論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰能以禮讓爲國乎何有不能以禮讓爲國如禮何
※「禮」字は〔禾豊〕。
校訂
諸本
東洋文庫蔵清家本
子曰能以禮讓爲國乎何有/不能以禮讓爲國如禮何
※「禮」字は〔禾豊〕。
後漢熹平石経
子白能㕥禮…爲國…禮讓…
※「能」字は〔䏍长〕。「禮」字は〔禾豊〕。
定州竹簡論語
子曰:「能以禮讓為國乎?何有?70……
標点文
子曰、「能以禮讓爲國乎、何有。不能以禮讓爲國、如禮何。」
復元白文(論語時代での表記)
讓 讓
※論語の本章は、「讓」の字が論語の時代に存在しない。「爲」「乎」「何」「如」の用法に疑問がある。本章は後世の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、禮讓を以ゐて國を爲めるに能ふ乎、何か有らむ。禮讓を以ゐて國を爲むるに能は不らば、禮の如きは何ぞや。
子曰、「能以禮讓爲國乎、何有。不能以禮讓爲國、如禮何。」
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「礼法とへりくだりで国が治まれば、言うことはない。礼法とへりくだりで国が治まらないなら、礼法とは何なのだ。」
意訳
お作法で国が治まるなら安いものだ。治まらないなら、お作法など無用の長物だ。
従来訳
先師がいわれた。――
「礼の道にかなつた懇切さで国を治めるならば、何の困難があろう。もし国を治めるのに、そうした懇切さを欠くなら、いったい礼制は何のためのものか。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「能以禮讓治國嗎?沒問題!不能以禮讓治國,怎麽實行禮法?」
孔子が言った。「礼譲で国を治められるか? 問題ない。礼譲で国を治められなければ、なぜ礼法を行うのか?」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。
能(ドウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”…で”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、”率いる”・”用いる”・”携える”の語義があり、また接続詞に用いた。さらに”用いる”と読めばほとんどの前置詞”…で”は、春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章では”礼儀作法”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
下記「讓」の春秋時代までの不在から、本章は後世の創作が確定するので、「礼」は”礼儀作法t”と解して構わない。孔子生前の語義は、礼儀作法を含んだ”貴族の常識”。
讓(ジョウ)
(晋系戦国文字)
論語の本種では”へり下り”。新字体は「譲」。初出は晋系戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。同音は旁に襄を持つ一連の漢字群。字形は「言」+「口」+「羊」で、”羊を供えて神に何かを申す”ことだろう。従って『大漢和辞典』の語釈の中では、”祭りの名”が原義と思われる。さらに”ゆずる”の語義は派生義となる。詳細は論語語釈「譲」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”治める”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
國(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”国”。新字体は「国」。初出は甲骨文。字形はバリケード状の仕切り+「口」”人”で、境界の中に人がいるさま。原義は”城郭都市”=邑であり、春秋時代までは、城壁外にまで広い領地を持った”くに”ではない。詳細は論語語釈「国」を参照。
加えて恐らくもとは「邦」と書かれていたはずで、漢帝国になって高祖劉邦のいみ名を避ける(避諱)ため、当時では同義になっていた「國」に書き換えたのが、そのまま元に戻らず現伝していると考えられる。詳細は論語語釈「邦」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…にあたっては”。語調を強める働きを示す。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
何(カ)
(甲骨文)
