を滅ぼさないつもりなら、匡の住人如きが私に何が出来ようか。」孔子は従者をつかわし衛の家老・甯武子の家臣にさせ、その力を得た後、匡を脱出できた。そのまま蒲のまちを通り過ぎた。
孔子移動地図4

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だし、訳者に連絡のお気遣いも不要だが(ただしネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。

言い訳無用。訳者が「やった」と思えば全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。空港の刃物検査通過は、やったことがあるが存外簡単だ。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。朴ったら○すぞ。それでもやるなら、覚悟致せ。



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