『史記』現代語訳:孔子世家(1)孔子誕生

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

論語 尼山致禱

孔子生魯昌平鄉陬邑。其先宋人也、曰孔防叔。防叔生伯夏、伯夏生叔梁紇。紇、與顔氏女野合而生孔子、禱於尼丘得孔子。魯襄公二十二年而孔子生。生而首上圩頂、故因名曰丘雲。字仲尼、姓孔氏。
孔子は魯の昌平郷の陬(スウ)邑に生まる。其の先は宋人なり。孔防叔と曰う。防叔、伯夏を生む。伯夏、叔梁紇を生む。紇、顔氏の女と野合して孔子を生む。尼丘に禱り、孔子を得たり。魯の襄公二十二年にして孔子生まる。生まれて首上圩(ウ)頂なり。故に因って名づけて丘と曰うと云う。字は仲尼(チュウジ)、姓は孔氏。

孔子は魯の昌平鄉の陬邑に生まれた。その先祖は宋の人で、孔防叔といった。孔防叔は伯夏を生み、伯夏は叔梁紇を生んだ。叔梁紇は顔氏の娘と野合(礼法に基づかない結婚)して、孔子を生んだ。尼丘に祈り、孔子をさずかった。

魯の襄公二十二年*に孔子は生まれた。生まれたとき首の上、頭のてっぺんが窪んでいた。だから丘と名づけたという。字(あざな)は仲尼で姓は孔氏である。

*二十一年(BC551)の誤り。

丘生而叔梁紇死、葬於防山。防山在魯東、由是孔子、疑其父墓處、母、諱之也。孔子爲兒嬉戲、常陳俎豆、設禮容。
丘生まれて、叔梁紇死し、防山に葬る。防山は魯の東に在り、是に由り孔子、其の父の墓處を疑う。母、之を諱むなり。孔子、兒為りしとき嬉戯するに、常に俎豆を陳(つら)ね、礼容を設く。

丘が生まれて叔梁紇が死に、防山に葬った。防山は魯の東に在った。これにより孔子はその父の墓の場所を疑った。母は教えなかった。孔子は遊ぶに当たり、いつも祭器を並べ、礼法のまねをした。

孔子母死、乃殯五父之衢、蓋其慎也。郰人輓父之母誨孔子父墓。然後、往合葬於防焉。
孔子の母死し、乃(すなわ)ち五父(ゴホ)の衢(ちまた)に殯(かりもがり)するは、蓋し其れ慎むなり。郰(スウ)人輓父(バンプ)の母、孔子に父の墓を誨(おし)う。然る後、往きて防に合葬せり。

孔子の母が死に、そこで五父の街角でかりもがりをした。おそらく慎み深く行っただろう。陬邑の人で輓父の母が孔子の父の墓所を教えたので、やっと行って母を防山に合葬した。

孔子、要絰。季氏、饗士、孔子與往。陽虎、絀曰、「季氏饗士非敢饗子也。」孔子、由是退。
孔子、要(こし)に絰(テツ)まけり。季氏、士を饗(あえな)すに、孔子與(ため)に往く。陽虎、絀(しりぞ)けて曰く、「季氏は士を饗す。敢て子を饗せるに非ず。」孔子是に由り退く。

孔子がは腰に絰(腰に巻く喪章)を巻いた最中、李氏が士を招いて宴会を開き、孔子はそれを聞いて行った。陽虎が孔子を押しのけて言った。「李氏は士分招いたのであって、わざわざあなたを招いたのではない」と。孔子はこのために引き下がった。

孔子年十七。魯大夫孟釐子病且死、誡其嗣懿子曰、「孔丘聖人之后。滅於宋。其祖弗父何始有宋而嗣讓厲公。及正考父佐戴武宣公、三命茲益恭。故鼎銘云、「一命而僂、再命而傴、三命而俯、循墻而走、亦莫敢余侮。饘於是、粥於是、以餬余口。」其恭如是。吾聞、聖人之后雖不當世、必有達者。」今孔丘年少好禮、其達者歟。吾即沒、若必師之。」及釐子卒、懿子與魯人南宮敬叔、往學禮焉。
孔子年十七なり。魯の大夫孟釐子(モウリシ)病みて且(まさ)に死せんとし、其の嗣(あとつぎ)懿子(イシ)を誡めて曰く、「孔丘は聖人の後なり、宋に滅べり。其の祖弗父何(フツフカ)は始め宋を有(たも)ちて嗣ぐべきを厲公(レイコウ)に譲る。正考父(セイコウホ)に及びて戴・武・宣公を佐(たす)け、三命せられて茲々(いよいよ)益々恭(うやうやしく)す。故に鼎の銘に云う、『一命せられて僂(かが)み、再命せられて傴(かが)み、三命せられて俯(かが)む、牆(かきね)に循(したが)いて走り、亦た敢て余、侮る無し。是に饘(だみかゆ)し、是に粥(うすがゆ)し、以て余の口を餬(のり)せん。』其の恭しきこと是(かく)の如し。吾聞く、聖人の後は、世に當らずと雖も、必ず達する者有り、と。今孔丘は年少くして礼を好む。其れ達する者ならんか。吾即(も)し没さば、若(なんじ)必ず之を師とせよ。」釐子卒するに及びて、懿子、南宮敬叔と與(とも)に、往きて礼を学ぶ。

孔子は十七歳になった(BC535)。魯の門閥三家老の一家・孟孫氏の当主、孟釐子が病気になり、今にも死にそうになった時、その後継ぎの懿子を戒めて言った。

「孔丘は、宋で滅んだ万能人の子孫である。その先祖の弗父何はもともと宋の領主だったが、後継ぎを宋の厲公に譲った。正考父にの代になって宋の戴公、武公、宣公を補佐し、三たび昇進してますます慎み深くなり、その理由を鼎に刻んだ。

『我が子孫よ、一度目の任命で身をかがめ、二度目で深く身をかがめ、三度目でもっと深く身をかがめよ。垣根に沿って使い走りをし、わざわざ主君を侮るようなことをするな。この鼎で濃いかゆ、薄い粥を炊いて、この教訓を心に刻め』と。

その腰の低さはこの通りだった。私の聞いた所では、万能人の子孫は必ずしも世間の評判にならないが、必ずもののことわりに通じた人が出るという。今、孔丘は年若いのに礼を好む。その達者であろう。私がもし死んだら、お前は必ず彼を師匠にしなさい」と。孟釐子が亡くなると、懿子は弟の南宮敬叔とともに行って、礼を学んだ。

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