論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
そこで子貢を楚国に遣わした。楚昭王は軍を率いて孔子を迎えた。それでやっと、孔子一行は包囲から脱出できた。楚昭王はすぐさま、書社の地七百里、一万七千五百戸の領民を孔子に与えて召し抱えようとした。そこで楚の宰相、子西が言った。
「王が諸侯に遣わす使者で、子貢ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王を補佐する大臣で、顔回ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王が軍を任せる将軍で、子路ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王の官吏の目付役で、宰予ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。それゆえ孔子を招くのじゃ。」
子西は言った。「そもそも楚の始まりは、周に諸侯たる認定を受け、爵位はせいぜい下から一、二番目の子爵か男爵、土地は五十里に過ぎませんでした。今孔子は、いにしえの聖王三皇五帝の定めた法を述べ立て、かつての周の名臣・周公旦と召公奭の業績を喧伝しています。
王がもし孔子を用いるなら、きっと昔に戻せと言い出して、楚の歴代堂々たる数千里四方の国土を保つことは出来なくなります。そもそも周の始まりにしても、開祖文王は豊の田舎町にいたに過ぎず、初代武王は鎬の田舎町にいたに過ぎません。たった百里の領主なのに、とうとう天下の王となりました。
今孔子に領地を与え、賢明な弟子たちがそれを助けるとなれば、楚の幸福にはなりません。」
それを聞いて、昭王は孔子の採用をあきらめた。
その秋、楚の昭王は、城父で変死した。楚の隠者で接輿という者が、歌いながら孔子の横を通り過ぎた。
「おおとりよ、おおとりよ。なんとまあ、周の国威が衰えたことよ。過ぎ去ったことはもう戻らない、未来だけはまだ何とかなる。やめてしまえ、やめてしまえ、こんな世の中で、政治に関わる者は命が危ないぞ。」
孔子は車を降りて、接輿と語ろうとした。しかし走って行ってしまったので、語ることが出来なかった。
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