論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰我未見好仁者惡不仁者好仁者無以尙之惡不仁者其爲仁矣不使不仁者加乎其身有能一日用其力於仁矣乎我未見力不足者蓋有之矣我未之見也
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰我未見好仁者惡不仁者好仁者無以尚之/惡不仁者其爲仁矣不使不仁者加乎其身/有能一日用其力於仁矣乎我未見力不足者也/蓋有之乎我未之見也
後漢熹平石経
子□□未見好仁惡不仁者好仁者無㕥尚之惡不仁者其…
※「惡」字は〔亞〕の中に〔一〕あり。「不」字は〔一八个〕。「無」字は〔無〕の〔丿〕を欠く。「其」字は上半分中央に〔丨〕一画あり。
定州竹簡論語
……[其力]於仁a矣乎?我[未見力不足b]也c。蓋有之矣d,我未之見也。」65
- 皇本「仁」下有「者」字。
- 皇本「足」下有「者」字。
- 阮本無「也」字。
- 矣、皇本、高麗本作「乎」。
標点文
子曰、「我未見、好仁惡不仁者。好仁者、無以尙之。惡不仁者、其爲仁矣。不使不仁者加乎其身。有能一日用其力於仁矣乎。我未見力不足也。蓋有之矣、我未之見也。」
復元白文(論語時代での表記)
※仁→(甲骨文)。論語の本章は、「未」「尙」「其」「使」「身」「能」「足」「也」「蓋」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、我未だ見ず、仁たるを好み仁たら不るを惡む者を。仁たるを好む者は、之に尙ふを以ゐる無し。仁たら不るを惡む者は、其れ仁たるを爲す矣。仁たら不る者を使て其の身乎加へしめ不ればなり。一日其の力を仁たる於用ゐ矣るに能ふ有らむ乎。我未だ力の足ら不る也を見ず。蓋し之有り矣も、我未だ之を見ざる也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「私は貴族らしさを好んだり、貴族らしくなさを憎む者を見たことがない。貴族らしさを好む者は、これ以上何も言うことはない。貴族らしくなさを嫌う者は、それが貴族らしさの実践になる。貴族らしくない行為がその身に起こらないからだ。たった一日その力を貴族らしさに向け切る事が出来る者はいるだろうか。私はその力が足りない者を見たことがない。調べればきっといるだろうが、私は見たことがない。」
意訳
弟子諸君や、もう少し真面目に貴族になる稽古をしないか。もちろん真面目に稽古に励む者には言うことが無い。貴族らしくあろうとする心が、すでに貴族の証しだからだ。サボっている者の真似もしないしな。サボリの諸君、たった一日でいいから真面目にやってみなさい。世の中には向き不向きはあるが、貴族に向いていない人間など見たことが無いぞ。
従来訳
先師がいわれた。――
「私はまだ、真に仁を好む者にも、真に不仁を悪む者にも会ったことがない。真に仁を好む人は自然に仁を行う人で、全く申分がない。しかし不仁を悪む人も、つとめて仁を行うし、また決して不仁者の悪影響をうけることがない。せめてその程度には誰でもなりたいものだ。それは何もむずかしいことではない。今日一日、今日一日と、その日その日を仁にはげめばいいのだ。たった一日の辛抱さえ出来ない人はまさかないだろう。あるかも知れないが、私はまだ、それも出来ないような人を見たことがない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「我沒見過喜歡仁道的人,厭惡不仁道的人。喜歡仁道的人,認為仁道至高無上;厭惡不仁道的人,目的是避免受不仁道的人的影響。有能夠一天盡心為仁道的人嗎?我沒見過沒能力的,可能有,但我沒見過。
孔子が言った。「私は仁道を喜ぶ人も、不仁道を嫌う人も見たことがない。仁道を喜ぶ人は、仁道をこの上ない境地と認めている。不仁道を嫌う人は、その目的は不仁な人の影響を受けないためだ。たった一日仁道を行うために心を尽くす人はいないか? その力がない人を見たことがないし、いるかもしれないが、やはり私は見たことがない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
我(ガ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし(は)”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”今までにない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
見(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”見る”→”会う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”、”…される”の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。