論語の本章、「何有」では”何が”。「如禮何」では”何であるか”。”なに”の語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
如~何(~のごときはなにぞ)
論語の本章では”~のようなものは何か”→”~が何の役に立つか”。「如何」の間に目的語の「…」を挟んだ形、ではない。
「如何」「何如」を一緒くたに「いかん」と訓読して、読めない漢文を読んだと世間を欺したおじゃる公家のデタラメに従うのは、もうやめよう。”礼法をどうしましょう”と言われて、意味分かりますか? 意味が分からない訓読は、訓読に失敗している。
通説が「いかん」と訓読する言葉の区別は次の通り。詳細は漢文読解メモ「いかん」を参照。
- 「如何」→”何に従う(べき)か”→”どうしましょう”
- 「何如」→”何がつき従っているか”→”どうでしょう”
「如」の初出は甲骨文。原義は”ゆく”。”したがう”・”…のようである”の語義は春秋時代では確認できない。詳細は論語語釈「如」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用しておらず、事実上の初出は定州竹簡論語か、あるいは同時期の『塩鉄論』になる。
『塩鉄論』は武帝期に能吏として宰相に出世した桑弘羊に対し、武帝の死没直後、政敵の霍光が仕掛けた政論の記録で、文学=メルヘンに酔いしれるはな垂れ儒者の屁理屈として、論語の本章の言葉を「孔子曰く」として引用した。論語八佾篇4の解説を参照。
文學曰:「禮義者,國之基也,而權利者,政之殘也。孔子曰:『能以禮讓為國乎?何有?』伊尹、太公以百里興其君,管仲專於桓公,以千乘之齊,而不能至於王,其所務非也。故功名隳壞而道不濟。當此之時,諸侯莫能以德,而爭於公利,故以權相傾。今天下合為一家,利末惡欲行?淫巧惡欲施?大夫君以心計策國用,構諸侯,參以酒榷,咸陽、孔僅增以鹽、鐵,江充、楊可之等,各以鋒銳,言利末之事析秋毫,可為無間矣。非特管仲設九府,徼山海也。然而國家衰耗,城郭空虛。故非特崇仁義無以化民,非力本農無以富邦也。」
はな垂れ儒者「礼儀作法と正義は、国の基礎だ。権力と利権は、政治の残酷が生み出したものだ。孔子先生は言った。”礼譲で…”と。伊尹は殷の湯王の創業を助け、太公望は周の文王・武王の創業を助けたが、元の国土は百里(前漢の1里は405m)四方に過ぎなかった。
ところが管仲は斉の桓公に一生懸命仕え、斉国は戦車千乗もの動員力があったが、結局桓公に天下を取らせることが出来なかった。これは仕事をやり損なったと言うべきだ。だから働き損のくたびれもうけで終わった。当時の諸侯は、だれも彼も道徳を踏みにじり、私利私欲に走り、だから利権を争って共倒れになった。
今は漢帝国によって天下が統一されたというのに、どうしてそんな利益タカリをしたがるのだ? 陰険な金儲けを、なぜやりたがるのだ? 宰相閣下は国の財政維持のためだと言うが、諸侯にも酒の専売を許しているではないか。閣下の一味は塩や鉄の専売で民業を圧迫し、口うるさく「金じゃ金じゃ」と言って止まず、それ以外の言葉を言わない。これでは管仲が九府*を設置して山海の恵みを剥ぎ取ったのと、どこが違うのか。
だから今や国の活気が衰え、各都市に賑わいが見られない。こういうのを仁義を踏みにじり、民への説明責任を果たさず、経済の根本である農業に励まず、その結果全然国が豊かにならない、というのである。」(『塩鉄論』軽重2)
*九府:九部門よりなる専売公社、と解すべき。定説では斉の行政府を構成する九つの官庁だが、それでは本文の文意にそぐわない。太公望が「九府円法」なる財政法を施行したとの伝説があり、前漢の理解では九府を経済官庁としたとしても不思議は無い。
また儒者がうるさく「禮讓」を言い出したのは後漢からで、書き物としては後漢の『白虎通』や『潜夫論』に至るまで出てこない。定州竹簡論語にあるからには、前漢前半までには出来ていたのだろうが、論語の本章を史実と判断することはとうてい出来ない。
解説
論語の本章は「譲」を「襄」と解せなくも無いが、”ゆずる”の語義は無い。というのも、孔子在世当時の「礼」とは、塾生が身につけるべき個人的教養であって、あくまで貴族に成り上がるための実践技術だったからだ。
それで国を治めるとかいう誇大妄想は、孔子没後一世紀後に現れた、孟子まで時代が下る。また「礼譲」を「作法とお祓い」と解すれば、春秋時代の中国語として通用はするものの、やはり国政うんぬんとは関係ない行為で、正しい解釈とは思えない。
そしてもちろん、南北朝までの儒者は、孟子のような解釈をしている。
古注『論語義疏』
