
論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
曾子曰、「吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。」
復元白文
忠
書き下し
曾子曰く、吾れ日に三たび吾が身を省る。人の爲に謀り而忠ならざる乎、朋友と交り而信ならざる乎、習はざるを傳ふる乎。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
曽子が言った。「私は日に三度我が身を省みる。人のためにものを考えてやって、相手のためにならない事を言わなかったか。友人と交わって嘘を言わなかったか。自分に出来もしないことを人に教えなかったか。」
意訳
曽先生のお説教。「我が輩は毎日三つのことを反省しておる。誰かの相談に乗ってやって、相手のためにならないことを言わなかったか。友達づきあいで約束を破らなかったか。自分に出来もしない事を、偉そうに誰かに講釈しなかったか。お前らもそうでなくてはいかん。」
弟弟子一同「「「おまいう。」」」
従来訳
曾先生がいわれた。――
「私は、毎日、つぎの三つのことについて反省することにしている。その第一は、人のために謀つてやるのに全力をつくさなかつたのではないか、ということであり、その第二は、友人との交りにおいて信義にそむくことはなかつたか、ということであり、そしてその第三は、自分でまだ実践出来るほど身についていないことを人に伝えているのではないか、ということである。」
現代中国での解釈例
曾子說:「我每天都要多次提醒自己:工作是否敬業?交友是否守信?知識是否用於實踐?」
曽子が言った。「私は毎日必ず何度も自分を点検することにしている。仕事にあたって誠意で取り組まなかっただろうか? 交友で約束を守らなかっただろうか? 知り得たことを実践しなかっただろうか? と。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
曾子(曽子)
(金文)
諱(いみな。本名)は参、字(あざな。自分で名乗る通称)は子輿。父は曾蒧(曾點、點は点の旧字、字は子皙)、子に曾申。魯の南武城(現在の山東省済寧市嘉祥県)出身。『史記』弟子列伝・『孔子家語』に依れば、孔子より46年少。
孔子からははっきりと「參や魯(うすのろ)」と評されている(論語先進篇17)。そのためか、孔子一門の政治活動に携わった記録はない。放浪の旅にも同行した記録がないが、これはあまりに年少だったためで仕方がないだろう。
十三経の一つ『孝経』は、曽子の門人が孔子の言動をしるしたと称される。また、孔子の孫・子思は曽子に師事し、子思を通し孟子に教えが伝わったため、孟子を重んじる朱子学が正統とされると、顔回・曽子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。
『呉子』を著した武将の呉起は、一説には曽子の弟子。兄弟弟子との関係では他人に厳しく、有若が孔子の後継者に擬せられた際には反対し、晩年の子夏を叱りつけたりしている。
子を亡くした子夏に、「自業自得だ」と言い放つのは、人間としてどうなのだろうか。
詳細は論語の人物:曽参子輿を参照。
本名の「参」(三本のかんざし→混ざる)とあざ名の「輿」(担いで人を乗せるこし→万物をのせる台、すなわち大地)の間の関連性は、有若と同じく乏しい。あざ名は”大地の如く偉大な先生”の意で、のちに曽子と呼ばれて祖師扱いされたのも、有子と呼ばれた有若に似ている。
つまりそれだけ、後世の帝国官僚=儒者が担ぎ挙げるには相応しい人物だったのだろう。なにせ頭が悪すぎて、政治家としても学者としても、全く何の業績も残していない(『孝経』は後世の偽作)。白紙だからこそ、好き勝手にでっち上げ、お神輿にするには都合がよかったのだ。
省
(金文)
論語の本章では、”振り返って詳しく検討する”。