好(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、「もののふたり」と訓読して”貴族らしさ”。同じ論語の章でも、後世の創作の場合は、「仁」は「よきひとたり」または「なさけ」と訓読して、通説通り「仁義」”常時無差別の愛”の意で解すべき。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
孔子の生前、「仁」は単に”貴族(らしさ)”を意味したが、孔子没後一世紀後に現れた孟子は「仁義」を発明し、それ以降は「仁」→「仁義」となった。詳細は論語における「仁」を参照。
惡(アク/オ)
(金文)
論語の本章では”にくむ”。現行字体は「悪」。初出は西周中期の金文。ただし字形は「䛩」。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「アク」で”わるい”を、「オ」で”にくむ”を意味する。初出の字形は「言」+「亞」”落窪”で、”非難する”こと。現行の字形は「亞」+「心」で、落ち込んで気分が悪いさま。原義は”嫌う”。詳細は論語語釈「悪」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~する者”・”~すること”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
「我未見好仁者」については、定州竹簡論語の欠損部分だが、それに次いで古い後漢末の漢石経には「者」が無い。従って後漢末から南北朝にかけて編まれた古注になってから付け足されたとみられる。
「我未見力不足者」については”~という人”と解釈した方がわかりやすいが、”~ということ”でも文意が通じる。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”…なくせ”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、”率いる”・”用いる”・”携える”の語義があり、また接続詞に用いた。さらに”用いる”と読めばほとんどの前置詞”…で”は、春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
尙(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では、『大漢和辞典』の第一義と同じく”ねがう”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「尚」。中国や台湾ではこちらを正字として扱う。初出は甲骨文。字形は「–」+「冂」”大広間”+「𠙵」”くち”で、大広間に集まった人の言葉が天に昇っていくさま。原義は”たたえる”。春秋以前の金文では”なおまた”・”とうとぶ”の意に、戦国の金文では”尊ぶ”、”つねに”の意に用いた。また人名にも用いた。漢の竹簡では”上る”の意に用いた。詳細は論語語釈「尚」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”それ”・”その”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。「苟志於仁矣」で”もし仁に志し切ってしまったならば”。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
加(カ)
(金文)
論語の本章では”手を加える”→”加わる”。初出は西周早期の金文。字形は「又」”右手”+「𠙵」”くち”。人が手を加えること。原義は”働きかける”。金文では人名のほか、「嘉」”誉める”の意に用いた。詳細は論語語釈「加」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”~に”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
身(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”自身”。初出は甲骨文。甲骨文では”お腹”を意味し、春秋時代には”からだ”の派生義が生まれた。詳細は論語語釈「身」を参照。
不使不仁者加乎其身
「惡不仁者」”貴族らしくないのを嫌う者”であるからには、「不仁者」”貴族らしくない行為”を「其」の「身」「乎」”に”付け「加」え「使」”させ”ない。貴族らしくあろうとする者は、みっともないことをして貴族の名折れになるようなことはしない、の意。
