論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳


その明くる年(哀公八年、BC487、孔子65歳)、冉有は李氏の将軍になり、斉と郎の地で戦い、斉に勝った。李康子が言った。「そなたはどこで戦いを学んだのか。生まれつき才があったのか。」冉有が言った。「孔子先生に教わりました。」
李康子が言った。「孔子はどんな人なのか。」冉有は答えた。「先生を用いれば諸国でのあなたの評判が良くなり、その採用は、民衆に知らせても、先祖の霊や山川の神に当否を問うても、後悔することがありません。先生を呼び戻せば、きっとそうなるでしょう。ただし、たとえ千社=二万五千戸の領地を与えて厚遇すると言っても、先生はそれにつられてふらふらとやって来るような方ではありませんぞ。」
李康子が言った。「では私は孔子を呼ぼうと思うが、良いか。」と。冉有は答えた。「先生を呼ぶなら、有象無象の凡人が、先生をうんざりさせるようなことをせねば、まあよろしいでしょう。」
丁度その頃、衛の家老・孔文子が太叔を攻めようとし*、計略を孔子に問うた。孔子は知らないと言って断った。そのまま衛を去ることにし、車の用意を命じて出て行った。そこで孔子は言った。「鳥はとまる木を選べるが、木は鳥を選べない。〔あなたのパシリにはなりたくない。〕」孔文子はしつこく止めた。一方で李康子は、公華、公賓、公林〔といった孔子の政敵〕を追放し、贈り物を用意して孔子を迎えたので、孔子は魯に帰った。孔子は魯を去っておよそ十四年で、魯に帰ったのである。
*太叔:太叔悼子。晋から衛に亡命した、晋公悼の子・姫慭の子で、衛霊公の寵臣だった子朝の娘を娶った。義父の子朝が衛から逃亡すると、孔文子は太叔に離婚させ、自分の娘を妻合わせたが、太叔は元の妻をかくまっていた。怒った孔文子が太叔を攻めようとしたのである。
春秋時代はこのように、卿大夫=家老格の貴族が互いに争うのが当たり前で、孔子はそうした個人的なもめ事に類する戦いの片棒をかつぐのを嫌がった。孔子は魯を出てからの活動拠点を、主に衛国に置いており、本文にあるように弟子も数多く仕官していた。孔文子に荷担することで、弟子の身に危険が及ぶことを避けたのだろう。
また史記も論語も、最初に孔子を迎えた衛国公・霊公を悪く書きがちだが、霊公は特に仕事も与えない孔子に、いきなりアワ六万斛の捨て扶持をポンと呉れてやっている。アワ1日分は1.28リットルで、1斛≒20リットルだから、六万斛は937、500日分になる。これは2、568.49人が1年食えるだけの給与になる。ものすごい厚遇だと言えるだろう。
さらに霊公が、衛国を出て諸国をうろついている孔子に対する捨て扶持支給を止めたという記録はないから、おそらく霊公死去まで、支給されていたのではないか。また楚から衛に戻った際、新たに即位した出公から、何の報酬も出なかったとは考えにくい。
というのも出公の父・蒯聵が大国晋の後ろ盾を得て、虎視眈々と公位を狙っており、特に後ろ盾のない出公は、孔子一門を味方に付けたい動機があるからである。また孔子も出先の諸国でひどい目に遭うたびに、なぜか衛に戻っている。
| BC497 (定公十三年・孔子55歳) |
魯国の官職を辞職し、諸国放浪の旅に出る。衛の霊公に一旦は仕えるが、衛家臣の反発に遭い辞去 |
| BC496 (定公十四年・孔子56歳) |
衛を去り陳に向かう。匡で陽虎に間違われ受難。蒲のまちでも受難するが、弟子の公良孺が抜刀して蒲人を威圧、難を逃れ衛に戻る。 |
| BC495 (定公十五年・孔子57歳) |
衛を去り魯に戻る。 |
| BC494 (哀公〇一年・孔子58歳) |
衛に行き晋に向かうが果たせず。呉、越を破り巨大な骨を得る。呉の使いに骨の由来を説明。 |
| BC493 (哀公〇二年・孔子59歳) |
衛を出、曹を通り宋に行く。宋から鄭に逃れる。衛・霊公死去。 |
| BC492 (哀公〇三年・孔子60歳) |
鄭より陳に向かい、4年ほど陳・蔡で過ごし、楚に出掛ける。 |
| BC491 (哀公〇四年・孔子61歳) |
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| BC490 (哀公〇五年・孔子62歳) |
晋の佛肸の招きに応じようとするが果たせず |
| BC489 (哀公〇六年・孔子63歳) |
楚・昭王の招きに応じ、子貢・宰我を伴って向かうが、陳・蔡の妨害に遭う。楚の宰相・子西も反対し、仕官できず衛へ |
| BC488 (哀公〇七年・孔子64歳) |
衛・出公に仕える? |
| BC487 (哀公〇八年・孔子65歳) |
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| BC486 (哀公〇九年・孔子66歳) |
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| BC485 (哀公十年・孔子67歳) |
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| BC484 (哀公十一年・孔子68歳) |
魯に戻る。のち家老の末席に連なる |
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