論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
〔どのような晩年を過ごそうかと、あれこれ先人の生涯を思った上で〕孔子が言った。「いやいや、私は真似しないぞ。君子は死後に賞賛されないことを心配するものだ。私の提唱する政治が世間に受け入れられなかった以上、私は後世から何と言われるだろうか。」
そこで歴史記録を参照して『春秋』を書いた。古くは魯の隠公から始まり、新しくは魯の哀公十四年で終わり、十二公の時代の出来事を記した。『春秋』は魯国公の年代記を基本とし、周王を尊んで記した。文明の中心を殷のそれだとし、夏はその発祥、周はその発展だと見なした。
言葉はごく簡単に書いたが、そこに多くの意味を含ませた。例えば呉や楚の君主は国王を自称したが、『春秋』では周から与えられた爵位に合わせ、位を落として子爵と書いた。踐土の会は、晋の文公が周の天子*を呼びつけたのだが、『春秋』ではその事実を忌み嫌って、「天王は河陽で狩りをした」と書き換えた。
*天子:この言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
こういう書き方で当時の世を正そうとしたので、『春秋』の本文には悪口の意味が潜んでいる。のちの世に孔子好みの王者が現れて、『春秋』を読んで礼法外れの者どもを罰し、悪口を事実にするようなことがあれば、間違いなく天下のワル大臣やニセ君子は恐れるだろう。
孔子は司法大臣として訴訟を裁いたが、判決文はふさわしい人が共にいれば、独りで書くべきでないと思っていた。しかし『春秋』を書く時だけは、独断で書くべきを書き、削るべきを削った。だから文章に優れた弟子の子夏でも、一言も書かせて貰えなかった。
出来上がった『春秋』を弟子に授けながら、孔子は言った。「後の世で私を理解する者は、『春秋』を読んで理解するに違いない。私をけなす者も、やはり『春秋』を読んでのことに違いない。」
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