『史記』現代語訳:孔子世家(6)孔子仕官

論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳

論語 敬入公門

定公八年、公山不狃不得意于季氏、因陽虎爲亂、欲廢三桓之適、更立其庶孳陽虎素所善者、遂執季桓子。桓子詐之、得脫。定公九年、陽虎不勝、奔於齊。是時孔子年五十。
定公八年、公山不狃(コウザンフチュウ)、意を季氏に得ず、陽虎に因りて乱を為し、三桓の適(チャク)を廃し、更めて其の庶孽(ショゲツ)の陽虎の素(もと)より善くする所の者を立てんと欲し、遂に季桓子を執らう。桓子、之を詐(いつ)わり、脱(のが)るるを得たり。定公九年、陽虎勝たず、斉に奔る。是の時孔子年五十。

魯の定公八年(BC502)、公山不狃は李氏の好意を得られず、それに乗じて陽虎は叛乱を起こし、魯国門閥家老三家の三桓の嫡子を廃することを望み、改めて魯国公の血筋から陽虎が元々親しい者を立て、とうとう李桓子を捕らえた。李桓子はうまくだまして逃げ出しに成功した。魯の定公九年、陽虎は勝てずに斉へ逃げた。この時、孔子は五十歳であった。

公山不狃以費畔季氏、使人召孔子。孔子循道彌久、溫溫無所試、莫能己用、曰「蓋周文武起豐鎬而王、今費雖小、儻庶幾乎!」欲往。子路不說、止孔子。孔子曰「夫召我者豈徒哉?如用我、其爲東周乎!」然亦卒不行。
公山不狃、費を以て季氏に畔(そむ)き、人をして孔子を召さしむ。孔子、道に循うこと彌(やや)久しく、温温たれども試みる所無く、能く己用いらるる莫く、曰く、「蓋(けだ)し周の文・武は豊鎬より起こりて王たり。今費は小なりと雖(いえど)も、儻(も)しくは庶幾(ちか)からんか」と。往かんと欲す。子路説(よろこ)ばず、孔子を止(とど)む。孔子曰く、「夫(か)の我を召すは、豈(あ)に徒(いたず)らならんや。如(も)し我を用いば、其れ東に周を為さんか」と。然れども亦(ま)た卒(つい)に行かず。

(定公八年、BC502)公山不狃は費邑に立てこもって李氏にそむき、人をつかわして孔子を呼ばせた。孔子は道にしたがうことかなり久しかったが、学び取ったことを官途で試されなかったので言った。「思うに周文王、武王は豐邑・鎬京から旗揚げして王になった。今、費は小さなまちだが、もしかしたら同じように革命が成せるかも知れない。」

論語 子路
費邑に行こうとしたが、子路は喜ばず、孔子を押しとどめた。孔子は言った。「そもそも私を呼んで、何もさせないつもりではないだろう。もし私が用いられれば、費邑は東の周になるだろう。」しかしここでもまた、とうとう行かなかった。

其後定公以孔子爲中都宰、一年、四方皆則之。由中都宰爲司空、由司空爲大司寇。定公十年春、及齊平。夏、齊大夫黎鉏言于景公曰「魯用孔丘、其勢危齊。」乃使使告魯爲好會、會於夾穀。
其の後、定公、孔子を以て中都の宰と為す。一年して、四方(よも)皆之に則る。中都の宰由(よ)り司空と為り、司空由り大司寇と為る。定公十年春、斉と平らぐに及べり。夏、斉の大夫黎鉏(レイショ)、景公に言いて曰く、「魯、孔丘を用う、其の勢いや斉を危くせん」と乃(すなわ)ち使いをして魯に好みの会を為さんとし、夾谷(キョウコク)に会せんと告げしむ。

その後、魯定公は孔子を中都の代官に任じた(定公九年、BC501)。一年が過ぎ、四方のまちはみな中都の行政を真似るようになった。孔子は中都の代官から土木監督官になり、さらに司法大臣になった。

魯の定公十年(BC500)春、斉と和平が成立した。夏、斉の家老・黎鉏が斉の景公に言った。「魯は孔子を用い、その勢いは斉を危うくするでしょう」と。そこで使者を魯に送り、親睦の会合を夾谷で開こうと提案させた。

魯定公且以乘車好往。孔子攝相事、曰「臣聞有文事者必有武備、有武事者必有文備。古者諸侯出疆、必具官以從。請具左右司馬。」定公曰「諾。」具左右司馬。
魯の定公且(まさ)に乗車を以て往(ゆ)きて好(よしみ)せんとす。孔子、相の事を摂り、曰く、「臣聞くならく、文事有る者は、必ず武備有り、武事有る者は、必ず文備有りと。古は諸侯、彊(さかい)を出づるときは、必ず官を具え以て従う。請う、左右の司馬を具(そな)えん」と。定公曰く、「諾(ダク)。」

魯定公はすぐさま車に乗って親善の会に行こうとした。孔子は親睦会の執行役を務めていたが、魯公を止めて言った。「私が聞いております所では、文事には必ず武備あり、武事には必ず文備有ると言います。昔は諸侯が国境を出る際、必ず官吏を整えて従わせました。願い上げます、左右の将軍をお連れ下さい。」定公は言った。「よろしい。」

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コメント

  1. […] 『史記』の記述と『左伝』などを元に、後世作られた物語。 […]