論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
佛肸爲中牟宰。趙簡子攻範﹑中行、伐中牟。佛肸畔、使人召孔子。孔子欲往。子路曰「由聞諸夫子、‘其身親爲不善者、君子不入也’。今佛肸親以中牟畔、子欲往、如之何?」孔子曰「有是言也。不曰堅乎、磨而不磷、不曰白乎、涅而不淄。我豈匏瓜也哉、焉能系而不食?」
佛肸(ヒツキツ)、中牟(チュウボウ)の宰と為る。趙簡子、范・中行(チュウエツ)を攻めて、中牟を伐つ。佛肸畔き、人をして孔子を召さしむ。孔子往かんと欲す。子路曰く、「由、諸を夫子に聞けり、其の身親ら不善を為す者は、君子入らず、と。今、佛肸は中牟を以て畔き、子は往かんと欲するは、之を如何」と。孔子曰く、「是の言有り、堅きを曰わずや、磨すれども磷(うすらがず。白きを曰ずや、涅(そ)めども淄(くろ)まず、と。我豈に匏瓜(ホウカ)ならんや。焉ぞ能く繁(かか)りて、而も食われざらん」と。
佛肸が中牟の代官になった。趙簡子は范氏、中行氏を攻め、中牟を討った。佛肸は反乱を起こし、人をつかわして孔子を呼んだ。孔子は行こうとした。子路が言った。「かつて先生にこう聞きました、自分から悪事をする者の所へ、君子は行かぬものだと。今、佛肸は中牟に立てこもって、反乱を起こしています。それなのに先生は行こうとなさる。どういうわけですか。」
孔子が言った。「聞いたことがないか。♪固いな固いな、すり減らない。白いな白いな、染まらない。ぶらりとしてもひょうたんは、ぶらぶら下がって食われない。…私は食えないひょうたんになりたくないのだよ。」
孔子擊磬。有荷蕢而過門者、曰「有心哉、擊磬乎!硜硜乎、莫己知也夫而已矣!」孔子學鼓琴師襄子、十日不進。師襄子曰「可以益矣。」孔子曰「丘已習其曲矣、未得其數也。」有間、曰「已習其數、可以益矣。」孔子曰「丘未得其志也。」有間、曰「已習其志、可以益矣。」孔子曰「丘未得其爲人也。」有間、(曰)有所穆然深思焉、有所怡然高望而遠志焉。曰「丘得其爲人、黯然而黑、幾然而長、眼如望羊、如王四國、非文王其誰能爲此也!」師襄子辟席再拜、曰「師蓋雲文王操也。」
孔子、磬(ケイ)を撃つ。蕢(あじか)を荷いて門を過ぐる者有り、曰く、「心有るかな、磬を撃つや。硜硜(コウコウ)たり、己を知る者莫きかな、而ち已まん。孔子、琴を鼓するを師襄子に学ぶ。十日進まず。師襄子曰く、「以て益す可し。」孔子曰く、「丘、已に其の曲を習えり。未だ其の数を得ざるなり。」間く有りて、曰く、「已に其の数を習えり。以て益す可し。」孔子曰く、「丘、未だ其の志を得ざるなり。」間く有りて、曰く、「已に其の志を習えり。以て益す可し。」孔子曰く、「丘、未だ其の人と為りを得ざるなり。」間く有りて、曰く、「穆然(ボクゼン)として深く思う所有り。怡然(イゼン)として高く望みて遠く志す所有り。」曰く、「丘、其の人と為りを得たり。黯然(アンゼ)として黒く、幾然(キゼン)として長く、眼は望羊の如く、四国に王たるが如し。文王に非ずんば、其れ誰か能く此れを為さん。」師襄子席を辟けて再拝して、曰く、「師も蓋し文王の操なりと云えり。」
孔子は磬を叩いて演奏した。 もっこをかついで門前を通り過ぎる者が言った。「性根が出ているぞ、磬の音に。カチカチとしたお人じゃな、身の程をわきまえればよろしいのに。」
孔子は鼓と琴を師襄子に学んだ。一曲を学んで十日過ぎたが、次の曲に進まなかった。
師襄子が言った。「もう次の曲に進んでも良いぞ。」
孔子が言った。「曲は習い覚えましたが、その論理が分かりません。」
しばらくして師襄子が言った。「もう論理は分かったろう、次の曲に進んでも良いぞ。」
孔子が言った。「論理は習い覚えましたが、その心が分かりません。」
しばらくして師襄子が言った。「もう心は分かったろう、次の曲に進んでも良いぞ。」
孔子が言った。「心は習い覚えましたが、その作曲者が分かりません。」
しばらくして孔子が言った。「作曲者が分かりました。色黒で背が高く、目つきはぼやけて何も見ていないかのよう。天下統一のお人と見えました。文王でなければ、ほかの誰がこんな曲を作れましょう。」師襄子は上座を降りて孔子を二度拝み、言った。「我がお師匠も、おそらく文王の作だと言っておられた。」
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