『史記』現代語訳:孔子世家(29)孔子没後

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

論語 孔子聖蹟図 治任別帰

孔子葬魯城北泗上、弟子皆服三年。三年心喪畢、相訣而去、則哭、各複盡哀、或複留。唯子贛廬於塚上、凡六年、然後去。弟子及魯人往從頉而家者百有餘室、因命曰孔裏。魯世世相傳以歲時奉祠孔子塚、而諸儒亦講禮鄉飲大射於孔子塚。孔子塚大一頃。故所居堂弟子內、後世因廟藏孔子衣冠琴車書、至於漢二百餘年不絕。高皇帝過魯、乙太牢祠焉。諸侯卿相至、常先謁然後從政。
孔子、魯の城北の泗上に葬らる。弟子皆服すること三年。三年の心喪畢り、相い訣(わか)れて去らんとし、則ち哭し、各々復た哀しみを尽くし、或いは復た留まる。唯子貢のみ冢上に廬すること、凡そ六年、然る後に去る。弟子及び魯人の往きて冢に従いて家する者百有余室、因って命づけて孔里と曰う。魯、世世相い伝え、歳時を以て孔子の冢を奉祀す。而して諸儒も亦た孔子の冢に礼を講じ、郷飲・大射す。孔子の冢は大きさ一頃なり。故と居りし所の堂と弟子内は、後世因って廟とし、孔子の衣・冠・琴・車・書を藏め、漢に至るまで二百余年絶えず。高皇帝、魯に過り、太牢を以て祀る。諸侯・卿相至るや、常に先に謁し、後に政に従う。

孔子は魯の城北の泗水のほとりに葬られ、弟子は皆三年喪に服した。その間礼法の定めに従い、喪服を着ないで三年過ごした。それが終わり、互いに別れて去ろうとするやいなや、泣いてそれぞれが再び哀しみを尽くし、ある者はさらにそこに止まった。

論語 子貢
ただ子貢だけが孔子の墓のかたわらで、いおりをむすんでおよそ六年住み、その後で去った。孔子の弟子や魯の人で、墓のそばに行って住まう者の家が百あまりあったので、「孔子の里」と名前を付けた。魯ではその墓を代々管理して残し、年に一度の供養を行った。さらにいろいろな儒者も墓にやってきて、そこで礼法を講義し、里の宴会を開き、弓術の大会を行った。

孔子の冢(墓)は一頃(ケイ、≒1.82ha)の大きさである。孔子の旧宅と弟子たちの寄宿舎は、後の世に孔子の霊廟となり、孔子の衣、冠、琴、車、書を所蔵し、漢に至る二百余年間残っていた。

論語 漢高祖劉邦
漢の高祖劉邦は、魯に立ち寄って、牛・羊・豚の三種を取りそろえたお供えで、孔子の霊を祀った。諸侯や大臣は、必ず先に孔子廟にお参りしてから、政治を摂った。

孔子生鯉、字伯魚。伯魚年五十、先孔子死。伯魚生伋、字子思、年六十二。嘗困于宋。子思作中庸。子思生白、字子上、年四十七。子上生求、字子家、年四十五。子家生箕、字子京、年四十六。子京生穿、字子高、年五十一。子高生子慎、年五十七、嘗爲魏相。子慎生鮒、年五十七、爲陳王涉博士、死于陳下。鮒弟子襄、年五十七。嘗爲孝惠皇帝博士、遷爲長沙太守。長九尺六寸。子襄生忠、年五十七。忠生武、武生延年及安國。安國爲今皇帝博士、至臨淮太守、蚤卒。安國生卬、卬生驩。
孔子、鯉を生む、字は伯魚。伯魚、年五十、孔子に先だちて死す。伯魚、伋を生む、字は子思、年六十二。嘗て宋に困しむ。子思、中庸を作る。子思、白を生む、字は子上、年四十七。子上、求を生む、字は子家、年四十五。子家、箕を生む、字は子京、年四十六。子京、穿を生む、字は子高、年五十一。子高、子慎を生む、年五十七、嘗て魏の相と為る。子慎、鮒を生む、年五十七、陳王渉の博士と為る。陳の下に死す。鮒の弟子襄、年五十七。嘗て孝恵皇帝の博士と為り、遷りて長沙の太守と為る。長け九尺六寸。子襄、忠を生む、年五十七。忠、武を生む。武、延年及び安国を生む。安国、今の皇帝の博士と為り、臨淮の太守に至る。蚤くに卒す。安国、卬を生む。卬、驩を生む。

