論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
冉求既去、明年、孔子自陳遷于蔡。蔡昭公將如吳、吳招之也。前昭公欺其臣遷州來、後將往、大夫懼複遷、公孫翩射殺昭公。楚侵蔡。秋、齊景公卒。明年、孔子自蔡如葉。葉公問政、孔子曰「政在來遠附邇。」他日、葉公問孔子于子路、子路不對。孔子聞之、曰「由、爾何不對曰‘其爲人也、學道不倦、誨人不厭、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至’雲爾。」去葉、反于蔡。
冉求既に去り、明年、孔子、陳自り蔡に遷る。蔡の昭公、将に呉に如かんとす。呉、之を召せばなり。前に、昭公、其の臣を欺きて周来に遷り、後に、将に往かんとす。大夫復た遷らんことを懼れ、公孫翩(コウソンヘン)昭公を射て殺す。楚、蔡を侵す。秋、斉の景公卒す。明年、孔子、蔡自り葉(ショウ)に如く。葉公、政を問う。孔子曰く、「政は遠きを来し邇(ちかい)きを附くるに在り。」他日、葉公、孔子を子路に問う。子路對えず。孔子、之を聞きて、曰く、「由や、爾何ぞ對えて曰ず、其の人と為りや、道を学びて倦まず、人を誨(おしえ)て厭わず、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らず爾云(しかじか)と。」葉を去り、蔡に反る。
冉求はすでに去った。明くる年、孔子は陳から蔡に行った。蔡の昭公は今すぐ呉に行こうとしていた。呉に呼びつけられたからである。以前、蔡の昭公はその家臣を欺(あざむ)き州来に都城を移した。そのいきさつを経て、今呉に行こうとした。しかし家老連はまた都城を移すのかと嫌がって、公孫翩が蔡の昭公を矢で射て殺した。そのすきに楚は蔡に侵攻した。秋、孔子と縁深い、斉の景公が亡くなった。
明くる年、孔子は蔡から、楚の属国・葉に行った。葉公は政治を孔子に問うた。孔子が言った。「政治は 遠方の者を引き寄せ、近くの者をなつけることが肝心です。」
他日、葉公は子路に孔子の人となりを問うた。子路は答えられなかった。孔子がこれを聞いて言った。「子路よ、お前はどうしてこう言わなかったのか。政治工作を学んで飽きず、人に教えてうんざりせず、心が奮い立つと食べることも忘れ、こうした生活を楽しんで、心配事も忘れてしまう。もう老いが来ているのもかまわずに、などなどと。」そこで葉を去り、蔡に帰った。
長沮﹑桀溺耦而耕、孔子以爲隱者、使子路問津焉。長沮曰「彼執輿者爲誰?」子路曰「爲孔丘。」曰「是魯孔丘與?」曰「然。」曰「是知津矣。」桀溺謂子路曰「子爲誰?」曰「爲仲由。」曰「子、孔丘之徒與?」曰「然。」桀溺曰「悠悠者天下皆是也、而誰以易之?且與其從辟人之士、豈若從辟世之士哉!」耰而不輟。子路以告孔子、孔子憮然曰「鳥獸不可與同群。天下有道、丘不與易也。」
長沮・桀溺、耦(なら)びて耕す。孔子、以て隠者と為し、子路をして津(わたし)を問わしむ。長沮曰く、「彼の輿を執る者を誰と為す。子路曰く、「孔丘と為す。」曰く、「是、魯の孔丘か。」曰く、「然り。」曰く、「是、津を知らん。」桀溺、子路に謂いて曰く、「子は誰と為す」曰く、「仲由と為す。」曰く、「子は孔丘の徒か。」曰く、「然り。」桀溺曰く、「悠悠たる者は、天下皆是なり。而るを誰をか以て之を易えん。且つ其の人を辟くるの士に従うよりは、豈に世を辟くるの士に従うに若かんや。」耰(たねまき)て輟(や)めず。子路、以て孔子に告ぐ。孔子、憮然として、曰く、「鳥獣は與に羣を同じうす可からず。天下に道有らば、丘、與に易えざるなり。」
長沮、桀溺が並んで耕しており、孔子は隠者だと思ったので、子路に川の渡し場を問わせた。
長沮が言った。「あの車に乗った者は誰だ。」子路が言った。「孔丘です。」
長沮が言った。「あれが魯の孔丘か。」子路が言った。「そうです。」
長沮が言った。「それなら渡し場ぐらい、ご存じじゃろ。」
桀溺が子路に言った。「あんたは誰かね。」子路が言った。「仲由です。」
桀溺が言った。「孔子の一門かね。」子路が言った。「そうです。」
桀溺が言った。「世を嘆く連中は、誰も同じじゃな。じゃがどこの誰が、こんな乱れた世を収めるというのかね。あんたも人間嫌いのお師匠に付いているより、わしらのような世を厭う者と過ごしてはどうじゃな。」そう言って種をまき土をかけて鋤の手を休めなかった。
子路はそのまま孔子に告げた。孔子は不満げに言った。「鳥や獣のように隠れ住む者とは、一緒にいられない。まともな世の中なら、私だって革命なんか考えないぞ。」
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