子曰能以禮讓為國乎何有註何有者言不難也不能以禮讓為國如禮何註苞氏曰如禮何者言不能用禮也疏子曰至禮何 云能以禮讓為國乎何有者為猶治也言人君能用禮讓以治國則於國事不難故云何有言其易也故江熙曰范宣子讓其下皆讓之人懐讓心則治國易也云不能以禮讓為國如禮何者若昏閽之君不為用禮讓以治國則如治國之禮何故江熙曰不能以禮讓則下有爭心錐刀之末將盡爭之唯利是恤何遑言禮也
本文。「子曰能以禮讓為國乎何有」。
注釈。「何有」とは、難しくないという事である。
本文。「不能以禮讓為國如禮何」。
注釈。包咸「”如禮何”とは、礼を用いることが出来ないという事である。」
付け足し。先生は礼とは何かを語ってそれを記した。「能以禮讓為國乎何有」とは、礼儀と譲り合いで治めることもできる、ということだ。その心は、君主が礼法で国を治めることが出来たなら、政治など簡単だという事だ。だから「何有」と言い、その簡単であることを言った。
だから江熙はこう言った。「范宣子は家臣にへり下った。すると家臣の方でも腰が低くなり、こうして簡単に国が治まったのである。」
「不能以禮讓為國如禮何」とは、もしバカ殿が礼儀と譲り合いで国を治めなければ、国を治めるはずの礼儀と譲り合いが、無意味になってしまうということだ。
だから江熙はこう言った。「礼儀と譲り合いが使えないなら、家臣どもは錐の先ほどの利益すら取り尽くそうと争い、儲け話しか聞かなくなる。これでは礼儀の出番は無い。」
いけしゃあしゃあとはこういうことで、たびたび紹介したように、帝政期の中国の役人は、その九分九厘が「錐の先ほどの利益も独り占め」しようとした欲タカリで、生涯「譲り合い」とは縁が無く、「ゆすり合い」を事としたワイロ取りである。古注儒者も例外ではない。
ところが新注を編んだ朱子は、見方が古注とまるで違う。
新注『論語集注』
讓者,禮之實也。何有,言不難也。言有禮之實以為國,則何難之有,不然,則其禮文雖具,亦且無如之何矣,而況於為國乎?
讓とは、礼の実践である。何有とは、難しくないと言ったのである。礼が規定通りに実践され、それで国を治めるなら、困難など無いと言ったのか? そうではない。その礼儀作法がごてごてとくどく、一々細かいのに、それが役立たずだと言ったのだ。それでどうやって、国を治めるなどできるだろうか。
極めて冷めた目で「礼譲」を見ている。朱子は儒者の高慢ちき全盛で「礼」が盛んだった北宋末期と、それがいともあっさり女真族の攻撃で滅んだのを目撃しているから、礼については正気にならざるを得なかったのだろう。
余話
中国人の面子
『アーロン収容所』を記した会田雄次教授は、ヨーロッパを「人に譲ることが自分の死を意味した世界」と記している。こうした世界観はともすると、藤堂博士に「おそろしいことである」と記された韓非の如き冷徹に繋がる(論語里仁篇6余話「万人に対する万人の」)。
だがたまには立ち返る必要もある。
「礼譲」を説いた儒者が言っていることとやっていることがまるで反対だったことは上記の通りだが、中国人一般の傾向として、たとえ物乞いに身を落とそうとも自分の面子(自尊心)を失わないこと、『阿Q正伝』にあるとおり。下掲『笑府』はそれを茶化したと言えるかどうか。
有父子俱性剛。不肯讓人者。一日父留客飲。遣子入城市肉。子取肉回。將出城門。值一人對面而來。各不相讓。遂挺立良久。父尋至。見之。謂子曰。汝姑持肉回陪客飯。待我與他對立在此。
親子揃って強情張りがいた。道で人とすれ違っても決して譲らない。ある時父親が招いた客と飲んでいると、つまみがないので息子にまちまで買いに行かせた。子が肉屋から帰る途中、まちの門で道を譲らず頑張っている男がいて、息子と強情の張り合いになった。二人してずいぶん長く突っ立っていたので、変だなと思った父親が探しに来た。父親このありさまを見て曰く、「お前はうちに帰ってお客の相手をしろ。代わりに俺がここに立っていてやる。」(『笑府』巻六・性剛)
中国人の面子たるやかくのごとし。このような風景は日常的に見られたのだろう。だがこれもまた中国史が生み出した文化の一つで、ここを見落とすと外国人は中国人を理解出来ない。面子こそが中国人を生かしているのであり、失えばよってたかってなぶり者にされる。
だから現中国政府が方々でやらかしている横暴も、個別の役人や軍人が、自分の面子を失わないために強情を張っていると見ればよく、自ら戦争を望んでいる者は、おそらく一人もいないに違いない。日本人だってそうだったのだ。昭和の文武の役人は、戦争を他人事と考えた。
でなければアメリカ相手に戦うなど、正気の沙汰とは思えない。
参考記事
- 論語学而篇16余話「ニースの巡洋艦」
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