論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
月餘、反乎衛、主蘧伯玉家。靈公夫人有南子者、使人謂孔子曰「四方之君子不辱欲與寡君爲兄弟者、必見寡小君。寡小君願見。」孔子辭謝、不得已而見之。夫人在絺帷中。孔子入門、北面稽首。夫人自帷中再拜、環佩玉聲璆然。孔子曰「吾鄉爲弗見、見之禮答焉。」子路不說。孔子矢之曰「予所不者、天厭之!天厭之!」
月余にして、衛に反(かえ)り、蘧伯玉(キョハクギョク)の家に主(やど)る。霊公の夫人に南子なる者有り。人をして孔子に謂わしめて曰く、「四方(よも)の君の寡君と兄弟と為らんと欲するを辱(かたじけなし)とせざる者は、必ず寡小君に見(まみ)ゆ。寡小君も見んことを願えり。」孔子、辞謝するも、已(や)むを得ずして之に見ゆ。夫人、絺帷(チイ)の中に在り。孔子、門に入り、北面して稽首(ケイシュ)す。夫人、帷中自り再拝す。環珮(カンハイ)の玉声、璆然(キュウゼン)たり。孔子曰く、「吾、郷(さき)に見えざらんと為せり、之に見えて礼答せり。」子路説ばず。孔子、之に矢(ちかい)て曰く、「予、不(しか)らざる所の者ならば、天、之を厭(いと)わん、天、之を厭わん。」
一ヶ月余りで衛に帰り、蘧伯玉家に寄宿した。衛霊公の夫人に南子という者がいて、人をつかわして孔子に言った。「四方の君子で、我が殿と兄弟になろうとして、偶然を頼まない者は、必ず私と会見します。私は会見を願います。」
孔子は辞退したが、やむを得ず南子と会った。南子は薄い葛布のとばりの中にいた。孔子は門より入り、北面して頭を地に付けて挨拶した。夫人はとばりの中から挨拶を返し、身につけた宝石の音がコロコロと鳴った。
孔子が言った。「私は以前、お会いしませんでしたが、今お目にかかって挨拶を申し上げます。」会見を終えて出たが、子路は不満顔だった。孔子が天に誓って言った。「私に後ろ暗いことがあれば、天が嫌って罰するだろう。罰するだろう。」
居衛月餘、靈公與夫人同車、宦者雍渠參乘、出、使孔子爲次乘、招搖巿過之。孔子曰「吾未見好德如好色者也。」於是醜之、去衛、過曹。是歲、魯定公卒。孔子去曹適宋、與弟子習禮大樹下。宋司馬桓魋欲殺孔子、拔其樹。孔子去。弟子曰「可以速矣。」孔子曰「天生德於予、桓魋其如予何!」
衛に居ること月余、霊公、夫人と車を同じうし、宦者雍渠(ヨウキョ)、参乗して出づ。孔子をして次乗と為らしめ、市を招揺(ショウヨウ)し、之を過ぐ。孔子曰く、「吾、未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ざるなり。」是に於いて之を醜(は)じ、衛を去り、曹に過(わた)る。是の歳、魯の定公卒す。孔子、曹を去り宋に適き、弟子と與に礼を大樹の下に習う。宋の司馬桓魋(カンタイ)、孔子を殺さんと欲し、其の樹を抜く。孔子去る。弟子曰く、「速やかにす可し。」孔子曰く、「天、徳を予に生ず。桓魋其れ予を如何せん。」
衛に滞在してから一ヶ月余りのこと、衛霊公は夫人南子とともに同車し、宦官の雍渠が添えのりし、車を出した。孔子を後ろの車に乗せて引き回し、街をあちこちめぐり回った。孔子が言った。「私はこれまで、女色のように徳を好む者を見たことがない。」この扱いを恥じて、衛を去り曹を通り過ぎた。この年(定公十五年、BC495)、魯の定公が亡くなった。
孔子は曹を去り宋に行った。そこの大きな樹の下で、弟子と共に礼法を実習した。宋の司馬の桓魋が孔子を殺そうとし、その樹を引き抜いた。孔子は樹の下から逃げ出した。弟子が言った。「急いで下さい。」孔子が言った。「天は人格力を私に与えた。桓魋ごときが私に何が出来ようか。」
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