論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
魯の哀公が政治を問うたので、孔子は答えた。「政治は臣下の選任が肝心です。」李康子も政治を問うたので、孔子は言った。「悪党の長官に正直者を据えれば、悪党もまともになります。」李康子は盗賊の横行に困っていたが、孔子は言った。「あなたが欲張りでなければ、たとえ盗賊を表彰しようとも、盗む者は出ません。」
こうした問答はあったが、結局魯は孔子に政治を執らせず、孔子も職を求めなかった。
孔子の頃は周王室の権威が衰えて、礼法と音楽はすたれ、詩や古記録は歯抜けが多くなった。そこで孔子は夏・殷・周、三代の礼法のかけらを追い求め、先賢の言葉や伝記を順序だてて、古くは堯・舜の時代から、新しくは秦の繆公の時代まで、その出来事をまとめて年代順に記録した。
作業を終えてこう言った。「夏王朝の礼法はよく分かったが、その末裔の杞国は情報をとるに足りない。殷王朝の礼法は分かったが、その末裔の宋国は情報を取るに足りない。足りるならもう少しましなことが言えるのだが。」
また殷・夏王朝の盛衰を振り返って言った。「これから百世代のちでも、似たような事件が繰り返されるだろう。二王朝の記録と、実際にあったことを調べてそう感じた。今の周王朝は二王朝の歴史を鏡にして、匂うように華やかな文化を開いた。私は周が最も優れた文化国家だと思う。」
こうした事実から、『書経』『春秋』『礼記』は孔子が書いたと言えるのである。
また孔子は魯の楽長に語った。「音楽の要点は簡単ですぞ。初めは各楽器の音を揃え、それぞれが独立して響くようにし、激しく鳴らして伸ばしに伸ばし、スッと終えれば出来上がりです。」
そして満足気にこう言った。「私が衛から魯に帰ると、音楽は正しく奏でられるようになり、礼法に従ってふさわしい曲と歌が、ふさわしい場所で演じられるようになった。」
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