『学研漢和大字典』による原義は、目を細めてこまごまとみること。『字通』による原義は、目に装飾を施して威圧しながら見回ること。詳細は論語語釈「省」を参照。
謀
(金文・篆書)
論語の本章では、”手立てを考える”。語源は「言」+「某」。
『学研漢和大字典』による原義はよくわからない先のことをことばで相談すること。『字通』による原義は、木の枝にくくりつけられた祝詞の容れ物で、神意を問うこと。詳細は論語語釈「謀」を参照。
而
(金文)
論語の本章では、”…(し)て”。順接・逆接の接続辞。原義は”ヒゲ”。詳細は論語語釈「而」を参照。
信
(金文)
論語の本章では、「忠」との対比で、”他人を欺かないこと”。一般的意味は、”ウソをつかず、人の言葉を守る”こと。語源は「人」+「言」。
『学研漢和大字典』による原義は、一度言明したことを押し通す人間の行為。詳細は論語語釈「信」を参照。
忠
(金文)
論語の本章では、”忠実”。
この文字=言葉は論語の時代に存在しない。『学研漢和大字典』による原義は、中身が充実して欠けめのない心のこと。詳細は論語語釈「忠」を参照。
カールグレン上古音は子音のtのみ、藤堂上古音はtɪoŋ。藤音で同音の「中」には”こころ・ただしい・なほい”の語釈が『大漢和辞典』にあり、加えて「忠・衷に通ず」といい、論語時代の置換候補となる。
ただし本章の場合、孔子の弟子とは言いがたい曽子の発言であり、おそらく戦国時代以降の創作だから、「忠」の字を「中」の変化したもの、とは考えがたい。「忠」が戦国時代になって現れた理由は、諸侯国の戦争が激烈になり、領民に「忠義」をすり込まないと生き残れなくなったため。
傳(伝)不習乎
論語の本章では、”十分に習熟していないことを伝えなかったか”。
この句には異説があって、武内義雄『論語之研究』によると、前漢武帝の時代に孔子の旧宅から掘り出された古論語では、もと「博而不習乎」(ひろめてならわざるか)だったという(p.79)。「傳」は「博」の間違いであり、前二句同様に「而」が入っていた、ということ。
古論語は来歴が怪しくはあるが、現伝の論語の最も古い祖先で、これ以上古い本は現在存在が確認されていない。しかし古論語そのものもまた、現在では伝わっていない(→論語の成立過程まとめ)。
ともあれ武内説が正しいとすると、読み下しも訳も変わってくる。
博而不習乎 博め而習わ不る乎。
自説の宣伝ばかりして、謙虚に学び取らないことがなかったか。
「伝」「習」(金文)
「伝」は”伝える”。「習」は論語の第一章と同様、実践演習をすることであり、口先だけでなく実行できるということ。詳細は論語語釈「伝」・論語語釈「習」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章は、孔子塾小人派の総帥、曽子の弟子による挿入で、世の中にはそうできる人もいるかも知れないが、常人にはことのほか困難な話で、曽子自身もそうだったか疑問が付く内容。ウスノロ曽子は、こうした言葉だけのハッタリしか弟弟子に言ってこなかったのだろう。
『小載礼記』の記載では、曽子は後年、孔子一門のお目付役のようなことをして、弟子の間を巡った。孔門十哲の一人・子夏を訪れた際は、罵倒して叱りつけている。確かに人に対して「忠」で友に対して「信」かも知れないが、その非難はほとんど言いがかりに近い。


そもそも子を失い、視力を失ったのがお前の罪だ。(『小載礼記』檀弓上篇)
加えて曽子は無能が祟って生涯仕官出来ず、お目付役の巡回も、実は物乞いの巡業だった可能性が高い。何しろ自派の正当性を保証するご本尊、孔子の孫・子思にすら貧窮生活を強いている。子夏の住む遠い魏国にまで出かけたのは、近所では出入り禁止を喰らったからだろう。
ならば低姿勢に憐れみを乞えばいいものを、怒鳴ってゆすったのだ。
こうしたいじめ屋が、論語のように強力な宣伝力を持ったとしたらどうなるか。世間には目を覆わんばかりの偽善がはびこり、それを利用して人を人とも思わぬ人でなしが、人々や社会を食い荒らすだろう(『孔子家語』致思第八付記)。後漢王朝は実際それで滅んだ(→後漢というふざけた帝国)。