論語の本章は、全ての「者」を人ではなく”こと”・”行為”と訳しても貫徹できるが、春秋時代以来、漢語の「者」は”人”と”ものごと”の語義を兼任するので、文全体が道理に合うよう解釈出来るなら、同じ章内で語義を切り変えても構わない。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
能(ドウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
一(イツ)
(甲骨文)
論語の本章では、数字の”いち”。「イチ」は呉音。初出は甲骨文。重文「壹」の初出は戦国文字。字形は横棒一本で、数字の”いち”を表した指事文字。詳細は論語語釈「一」を参照。
日(ジツ)
(甲骨文)
論語の本章では”ひにち”。初出は甲骨文。「ニチ」は呉音。原義は太陽を描いた象形文字。甲骨文から”昼間”、”いちにち”も意味した。詳細は論語語釈「日」を参照。
用(ヨウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”用いる”。初出は甲骨文。字形の由来は不詳。ただし甲骨文で”犠牲に用いる”の例が多数あることから、生け贄を捕らえる拘束具のたぐいか。甲骨文から”用いる”を意味し、春秋時代以前の金文で、”…で”などの助詞的用例が見られる。詳細は論語語釈「用」を参照。
力(リョク)
(甲骨文)
論語の本文では”能力”。初出は甲骨文。「リキ」は呉音。甲骨文の字形は農具の象形で、原義は”耕す”。論語の時代までに”能力”の意があったが、”功績”の意は、戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「力」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
有能一日用其力於仁矣乎
ここは多重の入れ子構造になっている。
- 一日用其力於仁:”(たった)一日、その力を仁のために使う。”
- (1.)矣:”1.をやり遂げる。”
- 有能(2.):”2.を出来る者がいる。”
- (3.)乎:”3.だろうか。”
足(ショク/シュ)
「疋」(甲骨文)
論語の本章では”足りる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「疋」と未分化。「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
蓋(カイ/コウ)
(金文)
論語の本章では、”考えて見ると・推測するに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ガイ」は慣用音。「カイ」(去)の音で”覆う”を、「コウ」(入)の音で”草葺き屋根”、”どうして…ないのか”の意を示す。字形は「艹」+「盍」”ふた・覆う”で、原義は”草葺き屋根”。初出の金文は”器のふた”の意で用いた。詳細は論語語釈「蓋」を参照。
漢文の読解では、句頭にある時は”考えて見ると”・”そこで”・”そもそも”の意と、再読文字として「なんぞ~ざる」”どうして~しないのか”を、句中に動詞としてある時は”覆う”の意味を知っておくと便利。
論語:付記
検証
論語の本章は、再出は定州竹簡論語のみで、先秦両漢の誰も引用していない。唯一似たような言葉を、周代の礼法をでっち上げるために漢儒が偽作した『小載礼記』が記す。
子曰:「無欲而好仁者,無畏而惡不仁者,天下一人而已矣。是故君子議道自己,而置法以民。」
(孔子)先生が言った。「無欲で仁を好む者と、恐れず不仁を憎む者は、天下にただ一人しかいない。だから君子は、従うべき道理を自分自身に求め、しかも行動の原則は民衆に従うのだ。」(『小載礼記』表記13)
ただし文字史的に論語の時代まで遡れるので、とりあえず史実として扱う。
解説
本章は、「仁」=「仁義」と捉えている限り、難しい字がないのに分かりづらい屈指の章。さらに「我」を主格で使用しているのは、上古の漢語としては珍しく、通常は「吾」を用いる。
鄭人有且置履者,先自度其足而置之其坐,至之市而忘操之,已得履,乃曰:「吾忘持度。」反歸取之,及反,市罷,遂不得履,人曰:「何不試之以足?」曰:「寧信度,無自信也。」
鄭の人が靴を買い増ししようと思った。そこで自分の足のサイズを測ってから、メモ書きをざぶとんのそばに置いたまま店に行った。そこでメモを忘れたことに気づき、店で靴を手に取りながら「やや、メモが無い」と言った。
家にメモを取りに帰り、店に戻ると、すでに閉店していた。ある人「なんで靴屋で履いてサイズを試さなかったんです?」「いや、ちゃんと測ったメモの方が正確でしょ。」(『韓非子』外儲説左上48)
ただ「我」を主格に用いた例は甲骨文の昔からあり、間違いとまでは言えない。