論語 孔鯉
孔子は鯉を生み、字は伯魚。伯魚は五十歳で孔子に先んじて死んだ。

論語 孔伋子思
伯魚は伋を生み、字は子思、享年六十二歳。宋で困窮した。子思は『中庸』を書いた。
子思は白を生み、字は子上、四十七歳。子上は求を生み、字は子家、四十五歳。子家は箕を生み、字は子京、四十六歳。子京は穿を生み、字は子高、五十一歳、子高は子慎を生み、五十七歳。魏の宰相になった。
子慎は鮒を生み、五十七歳。陳王涉の博士になり、陳で死んだ。
鮒の弟の子襄は五十七歳。孝恵皇帝の博士となり、長沙の太守に転任した。身長が九尺六寸あった。
子襄は忠を生み、五十七歳。忠は武を生み、武は延年及び安国を生んだ。

孔安国
安国は今の皇帝の博士となり、臨淮の太守に転任したが早死にした。安国は卬を生み、卬は驩を生んだ。

太史公曰詩有之「高山仰止、景行行止。」雖不能至、然心向往之。余讀孔氏書、想見其爲人。適魯、觀仲尼廟堂車服禮器、諸生以時習禮其家、餘祗回留之不能去雲。天下君王至於賢人衆矣、當時則榮、沒則已焉。孔子布衣、傳十餘世、學者宗之。自天子王侯、中國言六藝者折中于夫子、可謂至聖矣!
太史公曰く、「詩に之れ有り、『高山は仰ぎ、景行は行く』と。至ること能わずと雖も、然れど心は之に郷往す。余、孔子の書を読み、其の人と為りを想見す。魯に適き、仲尼の廟堂・車服・礼器と、諸生が時を以て礼を其の家に習うとを観る。余、袛囘(テイカイ)して、之に留まりて去ること能わざりき、と云う。天下の君王より賢人に至るまで、衆くは、時に當りては則ち栄え、没せば則ち已む。孔子は布衣にして、十余世を伝え、学者、之を宗ぶ。天子王侯自り、中国の六芸を言う者は夫子に折中す。至聖と謂う可きなり。」

論語 司馬遷
私こと、太史公司馬遷は言う。「詩にこうある。高山を仰ぎ見るがごとく、大いなる業績は行われる、と。孔子のようにはなれないが、心はそれにあこがれる。

私は孔子の書を読み、その人となりを想像した。魯に行き、孔子廟に収めてある、車・服・祭礼の道具を見物し、儒学徒が期日を定めて礼法の実習を孔子の家で行うのを見た。私はその場を巡り歩いては、去りがたく感じた、と言った事もある。

天下の君主や賢者は、その多くが時の運によって後の世に名が伝えられ、運によって死んだとたんに忘れ去られる。孔子は無位無官にもかかわらず、十余世代に名前が残り、学問をする者はその教えを尊んだ。天子や王侯で中国の六芸を語る者は、孔子を基準に善し悪しを決めている。だから孔子は、最高の万能を持った人と言うべきである。」

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コメント

  1. […] 『史記』の孔子世家の賛に、「天子王侯より、中国六芸を言う者夫子に折衷す」と言い、また太史公自序に、「夫れ儒者は六芸を以て法とす」と言っているのは、みな六経を指して六芸と言っているのだ。『史記』『漢書』の中では、六経を六芸と言っている箇所が多い。 […]