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論語詳解076里仁篇第四(10)君子の天下に’

論語里仁篇(10)要約:孔子塾生のほとんどは庶民です。頼りになる地位財産などありません。カミサマも偉い人も頼りになりません。そんな弟子が君子として生きるにはただ一つ、自分で身につけた技能教養しか寄り添ってくれないぞ、と孔子先生。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰君子之於天下也無適也無莫也義之與比

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰君子之於天下也無適也無莫也義之與比也

※京大本、宮内庁本共に文末の「也」字あり。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……[曰:「君子於天下a],無謫b也,無莫也,義之與比c。」67

  1. 君子於天下、今本作「君子之於天下也」
  2. 謫、阮本作「適」、『釋文』作「適」、云「鄭本作”敵”、適読為敵」。謫・適・敵古可通仮。
  3. 皇本「比」下有「也」字。

標点文

子曰、「君子之於天下也、無謫也、無莫也、義之與比也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 君 金文子 金文之 金文於 金文天 金文下 金文也 金文 無 金文適 金文也 金文 無 金文莫 金文也 金文 義 金文之 金文与 金文比 金文也 金文

※「謫」→「啻」。この置換が適切ではない場合、論語の本章は戦国末期以降の創作。また「也」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、「君子きんだち天下あめがしたただすかなかなすぢこれともならかな。」

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「諸君は天下に居るに当たってまさに、(自分の指針を示す)誰かの言葉はないなあ、(だが何も)ないわけではないなあ。筋道がまさに隣り合って並ぶなあ。」

意訳

論語 君子 諸君 孔子
諸君、君子には判断を委ねる事が出来る、天や上司の啓示などというものはないぞ。だが、指針が何も無いわけではない。自分で会得した、君子らしい筋を通すことだけが、諸君といつも寄り添うのだ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「君子が政治の局にあたる場合には、自分の考えを固執し、無理じいに事を行ったり禁止したりすることは決してない。虚心に道理のあるところに従うだけである。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「君子對於天下事,不刻意強求,不無故反對,一切按道義行事。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「君子が天下のことに関わる場合は、無理強いはしないし、理由もなく反対もしない。全て道義に従って事を行う。」

論語:語釈


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

君子(クンシ)

論語 弟子 孟子

論語の本章では、「諸君子」の略で”弟子の諸君”という呼びかけ。もし後世の創作とする場合、”身分ある情け深い教養人”。孔子の生前、「君子」は単に貴族を意味したが、孔子没後一世紀の孟子が偽善的意味を創作した。詳細は論語における「君子」を参照。

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…の”・倒置表現としての”これ”。両者の語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に生きる”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

天下(テンカ)

天 甲骨文 下 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”天下”。天の下に在る人界全て。

「天」の初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。

なお殷代まで「申」と書かれた”天神”を、西周になったとたんに「神」と書き始めたのは、殷王朝を滅ぼして国盗りをした周王朝が、「天命」に従ったのだと言い張るためで、文字を複雑化させたのはもったいを付けるため。「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

「下」の初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで主格の強調と、「かな」と読んで詠歎の意。仮に本章が後世の創作とするなら、後者は「なり」と読んで断定の意。断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…ない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

適(テキ)→謫(タク)

唐石経、清家本は「適」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語は「謫」と記す。時系列により「謫」に校訂した。ただし「謫」は戦国末期まで「適」と書き分けられず、初出は後漢の『説文解字』。仮に論語の本章が史実なら、「適」として解釈すべき。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

「適」・「謫」の原字は「啻」で、天の神を祭る祭礼の意。〔帝〕”天帝”+〔𠙵〕”くち”で、”のりとを申し上げる”ことであり、”お告げが下る”ことでもある。お告げに従うことから「適」には”かなう”の意があり、お告げが叱責の場合もあろうから「適」「謫」共に”責める”の語義がある。神と人との関係でなくとも、西周の金文に”部下を正せ”と王が家臣に命じる「啻」の用例がある。

論語の本章を史実とするなら、「啻」”お告げ・啓示・上司の指導”と解釈するのは理にかなう。

適 金文 適 字解
(金文)

