『史記』現代語訳:孔子世家(27)春秋筆法

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

論語 義誅正卯

子曰「弗乎弗乎、君子病沒世而名不稱焉。吾道不行矣、吾何以自見於後世哉?」乃因史記作春秋、上至隱公、下訖哀公十四年、十二公。據魯、親周、故殷、運之三代。約其文辭而指博。故吳楚之君自稱王、而春秋貶之曰「子」、踐土之會實召周天子、而春秋諱之曰「天王狩于河陽。」
子曰く、「弗るか弗るか、君子は、世を没して、名、称せられざるを病む。吾が道は行われず、吾、何を以てか自ら後世に見われんや。」乃ち史記に因りて春秋を作る。上は隠公に至り、下は哀公の十四年に訖(おわ)り、十二公なり。魯に拠り、周を親しむ。殷を故とし、之を三代に運らす。其の文辞を約にして、而も指(むね)は博し。故に呉・楚の君は自ら王と称せしも、而れども春秋には之を貶して子と曰う。践土の会は実に周の天子を召す。而して春秋は之を諱みて曰う、天王、河陽に狩す、と。

〔どのような晩年を過ごそうかと、あれこれ先人の生涯を思った上で〕孔子が言った。「いやいや、私は真似しないぞ。君子は死後に賞賛されないことを心配するものだ。私の提唱する政治が世間に受け入れられなかった以上、私は後世から何と言われるだろうか。」

そこで歴史記録を参照して『春秋』を書いた。古くは魯の隠公から始まり、新しくは魯の哀公十四年で終わり、十二公の時代の出来事を記した。『春秋』は魯国公の年代記を基本とし、周王を尊んで記した。文明の中心を殷のそれだとし、夏はその発祥、周はその発展だと見なした。

言葉はごく簡単に書いたが、そこに多くの意味を含ませた。例えば呉や楚の君主は国王を自称したが、『春秋』では周から与えられた爵位に合わせ、位を落として子爵と書いた。踐土の会は、晋の文公が周の天子を呼びつけたのだが、『春秋』ではその事実を忌み嫌って、「天王は河陽で狩りをした」と書き換えた。

推此類以繩當世。貶損之義。後有王者舉而開之、春秋之義行、則天下亂臣賊子懼焉。孔子在位聽訟、文辭有可與人共者、弗獨有也。至於爲春秋、筆則筆、削則削、子夏之徒不能贊一辭。弟子受春秋、孔子曰「後世知丘者以春秋、而罪丘者亦以春秋。」
此の類を推し、以て当世を縄(ただ)し、貶損の義あり。後に王者有りて挙げて之を開き、春秋の義行われなば、則ち天下の乱臣賊子懼れん。孔子、位に在りて訟を聴くや、文辞人と共にす可き者有れば、独り有せざるなり。春秋を為るに至り、筆すべきは則ち筆し、削るべきは則ち削る。子夏の徒、一辞を賛すること能わず。弟子、春秋を受く。孔子曰く、「後世に丘を知る者は春秋を以てせん、而して丘を罪する者も亦た春秋を以てせん。」

こういう書き方で当時の世を正そうとしたので、『春秋』の本文には悪口の意味が潜んでいる。のちの世に孔子好みの王者が現れて、『春秋』を読んで礼法外れの者どもを罰し、悪口を事実にするようなことがあれば、間違いなく天下のワル大臣やニセ君子は恐れるだろう。

孔子は司法大臣として訴訟を裁いたが、判決文はふさわしい人が共にいれば、独りで書くべきでないと思っていた。しかし『春秋』を書く時だけは、独断で書くべきを書き、削るべきを削った。だから文章に優れた弟子の子夏でも、一言も書かせて貰えなかった。
論語 子夏

出来上がった『春秋』を弟子に授けながら、孔子は言った。「後の世で私を理解する者は、『春秋』を読んで理解するに違いない。私をけなす者も、やはり『春秋』を読んでのことに違いない。」

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