論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
魯定公十三年(BC497)夏、孔子は魯定公に言った。「礼法に拠れば、臣下は鎧を着た兵士を養ってはならず、家老格は高さ一丈(1.8m)、長さ三百丈(540m)*を超える城を築いてはなりません。」そこで子路をつかわして李氏の執事にさせ、門閥家老三家=三桓の都城を壊そうとした。
ここで三桓の一家・叔孫氏は先んじて郈邑を壊した。李氏が今にも費邑を壊そうとすると、公山不狃と叔孫輒が費邑の住人を率いて、魯の都城・曲阜を襲った。魯定公は李桓子、孔子、子路とともに季氏の屋敷に入り、李桓子の先先代・李武子が作った高台に登った。
費の軍は高台を攻めたが勝てなかった。しかし屋敷の敷地に入り、定公の近くまで来た。孔子は申句須、楽頎に命じて、台を降りて費の軍勢を討たせた。費の軍勢は逃走した。魯の国人はこれを追いかけ、これらを姑蔑で負かした。公山不狃と叔孫輒は斉に逃亡し、かくしてとうとう費邑を壊した。
次に成邑を壊そうとしたとき、公斂處父が孟孫に言った。「成邑を壊せば、斉の軍が必ず魯の都城の北門まで押し寄せるでしょう。しかも成邑は孟氏の根拠地で、成邑がなければ、孟氏もありません。私は今ここで踏ん張って、壊させないようにします。」十二月、魯定公は成邑を包囲したが、勝てなかった。
*原文「百雉」。高さ一丈(≒180cm)、長さ一丈の城を堵といい、三堵を雉という。
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魯の定公十四年(BC496)、孔子は五十六歳であった。司法大臣から進んで国務大臣を代行し、顔に喜びを表した。門人が言った。「君子は災いが来ても恐れず、幸福が来ても喜ばないと聞きますが…。」孔子が言った。「そのような言葉も有る。しかし『高い身分で人にへりくだるのを楽しむ』とも言わないか?」
国務代行の職について、魯の家老で政治を乱した少正卯という者を処刑した。魯公とともに国政を司り、三ヶ月が過ぎると、子羊と豚を売る者は値段をごまかさなくなり、道を行く男女は別々に歩くようになり、落とし物を猫ばばする者もいなくなった。郊外から魯の都城に来た行商人は、役人に訴え出なくても、商品の代金を踏み倒されなくなった。
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