「適」の初出は西周の金文。ただし字形は「啻」。現行字形の初出は戦国文字。同音は存在しない。字形は〔辶〕+「啇」。「啇」の古形は「啻」で、「啻」は天の神を祭る禘祭を意味した。おそらく神意にかなうことから、「適」の原義は”かなう”。「啻」の字形で春秋末期までに、「敵」”てき”、「禘」”祖先祭”、「嫡」”祖先祭の執行官”、「意」”思い”、「啻」”~だけ”・”ただす”の意に用いた。詳細は論語語釈「適」を参照。

謫 篆書 謫 字解
「謫」(篆書)

「謫」の初出は秦系戦国文字。ただし字形は「適」。同音は「摘」(入)”つみとる”のみ。字形は「言」+「啇」で、「啇」は「帝」”天の神”+「𠙵」”くち”に分解できる。おそらく神意に背く何事かを意味するのだろうが、原義は不明。戦国の用例では”(罪を)せめる”の意に用いた。詳細は論語語釈「謫」を参照。

莫(バク)

莫 甲骨文 莫 字解
(甲骨文)

論語の本章では”無いこと”。初出は甲骨文。漢音「ボ」で”暮れる”、「バク」で”無い”を示す。字形は「ボウ」”くさはら”+「日」で、平原に日が沈むさま。原義は”暮れる”。甲骨文では原義のほか地名に、春秋末期までの金文では人名、”幕”、”墓”・”ない”の意に、戦国の金文では原義のほか”ない”の意に、官職名に用いた。詳細は論語語釈「莫」を参照。

義(ギ)

義 甲骨文 義 字解
(甲骨文)

論語の本章では”筋道”。筋の通った生き方、あり方のこと。初出は甲骨文。字形は「羊」+「我」”ノコギリ状のほこ”で、原義は儀式に用いられた、先端に羊の角を付けた武器。春秋時代では、”格好のよい様”・”よい”を意味した。詳細は論語語釈「義」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では、”ともに連れ立つ者”。新字体は「与」。論語の本章では、”~と”。新字体初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

比(ヒ)

比 甲骨文 比 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ならぶ”→寄り添う”。初出は甲骨文。字形は「人」二つ。原義は”ならぶ”。甲骨文では「妣」(おば)として用いられ、語義は”先祖のきさき”。また”補助する”・”楽しむ”の意に用いた。金文では人名・器名の他”ならべる”・”順序”の意に用いた。詳細は論語語釈「比」を参照。

義之與比

論語の本章では”正義を一緒に付き添わせている”。ここでの「之」は倒置・強調の意を示し、A之Bで「AをこれBす」と読む。

『学研漢和大字典』「之」条

「~之…」は、「~をこれ…す」とよみ、「~を…する」と訳す。倒置・強調の意を示す。「父母唯其疾之憂=父母にはただその疾(やま)ひをこれ憂へしめよ」〈父母にはただ自分の病気のことだけを心配させるようになさい〉〔論語・為政〕

唐石経は「義之與比」と記し、清家本は「義之與比也」と記し、定州竹簡論語では「義之與比」と記す。ただし定州本は、「比」で簡が終わっていた記号が無い。横書きで示せば以下の通り。

……曰君子於天下無謫也無莫也義之與比…簡67号

「一枚に記された文字は19-21字」というから、「比」の後ろに古注にあるとおり「也」があった可能性がある。

清家本は年代こそ唐石経より新しいが、唐石経が改変するより前の、古注系論語の文字列を伝承している。従って清家本は唐石経を訂正しうる。以上から清家本に従い「義之與比也」と校訂した。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用せず、事実上の初出は定州竹簡論語。再出は、後漢初期の『白虎通義』だが、孔子の言葉とは明言されていない。

君所以不為臣隱何?以為君之與臣無適無莫,義之與比,賞一善而眾臣勸,罰一惡而眾臣懼。若為卑隱,為不*可殆也。故《尚書》曰:「必力賞罰,以定厥功。」

*不:衍字では?