さて論語の本章は意訳に示したように、いまいち稽古に熱心でない弟子に対する孔子のお説教と解せるのだが、春秋の君子=貴族はなろう系小説の同業と異なり、授爵やあとを継ぐだけで務まる立場ではなかった。威張るだけでは家臣や領民にそっぽを向かれ、地位を失ったり国を追われたり天寿を全うできなかったりする。詳細は論語雍也篇24余話「畳の上で死ねない斉公」を参照。
貴族がそっぽを向かれないためにはまず戦場働きが出来なければならず、古典や外国語の教養がなければならず、読み書き算術が出来なければならなかった。つまりそれなりに稽古に励まないと地位を保てないわけで、孔子が貴族社会へ入るきっかけを作ったのも、魯国門閥三家老家の一家・孟孫家当主(孟僖子)に見込まれ、跡継ぎ(孟懿子)にお作法を仕込む家庭教師として招かれたことだった。
貴族でもない孔子が門閥の家庭教師になったのは、身分制社会の春秋時代では、それなりに珍しいことだったに違いない。だがそれでも当主が招いたのは、跡継ぎの技能教養に不安があったからで、しかも、一族の中に教師役に耐えうる人材がいなかったことを物語っている。
孔子自身は父が誰とも分からない、流浪の巫女の私生児上がりだったが、頑健な肉体と頭脳、巫女という識字階級の出身、さらに門閥に見出されて文献を読む機会を得たことで、”誰だって稽古次第で貴族になれる。出来ないとは言わせないぞ”と論語の本章で弟子に説教することができた。
ただし誰もが孔子のような肉体と頭脳に恵まれているわけではない。もしそうなら春秋の世は孔子だらけになっていたはずだ。だから「無茶言わんで下さい」と弟子は思ったかも知れない。しかし教師として孔子は、入門したからにはその覚悟を弟子に求めるのも、また当然だった。
現代でも教育問題の約半分は、学ぶ気のない者に教える事の困難にある。人は学んだと認定された結果としての利益に興味を持ちはしても、学ぶことそのものに喜びを見出す者はまれだからだ。これを善悪の問題として捉えると、教育現場にサディズムを横行させる危険が高まる。
だから学ぶことそのものへの無関心や意志の欠如、こればかりは孔子ほどの教師が現代に現れてもどうしようもないし、春秋の世にもふらちな弟子はいただろうから、どうしようもないことだったに違いない。
余話
万人に対する万人の
ちなみに上掲『礼記』の前章が、対日戦に勝利した蒋介石が演説した「怨みに報いるに徳を以てす」(論語憲問篇36)の再録で、論語とはちょっと違う文になっている。もちろん漢儒のでっち上げで、日本のいわゆる保守派の連中は、蒋介石にずいぶん間抜けな感心をしたものだ。
或曰、「以得報怨、何如。」子曰、「何以報得。以𥄂報怨、以得報得。」
ある人「恩恵で憎らしい者にお返ししたら、どうですかね?」
孔子「なんでそんな奴に恩恵を与える。やられたら真っ直ぐやり返し、貰ったらきちんと恩返しをしなさい。」(『論語』憲問篇36)
子曰:「以德報怨,則寬身之仁也;以怨報德,則刑戮之民也。」
先生が言った。「恩恵で怨みに報いるのを、寛大な仁の行いという。恩恵に怨みで報いるのを、死刑に処されても仕方の無い馬鹿者という。」(『小載礼記』表記12)
日中戦争は、そもそも蒋介石が攻め込んで始まったことを、日本人は記憶するに値する。まあ、当時の日本人もろくなもんじゃなかったけどね。
なお上掲以外にも、『韓非子』には鄭の人をうつけ者に描いた寓話がいくつかある。韓非は鄭に怨みでもあるのか、と思うほどだがそうでない。韓非はその名の通り韓の公族で、戦国時代になって韓は鄭を滅ぼした上、もと鄭の都に遷都までした。西方の秦が怖かったからだ。
まだ魏の西半分は秦に攻め取られる前だったから、韓は秦と全面対決を強いられてはいなかったが、戦国七雄の中で最弱の哀しさからくる残忍で、より弱い者いじめをして延命を図ったわけ。韓非が鄭人をうつけに描くのは、亡国の民として下目に見ていたからだ。
そんな韓非を、良心的な漢学教授だった藤堂博士はこう記す。
初めに韓非は鬼才だといった。かれは人の言うのをはばかることを、ズバリといってのける。言いたくない点を、わざと暴露する。そして悪い面をことさら採り上げて、それを普遍の事実であるごとく描きあげる。たとえば、夫を毒殺する妻は、万人に一人であろう。が韓非の手にかかると、まるで世のすべての女性が、魔物のごとく、すべての男性が獣のように印象づけられてしまう。おそろしいことだ。その鋭くかつ暗い人柄を、鬼才と称したのである。(藤堂明保『漢文入門』)
だが戦国の非情を韓非ばかりに求められない。孟子がいくら口を酸っぱくして仁義を説いても、ほぼ誰も言うことを聞かなかった。すなわちホッブズの言う万人に対する万人の闘争状態のすごいバージョンで、文字通り仁義なき戦いが繰り返されたわけ。
今の中国はどうなのだろう。
参考記事
- 論語里仁篇13余話「中国人の面子」
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