『史記』現代語訳:孔子世家(16)冉求帰魯

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

論語 知魯廟災

冬、蔡遷於州來。是歲魯哀公三年、而孔子年六十矣。齊助衛圍戚、以衛太子蒯聵在故也。夏、魯桓厘廟燔、南宮敬叔救火。孔子在陳、聞之、曰「災必於桓厘廟乎?」已而果然。秋、季桓子病、輦而見魯城、喟然歎曰「昔此國幾興矣、以吾獲罪於孔子、故不興也。」顧謂其嗣康子曰「我即死、若必相魯、相魯、必召仲尼。」後數日、桓子卒、康子代立。
冬、蔡、州來に遷る。是の歳、魯の哀公三年にして、孔子年六十なり。斉、衛を助けて戚を囲む。衛の太子蒯聵の在りしを以ての故なり。夏、魯の桓・釐の廟燔く、南宮敬叔、火を救う。孔子、陳に在りて、之を聞き、曰く、「災は必ず桓・釐の廟に於いてせんか。」已にして果たして然り。秋、季桓子病み、輦(レン)もて魯の城を見、喟然として歎じて曰く、「昔、此の国は幾んど興らんとせしが、吾、罪を孔子に獲しを以て、故に興らざりしなり。」顧みて其の嗣康子に謂いて曰く、「我、即し死なば、若必ず魯に相たらん。魯に相たれば、必ず仲尼を召せ。」後数日して、桓子卒し、康子代わりて立つ。

冬、蔡国は楚国に圧迫され、都城を州来に移した。この年、魯哀公の三年(BC492)で、孔子は六十歳だった。斉は衛太子蒯聵(カイカイ)が戚に居座ったことを理由に、衛の出公を助けて戚を包囲した。

論語 南宮括 子容
夏、魯の桓公・釐公(リコウ)の霊廟が焼け、南宮敬叔が火事を消した。孔子は陳にいて知らせを聞き、言った。「火災は間違いなく、桓公・釐公の霊廟だろう」と。詳報が届けば果たしてその通りだった。

秋、李桓子が病気になり、手押し車に載せられて、外から魯の城を眺め、ため息をついて嘆いた。「この国はほとんど栄える寸前まで言ったが、私が孔子を追い出したので、ダメになってしまった。」

振り返って、後継ぎの李康子に言った。「わしはもう死ぬ。お前は魯の宰相になるだろう。就任したら、必ず孔子を呼び戻すのだ。」数日後、李桓子が亡くなり、李康子が跡を継いだ。

已葬、欲召仲尼。公之魚曰「昔吾先君用之不終、終爲諸侯笑。今又用之、不能終、是再爲諸侯笑。」康子曰「則誰召而可?」曰「必召冉求。」於是使使召冉求。冉求將行、孔子曰「魯人召求、非小用之、將大用之也。」是日、孔子曰「歸乎歸乎!吾黨之小子狂簡、斐然成章、吾不知所以裁之。」子贛知孔子思歸、送冉求、因誡曰「即用、以孔子爲招。云。」
已に葬り、仲尼を召さんと欲す。公之魚曰く、「昔、吾が先君之を用いて終えず、終に諸侯の笑いと為る。今又、之を用いて、終わること能わずんば、是れ、再び諸侯の笑いと為れり。」康子曰く、「則ち誰をか召して可ならん。」曰く、「必ず冉求を召せ。」是に於いて使いをして冉求を召さしむ。冉求将に行かんとし、孔子曰く、「魯人の求を召すは、之を小用するに非ず。将に之を大用せんとするなり。」是の日、孔子曰く、「帰らんか帰らんか、吾が党の小子、狂簡にして、斐然として章を成せり。吾、之を裁する所以を知らず。」子貢、孔子の帰るを思うを知り、冉求を送り、因って誡めて曰く、「即し、用いられなば、孔子を以て招くを為せ。云う。」

葬儀が終わり、孔子を呼ぼうとした。季康子の家臣、公之魚が言った。「以前、吾が先君・季桓子は孔子を用いましたが、途中で追い出しました。それでとうとう、諸侯の笑い者になってしまいました。今、再び孔子を用いて、やっぱりダメだと追い出せば、また諸侯の笑い者になってしまいます。」

論語 冉求 冉有
李康子が言った。「では誰をよんだらいいのか。」答えて言った。「まさに冉求です。まず彼を呼びましょう。」こうして使者をつかわし、冉求を呼び寄せた。冉求はすぐさま行こうとしたので、孔子は言った。「魯の者がお前を呼ぶのは、下っ端としてではないだろう。必要に迫られ、重い職を与えることだろう。」

この日、孔子は言った。「帰ろうか。帰ろうか。我が一門の若弟子は、意気盛んだが経験が足りない。手の込んだ工作をしているが、私にもその仕上げ方が分からない。」

論語 子貢
子貢は孔子が帰りたがっているのを知り、冉求を見送って、言い含めて戒めた。「任用されたら、すぐに孔子を呼び戻させろ。必ずだぞ。」

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