『史記』現代語訳:孔子世家(8)三都破壊

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

論語 禮堕三都

定公十三年夏、孔子言於定公曰「臣無藏甲、大夫毋百雉之城。」使仲由爲季氏宰、將墮三都。於是叔孫氏先墮郈。季氏將墮費、公山不狃、叔孫輒率費人襲魯。公與三子入于季氏之宮、登武子之台。費人攻之、弗克、入及公側。孔子命申句須、樂頎下伐之、費人北。國人追之、敗諸姑蔑。二子奔齊、遂墮費。將墮成、公斂處父謂孟孫曰「墮成、齊人必至於北門。且成、孟氏之保鄣、無成是無孟氏也。我將弗墮。」十二月、公圍成、弗克。
定公十三年夏、孔子、定公に言いて曰く、「臣は甲を蔵する無く、大夫は百雉の城毋(な)し」と。仲由をして季氏の宰と為らしめ、将に三都を堕(こぼ)たんとす。是に於いて叔孫氏先ず郈(コウ)を堕つ。季氏将に費を堕たんとす。公山不狃(コウザンフチュウ)・叔孫輒(シュクソンチョウ)、費人を率いて魯を襲う。公と三子は季氏の宮に入り、武子の臺に登る。費人、之を攻めて、克たず。入りて公の側に及ぶ。孔子、申句須(シンクシュ)・楽頎(ガクキ)に命じて、下りて之を伐たしむ。費人北ぐ。国人、之を追い、諸を姑蔑に敗る。二氏斉に奔(はし)り、遂に費を堕つ。将に成を堕たんとす。公斂處父(コウレンショホ)、孟孫に謂いて曰く、「成を堕たば、斉人必ず北門に至らん。且つ成は孟氏の保鄣なり。成無くんば是れ孟氏無からん。我将に堕たざらんとす」と。十二月、公、成を囲み、克たず。

魯定公十三年(BC497)夏、孔子は魯定公に言った。「礼法に拠れば、臣下は鎧を着た兵士を養ってはならず、家老格は高さ一丈(1.8m)、長さ三百丈(540m)*を超える城を築いてはなりません。」そこで子路をつかわして李氏の執事にさせ、門閥家老三家=三桓の都城を壊そうとした。

ここで三桓の一家・叔孫氏は先んじて郈邑を壊した。李氏が今にも費邑を壊そうとすると、公山不狃と叔孫輒が費邑の住人を率いて、魯の都城・曲阜を襲った。魯定公は李桓子、孔子、子路とともに季氏の屋敷に入り、李桓子の先先代・李武子が作った高台に登った。

費の軍は高台を攻めたが勝てなかった。しかし屋敷の敷地に入り、定公の近くまで来た。孔子は申句須、楽頎に命じて、台を降りて費の軍勢を討たせた。費の軍勢は逃走した。魯の国人はこれを追いかけ、これらを姑蔑で負かした。公山不狃と叔孫輒は斉に逃亡し、かくしてとうとう費邑を壊した。

次に成邑を壊そうとしたとき、公斂處父が孟孫に言った。「成邑を壊せば、斉の軍が必ず魯の都城の北門まで押し寄せるでしょう。しかも成邑は孟氏の根拠地で、成邑がなければ、孟氏もありません。私は今ここで踏ん張って、壊させないようにします。」十二月、魯定公は成邑を包囲したが、勝てなかった。

*原文「百雉」。高さ一丈(≒180cm)、長さ一丈の城を堵といい、三堵を雉という。

論語 魯国 地図
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定公十四年、孔子年五十六、由大司寇行攝相事、有喜色。門人曰「聞君子禍至不懼、福至不喜。」孔子曰「有是言也。不曰‘樂其以貴下人’乎?」於是誅魯大夫亂政者少正卯。與聞國政三月、粥羔豚者弗飾賈、男女行者別于塗、塗不拾遺、四方之客至乎邑者不求有司、皆予之以歸。
定公十四年、孔子年五十六、大司寇由り摂相の事を行いて、喜色有り。門人曰く、「聞く、君子は禍至れども懼れず、福至れども喜ばす」と。孔子曰く、「是の言有り。其の貴きを以て人に下るを楽しむ、と曰ずや」と。是に於いて魯の大夫の政を乱せる者の少正卯(ショウセイボウ)を誅す。国政を與り聞くこと三月にして、羔(コウ)豚に粥(のり)する者、賈(あたい)を飾らず、男女の行く者は塗(みち)を別にし、塗に遺ちたるを拾わず、四方の客の邑に至る者は、有司に求めざれども、皆之に予(あた)え以て帰らしむ。

魯の定公十四年(BC496)、孔子は五十六歳であった。司法大臣から進んで国務大臣を代行し、顔に喜びを表した。門人が言った。「君子は災いが来ても恐れず、幸福が来ても喜ばないと聞きますが…。」孔子が言った。「そのような言葉も有る。しかし『高い身分で人にへりくだるのを楽しむ』とも言わないか?」

国務代行の職について、魯の家老で政治を乱した少正卯という者を処刑した。魯公とともに国政を司り、三ヶ月が過ぎると、子羊と豚を売る者は値段をごまかさなくなり、道を行く男女は別々に歩くようになり、落とし物を猫ばばする者もいなくなった。郊外から魯の都城に来た行商人は、役人に訴え出なくても、商品の代金を踏み倒されなくなった。

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コメント

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