論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
孔子以詩書禮樂教、弟子蓋三千焉、身通六藝者七十有二人。如顔濁鄒之徒、頗受業者甚衆。孔子以四教文、行、忠、信。絕四毋意、毋必、毋固、毋我。所慎齊、戰、疾。子罕言利與命與仁。不憤不啓、舉一隅不以三隅反、則弗複也。
孔子、詩書礼楽を以て教え、弟子は蓋し三千、身、六芸に通ずる者七十有二人あり。顔濁鄒(ガンダクスウ)が如きの徒は、頗る業を受くる者甚だ衆し。孔子、四つを以て教う、文(学問)・行(礼の実行)・忠(真心を尽くす誠)・信(人を欺かない誠)なり。四つを絶つ、意(主観的な思い)毋く、必(無理やりに行うとすること)毋く、固(頑固でかたくなな心)毋く、我(我執)毋し。慎む所は、斉(斎でものいみ)・戦・疾。子、罕(まれ)に利と命と仁とを言う。憤せざれば啓せず(学ぶ者が発憤しなければ、啓発しない)、一隅を挙げて三隅を以て反らざれば、則ち復びせざるなり。
孔子は文化面では、詩歌、古典、礼法、音楽を教え、弟子はおそらく三千人。六芸、すなわち礼法、音楽、弓術、馬車術、古典、算術を体得した者は七十二人。一番弟子の子路の義兄・顏濁鄒の配下*のように、少しだけ教えを受けた者に至っては、非常に多い。
孔子は人格形成面では、言葉、行動、真心、信頼の四つを身につけ、私心、断定、固執、我執の四つを遠ざけ、斎戒、戦争、病気の三つを慎むよう教えた。孔子は儲け話と運命のあきらめと、人としての情けをめったに説かなかった。やる気のある者にしか教えなかった。基礎を教えて応用まで進まない者には、二度と基礎を説かなかった。
*『呂氏春秋』尊師篇に、「顏涿聚、梁父之大盜也、學於孔子。」とあって、盗賊の親分とは言わないまでも、任侠道の大親分だったとする説がある。
其於鄉黨、恂恂似不能言者。其於宗廟朝廷、辯辯言、唯謹爾。朝與上大夫言、誾誾如也、與下大夫言、侃侃如也。入公門、鞠躬如也、趨進、翼如也。君召使儐、色勃如也。君命召、不俟駕行矣。魚餒、肉敗、割不正、不食。席不正、不坐。食於有喪者之側、未嘗飽也。是日哭、則不歌。見齊衰、瞽者、雖童子必變。「三人行、必得我師。」「德之不修、學之不講、聞義不能徙、不善不能改、是吾憂也。」使人歌、善、則使複之、然後和之。
其の郷党に於けるや、恂恂(ジュンジュン)たりて、能く言わざる者に似たり。其の宗廟朝廷に於けるや、弁弁として言い、唯だ謹むのみ。朝に上大夫と言えば、誾誾如(ギンギンジョ)たり、下大夫と言えば、侃侃如(カンカンジョ)たり。公門に入れば、鞠躬如(キクキュウジョ)たり)、趨り進めば、翼如たり。君、召して儐(あない)せしむれば、色勃如たり。君命じて召せば、駕を俟(ま)たずして行く。魚の餒(ただ)れ、肉敗れ、割(き)ること正しからざれば、食らわず。席正しからざれば、坐せず。喪有る者の側に食すれば、未だ嘗て飽かざるなり。是の日哭すれば、則ち歌わず。斉衰(シサイ)、瞽者を見れば、童子なりと雖も必ず変ず。「三人行けば、必ず我が師を得。」「徳の脩まらざる、学の講めざる、義を聞きて徙ること能わず、不善改むること能わず、是れ我が憂いなり。」人をして歌わしめ、善ければ、則ち之を復びせしめ、然る後に之に和す。
孔子は私的な場では、慎み深く口がきけない人のようであった。祖先祭殿や朝廷では、はっきりと話し、ただ慎み深くしていた。朝廷で上席の家老にものを言う際には、穏やかに道理を言い、下席の家老にものを言う際には、強気にはっきりと言った。
朝廷の門に入る際には身をかがめ、朝廷で作法通り小走りする際には、翼のように袂を広げた。国君に賓客の案内を命じられた際には、力強い顔つきになった。国君に呼び出された際には、車の準備を待たずに向かった。
魚のただれたもの、肉のくずれたもの、切り方の正しくないものは食べなかった。席が正しくなければ座らなかった。喪中の者の横では、腹一杯食べなかった。死者を悼んで泣きの礼をした日には、歌わなかった。喪服の人や盲人に出会うと、子供だろうと態度を改めた。
孔子は言った。「三人で行動すれば、必ず自分の手本を得る。」「徳が修まらず、学問が極められず、なすべき事を聞いて出来ず、無能が改まらないのが悩みだ。」誰かに歌って貰って、それが心地よければ、もう一度歌って貰い、次いで共に歌った。
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