『史記』現代語訳:孔子世家(28)孔子死去

本文-書き下し-現代日本語訳

論語 夢奠両楹

明歲、子路死於衛。孔子病、子貢請見。孔子方負杖逍遙於門、曰「賜、汝來何其晚也?」孔子因歎、歌曰「太山壞乎!梁柱摧乎!哲人萎乎!」因以涕下。謂子貢曰「天下無道久矣、莫能宗予。夏人殯於東階、周人於西階、殷人兩柱閑。昨暮予夢坐奠兩柱之閑、予始殷人也。」後七日卒。孔子年七十三、以魯哀公十六年四月己醜卒。
明歳、子路、衛に死す。孔子病む。子貢、見ゆるを請う。孔子、方に杖を負い、門に逍遥す。曰く、「賜よ、汝の来ること何ぞ其れ晩きや。」孔子、因って歎じて、歌いて曰く、「太山壊れんか、梁柱摧(くだ)けんか、哲人萎えんか。」因って以て涕下る。子貢に謂いて曰く、「天下に道なきこと久し。能く予を宗とする莫し。夏人は殯(もがり)するに東階に於いてし、周人は西階に於いてし、殷人は両柱の間に於いてす。昨暮、予夢に、坐して両柱の間に奠(テン)せられき。予、始め殷人なり。」後、七日して卒す。孔子年七十三、魯の哀公十六年四月己丑を以て卒す。

論語 子路
明くる年、子路が衛で死んだ。

論語 子貢
孔子が病気になり、子貢が面会を請うた。孔子は丁度、杖によりかかり門前をぶらぶら歩いていた。孔子が言った。「子貢よ、お前はずいぶん来るのが遅かったな。」孔子は子貢を前にして嘆き、歌った。「大きな山も、いずれ崩れてしまう。太い梁や柱も、いずれ折れてしまう。世を悟った人も、いずれ枯れてしまう。」歌いながら涙を流した。

孔子は子貢に言った。「天下にまともな政道が無くなって長くなる。私の教説を尊ぶことが出来る者もいない。ところで、夏の人は東の階段に、周の人は西の階段に、殷の人は二つの柱の間に死者を安置する。昨年の暮れ、私は二本の柱の間に、座って祀られている夢をみた。思えば先祖は殷の人だったな。」と。そして七日後に亡くなった。孔子は七十三歳であった。時に魯の哀公十六年(BC479)、四月己丑の日(西暦推定日付3/4)だった。

哀公誄之曰「旻天不吊、不賚遺一老、俾屏餘一人以在位、煢煢餘在疚。嗚呼哀哉!尼父、毋自律!」子貢曰「君其不沒於魯乎!夫子之言曰‘禮失則昏、名失則愆。失志爲昏、失所爲愆。’生不能用、死而誄之、非禮也。稱‘餘一人’、非名也。」
哀公、之を誄(しのびごと)して曰く、「旻天(ビンテン)弔(あわれ)まず、一老を遺すを賚(たまわ)らず、余一人を屏(しりぞ)け以て位に在らしめず。煢煢(ケイケイ)として余、疚(やまい)に在り。嗚呼、哀しきかな、尼父、自ら律する毋し。」子貢曰く、「君、其れ魯に没せざらんか。夫子の言に曰く、『礼失えば則ち昏し、名失えば則ち愆(あやま)つ。志を失うを昏と為し、所を失うを愆と為す。』生きて用うること能わず、死して之を誄するは、礼に非ざるなり。余一人と称するは、名に非ざるなり。」

魯哀公は孔子をしのんで祭文を書いた。「天帝は私を哀れまず、一人の老人を残そうとせず、孔子から私一人が取り残され、国公の位に据えられている。私は寂しさ余って病んでしまった。ああ悲しいかな、父たる孔子よ。私の行動を正す人がいなくなってしまった。」

それを聞いて子貢が言った。「殿様はこの魯では死ねないな。先生が言っていた、礼法が無ければ行動の原則が分からない。筋違いの名を付ければ何をしてもやり損なう。感情が礼法にかなっていないから原則が分からないのであり、感情から出任せを言うからやり損なうのだ、と。先生の生前には仕事を与えないでおいて、亡くなってからあのような泣き言を言うのは、礼法にかなっていない。私一人が取り残され、だって? その言い方は周王だけの特権だ。ろくな死に方をしないぞ*。」

*子貢の予言通り、ただでさえ門閥三家老家=三桓の御神輿に過ぎなかった哀公は、怯えた余り筆頭家老の季康子に、「ワシを殺す気か!」と尋ねた所、「知らねえよ」と冷たく言われ、国を逃げ出して諸国を放浪したあと、はるか南方の越の国で客死した。

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