白虎通義
主君が臣下を「隠し事をしている」と見なさないのはなぜか? 考えてみると、主君と臣下は全く意見を同じくすることも、全く意見を異にすることもない。もし正義を基準にするならば、一つの善行に褒美を与えれば、臣下はこぞってよく働き、一つの悪行に罰を与えれば、臣下はこぞって恐れ慎む。賞罰をコソコソとやるようでは、よろしくないし危険でもある。だから『書経』に、「必ずまじめに賞罰を行え。それでやっと仕事が勤まる」と。(『白虎通義』諌諍15)

後漢年表

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『白虎通義』は、前漢の宣帝と並び漢では珍しいまじめ君主の章帝が招集した、儒教の統一解釈を定めるための会議録で、編んだのは『漢書』の編者でも班固。主宰の皇帝がまじめであることからして、まじめな議論と思しく、その中で知られたが孔子の発言とは言っていない。

言葉も現行の論語と同じで、定州竹簡論語とは「謫」→「適」と反対の意味になっている。従って漢儒による創作が疑われるのだが、上掲のように「謫」・「適」の原字である「啇」と解する場合、論語の時代まで文字史的に遡れることから、本章をとりあえず史実として扱う。

解説

論語の本章の解釈は、「無適也無莫也」をどう解するかで変わってくるが、「適」「莫」字はともに多義語であることから分かりにくくなった。漢文読解とはつねに、こうした多義語との格闘になるしかないが、書かれた文献の年代で、ある程度語義の範囲を限定することが出来る。

従って上掲語釈のように、春秋以前の金文を参照して、「適」または「謫」字を”目上からの説教”と解することが出来るわけだ。「適」または「謫」字の語義が決まると、「莫」を春秋以前の語義”無い”と解することが出来る。”君子には説教も無いが、何も無いわけではない”と訳せる。

これは孔子の君子観を示した言葉で、君子とは前例や法律をたてに、決まり切った行動しかしない人物ではあり得ない。春秋の君子は参政権の代償として必ず従軍したから、敵の武器が身に迫ったとき、決まり切った行動に出ていてはあの世に行くことになる。

内政でも外交でも、決まり切ったことしか言えないのでは、政争にも交渉にも負けてしまう。だから戦場では長年の稽古で身につけた勘に頼り、とっさに身を引くか踏み込むかを判断し、内政外交でも長年の習練で身につけた、当意即妙の答えを返さねばならない。

詳細は論語における「君子」を参照。だから「こうしなさい」という天のお告げも権威者の説教も君子には無用なのだが、それではあまりに心許ない。だがただ一つ、長年の習練で体に叩き込んだ技能教養だけが、君子に常に寄り添ってくれるわけ。

論語の本章の最終句が、「すぢこれともならかな。」と倒置表現で強調しているのはもっともで、孔子塾で学ぶという、自分で選んだ道を通じて自分で会得したもの「だけ」が、孔子に言わせれば「弟子諸君に寄り添ってくれるのだぞ」というわけ。

この孔子の君子観は一貫しており、たとえば論語為政篇12「君子不器」”諸君は他人の飼い犬になって生涯を終えるな”、論語八佾篇12「吾不與祭如不祭」”ワシは祭などせん。バカげとる。カミサマなどおらんぞ”にも表れている。

なお戦国時代以降の、おもな「謫」の用例は次の通り。

百姓有母及同牲(生)為隸妾,非適()罪殴(也)。


領民の中で母親や姉妹を女奴隷にした者は、そのを問わない。(戦国最末期「睡虎地秦簡」司空151)

凡說之務,在知飾所說之所矜而滅其所恥。…自勇其斷,則無以其怒之;自智其計,則毋以其敗窮之。


君主を説得する原則は、それと承知した上で、君主が誇っていることを誉めあげ、恥ずかしく思っていることを隠してやることだ。…君主が自分で自分を果断な性格だと思っているなら、その間違いを取り挙げて怒らせてはならない。自分をはかりごとのうまい頭の良い人間だと思っているなら、その間違いを指摘してへこませてはならない。(戦国最末期・『韓非子』説難4)

鉏耰棘矜,不敵於鉤戟長鎩也。戍之眾,非抗九國之師也。


百姓一揆でスキやからさおを振り回しても、本格的な兵器を持った軍隊にはかないません。を犯して兵隊にさせられた者を集めても、諸侯の国軍には敵いません。(前漢初期・賈誼『新書』過秦下5)

晉侯問於士文伯曰:「三月朔,日有蝕之,寡人學惛焉,詩所謂:『彼日而蝕,于何不臧』者,何也?」對曰:「不善政之謂也;國無政不用善,則自取於日月之災,故不可不慎也。政有三而已:一曰因民,二曰擇人,三曰從時。」


