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『史記』現代語訳:孔子世家(4)儒者滑稽

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

墳羊辨怪

晏嬰進曰「夫儒者滑稽而不可軌法、倨傲自順、不可以爲下、崇喪遂哀、破産厚葬、不可以爲俗、遊說乞貸、不可以爲國。自大賢之息、周室既衰、禮樂缺有間。今孔子盛容飾、繁登降之禮、趨詳之節、累世不能殫其學、當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗、非所以先細民也。」後景公敬見孔子、不問其禮。異日、景公止孔子曰「奉子以季氏、吾不能。」以季孟之間待之。齊大夫欲害孔子、孔子聞之。景公曰「吾老矣、弗能用也。」孔子遂行、反乎魯。
晏嬰進みて曰く、「夫(そ)れ儒者は滑稽(くちうまき)にして、軌法とす可(べ)からず。倨傲(おごりたかぶり)て自らに順う、以て下と為す可からず。喪を崇(とうと)び哀しみを遂げ、産を破り葬を厚くす、以て俗と為す可からず。游説(ときまわり)て貸(か)るを乞う、以て国を為(おさ)む可からず。大賢の息(や)みし自り、周室既に衰え、礼楽の缺(か)けて間(ま)有り。今、孔子は容(かたち)飾(かざり)を盛んにし、登り降りの礼、趨詳(たちいふるまい)の節を繁(しげ)くす。世を累(かさ)ねて其の学を殫(つく)すこと能(あた)わず。当年、其の礼を究(きわ)むること能わず。君、之を用い以て斉の俗(ならい)を移さんと欲するは、細民(たみびと)に先んずる所以(ゆえん)に非ざるなり」と。後、景公、敬みて孔子を見るも、其の礼を問わず。異日、景公、孔子を止めて曰く、「子を奉ずるに季氏を以てすることは、吾、能わず。季・孟の間を以て之を待たん」と。斉の大夫、孔子を害せんと欲す。孔子、之を聞く。景公曰く、「吾老いたり、用うること能わず」と。孔子遂に行(さ)り、魯に反る。

晏嬰が進み出て言った。

「そもそも儒者は口車が達者なだけで、手本にするべきではありません。おごりたかぶり自らを正しいとしますから、家臣に雇うことは出来ません。葬儀を尊びわあわあと嘘泣きし、遺族に財産をはたかせて厚く葬るので、習俗とすべきではありません。諸侯を転ばせて金をせびり取るので、国を治めさせるべきではありません。

周文王・武王の如き大賢者が亡くなってから、周室はすでに衰え、礼儀と音楽が欠けてからしばらくたちます。今、孔子は見た目を飾り立て、上り下りの礼や作法を面倒にしましたから、世代を重ねても覚え切ることはできません。今年一年ならなおさらです。殿が孔子を用い、斉の習俗を変えようとするのは、数多い民を導く方法ではありません。」

その後、景公は孔子を敬って会ったが、礼は問わなかった。さらに別の日、景公は孔子を引き止めて言った。「そなたを李氏のように待遇することはできない。李氏と孟子の中間程度でどうか。」この噂を聞いた斉の家老たちは、孔子を殺害しようと企てた。孔子はその話を聞いたが、景公が言った。「私は老いた。そなたを用いることはできない。」

孔子はとうとう去ることにし、魯に帰った(昭公二十七年、BC515)。
孔子移動地図3

孔子年四十二、魯昭公卒于乾侯、定公立。定公立五年、夏、季平子卒、桓子嗣立。季桓子穿井得土缶、中若羊、問仲尼雲「得狗」。仲尼曰「以丘所聞、羊也。丘聞之、木石之怪夔、罔閬、水之怪龍、罔象、土之怪墳羊。」
孔子年四十二、魯の昭公、乾侯に卒(シュッ)し、定公立つ。定公立ちて五年、夏、季平子卒し、桓子嗣ぎて立つ。季桓子、井を穿(うが)ち、土缶(ドフ)を得たり。中、羊の若きあり。仲尼に問いて云う、「狗を得たり。」仲尼曰く、「丘が聞く所を以てすれば、羊なり。丘、之を聞く、木石(ボクセキ)の怪は虁(キ)・罔閬(モウリョウ)、水の怪は、龍・罔象(モウショウ)、土の怪は、墳羊(フンヨウ)」と。

孔子が四十二歳のとき(昭公三十二、BC510)、魯昭公が乾侯で亡くなり、定公が立った。定公が立って五年(BC505)の夏、李平子が亡くなり、李桓子があとを継いで立った。

季桓子が井戸を掘って、土の素焼きの瓶(かめ)を得た。中には羊のようなものが入っていたので、孔子に問うて言った。「犬を得た。」孔子が言った。「わたしが聞くところによると羊でしょう。木石の妖怪は一本足の罔閬で、水の妖怪は龍か罔象で、土の妖怪は墳羊だと聞きます。」

『史記』孔子世家:現代語訳
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