論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
魯昭公之二十年、而孔子蓋年三十矣。齊景公與晏嬰來適魯、景公問孔子曰「昔秦穆公國小處辟、其霸何也?」對曰「秦、國雖小、其志大、處雖辟、行中正。身舉五羖、爵之大夫、起累絏之中、與語三日、授之以政。以此取之、雖王可也、其霸小矣。」景公說。
魯の昭公の二十年、而して孔子は蓋し年三十なり。斉の景公、晏嬰(アンエイ)と與(とも)に来たりて魯に適(ゆ)き、景公、孔子に問いて曰く、「昔、秦の穆公(ボクコウ)、国は小にして處(ところ)は辟(ひな)なるに、其の覇たりしは何ぞや」と。対(こた)えて曰く、「秦、国は小なりと雖(いえど)も、其の志は大なり。處は辟なりと雖も、行いは中正なり。身(みずか)ら五羖(ゴコ)を挙げ、之に大夫を爵し、纍紲(とがびと)の中より起こし、與(とも)に語ること三日、之に授くるに政(まつりごと)を以てせり。此れを以て之を取る。王たりと雖も可ならん、其の覇たるは小なり。」景公説ぶ。
魯の昭公の二十年(BC522)、孔子はおそらく三十歳であった。斉景公は晏嬰とともに魯に来た。斉景公は孔子に問うて言った。「むかし秦の穆公は、国は小さく辺境にありながら、覇者となったのはなぜか。」
孔子が答えて言った。「秦は国は小さいが、志が大きいのです。土地はへんぴだが行きすぎのない政治を行いました。国主みずから賢臣の百里奚(ヒャクリケイ)を召し抱え、これに家老の爵位を与えました。罪人の中から彼を見つけ出し、ともに三日間語って、百里奚に政治を預けました。だから覇者になったのです。王者になってもいいほどです。覇者と言われるのは過小評価でしょうね。」
聞いて景公は喜んだ。
孔子年三十五、而季平子與郈昭伯以鬥雞故、得罪魯昭公、昭公率師擊平子、平子與孟氏﹑叔孫氏三家共攻昭公、昭公師敗、奔於齊、齊處昭公幹侯。其後頃之、魯亂。孔子適齊、爲高昭子家臣、欲以通乎景公。
孔子年三十五、而して季平子、郈昭伯(コウショウハク)と鶏を闘わせしを以ての故に、罪を魯の昭公に得たり。昭公、師を率いて平子を撃つ。平子と孟氏・叔孫氏の三家、共に昭公を攻む。昭公の師敗れ、斉に奔る。斉、昭公を乾侯に處らしむ。其の後之を頃(ころ)にして魯乱る。孔子、斉に適き、高昭子の家臣と為り、以て景公に通ぜんと欲す。
孔子が三十五歳のとき(昭公二十五年、BC517)、門閥家老筆頭の李平子は、郈昭伯と闘鶏をして、その結果、魯国公・昭公のとがめを受けた。魯昭公は軍を率いて李平子を撃った。李平子は孟氏、叔孫氏とともに、三家は共に魯昭公を攻めた。魯昭公の軍は敗れ、斉に逃げた。
斉は魯昭公を乾侯に住まわせた。その後、この頃、魯が乱れた。孔子は斉に行き、高昭子の家臣になり、その手引きで斉の景公に通じるよう望んだ。
與齊太師語樂、聞韶音、學之、三月不知肉味、齊人稱之。景公問政孔子、孔子曰「君君、臣臣、父父、子子。」景公曰「善哉!信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸!」他日又複問政於孔子、孔子曰「政在節財。」景公說、將欲以尼溪田封孔子。
斉の太師と楽を語り、韶(ショウ)の音を聞き、之を学ぶこと三月にして、肉の味を知らず。斉人、之を称(たた)う。景公、政(まつりごと)を孔子に問う。孔子曰く、「君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり。」景公曰く、「善き哉(かな)。信(まこと)に如(も)し君は君たらず、臣は臣たらず、父は父たらず、子は子たらずんば、粟(ゾク)有ると雖(いえど)も、吾、豈(あに)得て諸れを食らわんや。」他日、又復た政を孔子に問う。孔子曰く、「政は財を節するに在り。」景公説(よろこ)ぶ。将(まさ)に尼谿(ジケイ)の田を以て孔子を封ぜんと欲す。
(昭公二十六年、BC516)斉の宮廷楽団長と音楽を語り、古楽の韶を聞き、演奏を学んだ三ヶ月間、肉の味を知らなかったので、斉の人は賞賛した。
景公が政治を孔子に問うた。孔子が言った。「君は君らしく、臣は臣らしく、父は父らしく、子は子らしくなさるよう。」
景公が言った。「よろしい。まことに、君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなければ、私は食事ものどを通らない。」
他日、またふたたび政治を孔子に問うた。孔子が言った。「政治は予算の節約が肝心です。」景公は喜んで、今すぐ尼谿の田を与えて孔子を召し抱えようとした。
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