晋の殿様が士文伯に問うた。「三月の新月の日、日食があった。ワシは勉強不足で、古詩が言う”太陽が欠けたら、どうにも隠しようがない”の意味が分からぬ。どういうことじゃ?」

士文伯「悪政のたとえです。国をまともに治めず、良からぬ事を政治で行えば、我から天候不順の天罰を招くことになります。だから慎まねばならないのです。政治に必要なのは三つです。一つに民と寄り添い、二つによい人材を選んで官職に就け、三つに天候に従うことです。」(前漢後期・劉向『説苑』政理37)

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

註言君子之於天下無適無莫無所貪慕也唯義之所在也


注釈。「君子之於天下無適無莫」とは、むさぼり執着する事が無い、という意味である。ただ正義だけがその心にあるのである。

新注『論語集注』

適,丁歷反。比,必二反。適,專主也。春秋傳曰「吾誰適從」是也。莫,不肯也。比,從也。謝氏曰:「適,可也。莫,不可也。無可無不可,苟無道以主之,不幾於猖狂自恣乎?此佛老之學,所以自謂心無所住而能應變,而卒得罪於聖人也。聖人之學不然,於無可無不可之間,有義存焉。然則君子之心,果有所倚乎?」


適の字は、丁と歷の反切である。比とは、必ず二度繰り返すという意味である。

適とは、もっぱら従うことである。『春秋』の左氏伝に、「吾誰適從」(私は誰に従おうか)とある(僖公五年2)のがその例である。莫は、肯定しないことである。比とは、従うことである。

謝良佐「適とは、それがよいという意味である。莫とは、いけないということである。よいこともいけないこともなく、無原則に行動するなら、頭のおかしな者が好き勝手するのとほとんど同じではないか。

だからこれを仏教や道教では、心をどこかに居付かせることなく、自由自在に環境の変化に応じるというのだが、それでは聖人に責められることになる。聖人の教えとはそうでない。可も無く不可も無いというその間に、正義があるというのだ。だから君子の心が、何ものに頼るというのか。」

余話

まともに学びましょ

新注の宋儒にとっても論語は古典だが、古典に対して言い廻しを工夫するだけでは、何ら学問的な価値が無い。根拠を伴いながら、少しずつ分からないところを解きほぐしていくのが、古典を研究する者のあるべき姿だ。

オモロは謡いものであったとか、あるいは集団的にうたわれたとかいうだけでは、実は何も言っていないのと同じである。それがいかに謡われたかというその歌唱形式を問わねばならない。(西郷信綱「オモロの世界」岩波書店・日本思想大系18『おもろさうし』p610)

上掲『白虎通義』に引用の『尚書』は、別名『書経』ともいう。国務大臣を意味もする。元は宮廷の文書係に過ぎなかったが、皇帝の個人的都合で大出世させられ、とうとう宰相をも意味するようになった。流行りのスペースオペラにも使われた。それを読んで友人が問うた。

友人「なんで尚書が文書係なんだい?」
訳者「では尚書って紙に書いてごらん。」
友人「ん? こうか?」

尚書

訳者「では尚の字の下に手の字を足して。」
友人「ああ…あ!」
訳者「そゆこと。」

掌書

訳者の知る限り、漢字をこういう風に教えた漢学教授は藤堂明保博士しかいない。知らないだけでほかにもおわしたのだろうが、やはり訳者の知る限り、藤堂博士以外の連中は問われて不機嫌な顔を作るか、居丈高に説教するか、笑えないだじゃれで誤魔化すかだった。

白川静

まちの破落戸ごろつきとヒョウモンダコが、どちらも毒々しい格好をしたがるように、勉強不足であればあるほど、漢学教授はハッタリをかました。白川漢和辞典を引くのにさらなる漢和辞典が要るように。このサイトをあるいは漢学科の学生諸君が読んでいるかも知れない。

漢学に限らず人文業界には、意味不明や意図的に難しい言い廻しをした論文が溢れている。だが恐れることはない。それらは所詮ハッタリで、書いた者も分かっていないことを書いているに過ぎないのだから。それらは部分的には参考になっても、全てを真に受ける必要は無い。

ましてハッタリ屋の真似をしてはいけない。元気出して、まともに学びましょう。

『論語』里仁篇:現代語訳・書き下し・原文
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