『史記』現代語訳:孔子世家(20)鳳兮鳳兮

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

論語 楚狂接輿

於是使子貢至楚。楚昭王興師迎孔子、然後得免。昭王將以書社地七百里封孔子。楚令尹子西曰「王之使使諸侯有如子貢者乎?」曰「無有。」「王之輔相有如顔回者乎?」曰「無有。」「王之將率有如子路者乎?」曰「無有。」「王之官尹有如宰予者乎?」曰「無有。」
是に於いて子貢をして楚に至らしむ。楚の昭王、師を興して孔子を迎え、然る後に免れるを得たり。昭王、将に書社の地七百里を以て、蓋し七百里を以て社の人を書して孔子に封ずるなり。)孔子に封ぜんとす。楚の令尹子西曰く、「王の諸侯に使わせしむるに、子貢の如き者有るか。」曰く、「有る無し。」「王の輔相に、顔回の如き者有るか。」曰く、「有る無し。」「王の将率(将帥)に子路の如き者有るか。」曰く、「有る無し。」「王の官尹(官吏の長)に宰予の如き者有るか。」曰く、「有る無し。」

そこで子貢を楚国に遣わした。楚昭王は軍を率いて孔子を迎えた。それでやっと、孔子一行は包囲から脱出できた。楚昭王はすぐさま、書社の地七百里、一万七千五百戸の領民を孔子に与えて召し抱えようとした。そこで楚の宰相、子西が言った。

「王が諸侯に遣わす使者で、子貢ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王を補佐する大臣で、顔回ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王が軍を任せる将軍で、子路ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王の官吏をとりまとめる者で、宰予ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。それゆえ孔子を招くのじゃ。」

「且楚之祖封于周、號爲子男五十裏。今孔丘述三五之法、明周召之業、王若用之、則楚安得世世堂堂方數千里乎?夫文王在豐、武王在鎬、百里之君卒王天下。今孔丘得據土壤、賢弟子爲佐、非楚之福也。」昭王乃止。
「且(はじ)め楚の祖は周に封ぜられて、号して子男と為し、五十里なりき。今、孔丘、三五の法を述べ、周召の業を明らかにす。王、若し之を用いなば、則ち楚は安んぞ世世堂堂として方数千里を得んや。夫れ文王は豊に在り、武王は鎬に在り、百里の君にして卒に天下に王たり。今、孔丘、土壌に拠るを得、賢弟子、佐と為らば、楚の福に非ざるなり。」昭王乃ち止む。

子西は言った。「そもそも楚の始まりは、周に諸侯たる認定を受け、爵位はせいぜい下から一、二番目の子爵か男爵、土地は五十里に過ぎませんでした。今孔子は、いにしえの聖王三皇五帝の定めた法を述べ立て、かつての周の名臣・周公旦と召公奭の業績を喧伝しています。

王がもし孔子を用いるなら、きっと昔に戻せと言い出して、楚の歴代堂々たる数千里四方の国土を保つことは出来なくなります。そもそも周の始まりにしても、開祖文王は豊の田舎町にいたに過ぎず、初代武王は鎬の田舎町にいたに過ぎません。たった百里の領主なのに、とうとう天下の王となりました。

今孔子に領地を与え、賢明な弟子たちがそれを助けるとなれば、楚の幸福にはなりません。」

それを聞いて、昭王は孔子の採用をあきらめた。

其秋、楚昭王卒于城父。楚狂接輿歌而過孔子、曰「鳳兮鳳兮、何德之衰!往者不可諫兮、來者猶可追也!已而已而、今之從政者殆而!」孔子下、欲與之言。趨而去、弗得與之言。
其の秋、楚の昭王、城父に卒す。楚の狂接輿(セツヨ)歌いて孔子に過り、曰く、「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰えたる。往者は諫む可からず、来者は猶ほ追う可し。已みなん、已みなん。今の政に従う者は殆(あやう)し。」孔子、下りて、之と言わんと欲す。趨りて去る。之と言うを得ざりき。

その秋、楚の昭王は、城父で変死した。楚の隠者で接輿という者が、歌いながら孔子の横を通り過ぎた。

「おおとりよ、おおとりよ。なんとまあ、周の国威が衰えたことよ。過ぎ去ったことはもう戻らない、未来だけはまだ何とかなる。やめてしまえ、やめてしまえ、こんな世の中で、政治に関わる者は命が危ないぞ。」

孔子は車を降りて、接輿と語ろうとした。しかし走って行ってしまったので、語ることが出来なかった。

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