それもこれも国教化以降の儒教が、曽子の系統を正統としたのが一因だが、史実の曽子は史実の孔子にとって、教えてもメモも取らないようなイヤな弟子だった。現伝の論語に、曽子と孔子の対話がごく簡単に、それも偽作された一章しかない(論語里仁篇15)のはその反映である。
共産圏の独裁者が、マルクス像の隣に自分の像を置きたがったように、正統派を目指す者は権威者との縁故を強調する。だから曽子がまともに孔子の話を聞いていたなら、論語の素材となるべき講義メモが大量にあってしかるべきだが、まるで無いから偽作の一章しか無いわけだ。
その一章も、主人公は孔子ではなく曽子になっているのだが、時代にかかわらず、中国の物書きは捏造や書き換えを平気でやる(→毛沢東「沖縄は日本の領土」)。曽子が正統であるからには、その生前も正統な孔子の弟子でないと、儒者としては困るのである。
曽子は有若と並んで、孔子の直弟子であったかどうかも怪しい。その父である曽点も、もちろん架空の人物である(論語先進篇27)。それが儒教の祖師の一人とされ、大変な権威と尊敬を集めてきたことは、そもそも論語の記述の多くが、極めて史実性に乏しいことの反映でもある。
論語を哲人の言葉として受け取るのもよいし、人によっては信仰を抱くこともあるだろう。しかし書かれたことが全て事実と言い出したり、都合のよい解釈を付け、あるいは神秘化して気の毒な人を食い物にするのは頂けない。狂信的な論語の解釈は、もう終わらせねばならない。
経文は意味が分からないから有り難いのかも知れないが、論語にあたかも経文のようにもったいをつけ、自分で読めもしないのに人に教えて金を取るのは、新興宗教と変わらない。論語に限らず中国古典全般が、こんにちの日本ではそういう扱いを受けている。嘆かわしいことだ。
曽子が権威になりおおせたように、中国古典、ひいては中華文明全体に、そうしたうさんくささが常につきまとう。その欺瞞は所与として引き受け、臆せずに黒魔術を砕いていかねば、中国も中国人も中国史も分からない。それらは幻想ではなく、めしを食う生き物だからだ。
さて吉川本では「魯」を”篤実”ととり、「いかにも曽参らしい、篤実な言葉である」という。また伊藤仁斎の『論語古義』を引き、「反省される事柄が、すべて他人に関係する事柄であることに注意せよ。ただ一人ひきこもって、自分の心を研ぎすます、というようなのは、「論語」の道徳ではない、と」と記す。
デタラメだ。孔子生前の孔子塾には多様性があり、「ひきこもって、自分の心を研ぎすます」顔淵のような弟子がいた。白川静『孔子伝』では、そのような隠者生活をよしとする南方の弟子たちを記す。だから顔淵こそ論語の精神を体現した者で、吉川の指摘は妥当でない。
吉川は戦後に論語の権威として名を馳せたが、儒者の注釈はほぼ疑わずに取り込んでいる。これは事大主義(強者に媚びる)でもあろうが、辞書の揃わない時代では、中国儒者の説を真に受けるしかなかった事情もある。だが今やもう、博物館行きにした方がいいだろう。
なお中国でのいわゆる儒教の国教化に伴って、曽子の地位は時代と共に高くなり、現実離れした伝記のたぐいが世に出るようになった。いわゆる二十四孝の伝説だが、そこでの曽子は、離れた場所にいる母のケガを察知したエスパーになっている。宗教的情熱とは恐ろしいものだ。
その尻馬に乗った江戸の松平定信は、寛政異学の禁で朱子学を強要した。自画像の目がうつろなことから想像できるが、この老中は真正のサイコパスで、エロ本の収集と(『よしの草子』に記載がある)、人をいたぶることしかできなかった。対して戯作者は『二十不孝』を書いた。
もっともらしい態度をからかったのである。その方が、よほどまともな神経をしている。
コメント
[…] 例えば学而篇の「伝不習」を現代中国語読みしている、愚かな中国人の猿真似で批判している。これは相当に頭が悪くないとできないことで、高校の時、日本古文が現代語といかに違うかを理解できなかったのだろう。春秋の漢文も中国語だが、現代中国語とはかなり違う。 […]