論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰放於利而行多怨
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰放於利而行/多怨
後漢熹平石経
子白放於利而行多怨
定州竹簡論語
[子]曰:「放於利而行,多怨。」69
標点文
子曰、「放於利而行、多怨。」
復元白文(論語時代での表記)
※怨→夗。論語の本章は、「行」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、利き於放ち而行はば、怨多し。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「才能をやり放題にして行動すると、怨みが多い。」
意訳
自分の才能をいい事に、やりたい放題していると、人に嫌われるぞ。
従来訳
先師がいわれた。――
「利益本位で行動する人ほど怨恨の種をまくことが多い。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「一切按利益行事的人,人人厭惡。」
孔子が言った。「すべて利益ばかり考える人は、人々が忌み嫌う。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。
放(ホウ)
(金文)
論語の本章では”好き放題に行う”。『大漢和辞典』の第一義は”はなつ”であり、何事かを解放すること。欲しいままに自由にさせること。初出は西周末期の金文。字形は「方」”ふね”+「攴」(攵)で、もやいを解くさま。原義は”はなつ”。金文では原義で用いた。詳細は論語語釈「放」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…において”→”~を”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
利(リ)
(甲骨文)
論語の本章では鋭い刃物でスパリと切るような”才智”。初出は甲骨文。字形は「禾」”イネ科の植物”+「刀」”刃物”。大ガマで穀物を刈り取る様。原義は”収穫(する)”。甲骨文では”目出度いこと”、地名人名に用い、春秋末期までの金文では、加えて”よい”・”研ぐ・するどい”の意に用いた。詳細は論語語釈「利」を参照。
放於利
論語の本章では、”遠慮無く能力を発揮すること”。従来の論語解釈では「利益本位で行動する」と解するものが多い。誤りではないが、欲得尽くで行動する者が嫌われるのは、誰にとっても明らかなことで、孔子がわざわざお説教するまでもないし、弟子がメモする動機が無い。
「利」を春秋時代の意味である”するどい才智”と考えた場合、まことに孔子塾の実情と符合する。孔子塾は平民が入塾して孔子から貴族にふさわしい技能教養を身につけ、仕官して貴族に成り上がる事を目指す塾だった。つまり教師の孔子始め一同は、貴族社会から見れば新参者であり、嫌われたら袋叩きに遭いかねなかった。
事実宰相格にまで出世した孔子は「才智を好き放題にし」た結果、魯国の貴族からも平民からも嫌われて亡命するはめになった。それをふまえての「利」であり、それならば孔子がお説教し弟子か警戒する、十分な理由が成り立つ。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”~かつ~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
多(タ)
(甲骨文)
論語の本章では”多い”。初出は甲骨文。字形は「月」”にく”が二つで、たっぷりと肉があること。原義は”多い”。甲骨文では原義で、金文でも原義で、戦国の竹簡でも原義で用いられた。詳細は論語語釈「多」を参照。
怨(エン)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”うらみ”。初出は楚系戦国文字で、論語の時代に存在しない。「オン」は呉音。同音に「夗」とそれを部品とする漢字群など。論語時代の置換候補は「夗」。現伝の字形は秦系戦国文字からで、「夗」”うらむ”+「心」。「夗」の初出は甲骨文、字形は「夊」”あしを止める”+「人」。行きたいのを禁じられた人のさま。原義は”気分が塞がりうらむ”。初出の字形は「亼」”蓋をする”+うずくまった人で、上から押さえつけられた人のさま。詳細は論語語釈「怨」を参照。
『大漢和辞典』の第一義は”うらむ”で、学研『大漢和辞典』によると「人が二人うずくまった形+心」で、”いじめられて発散できない残念な気持”という。ここでもそれで通じるが、行動した者が怨む(後悔する)のか、怨まれるのかは判然としない。
ただ「利」を”能力・切れ者”と解するなら、より力のある者に押さえつけられてうらみが溜まる、と解釈出来るので、怨む者は「利」”才智”のない無能者、血統だけを誇る旧来の貴族だろう。つまり、”能に任せてやりたい放題やると、怨まれるぞ”ということ。
論語:付記
検証
論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用せず、事実上の初出は『史記』孟子伝の冒頭に詠み人知らずのことばとして記されている。だが物証としては論語の時代に遡れるし、語る内容も誤読さえしなければ、史実の孔子の発言と断じて構わない。
解説
論語の本章の従来の読みは、「子曰わく、利を放ち而行わば、怨多し。」欲得尽くばかりで行動すると、大勢の人に怨まれる、の意。この解釈は文法語法的に誤りではない。だがしかし。
語義は明らかで、文も単純なのに、論語のような古典漢文の読解が困難であることを示す好例。”利益目当てで好き放題しろ。ゼニを寄こさない奴は怨んでやれ”と解しても、文法上は全く誤りではない。しかし「利」を現代日本語のように解釈していいのか、と疑問を持つ。
すると辞書で固い岩盤を掘削するようにすると、本章のように納得のいく解が得られる、こともある。「利」の原義、何でもよく切れる刃物と解せば、刃物=能力を放って好き放題する、と解釈出来て分かりやすい。それは孔子塾での教育のありようを考えても納得のいく話だ。
血統を誇る既存の貴族層に割り込んで、孔子の弟子たちが出世していくためには、何よりも有能であることが条件だろう。しかしだからといって、貴族たちに自分の無能を思い知らせては、出る杭の例え通り、あらぬ罪を着せられ、場合によっては殺されてしまうかも知れない。
人間の集団とはそういうものだ。それは論語時代も変わらない。現に孔子は弟子の子張に官界での出世を問われて、「他人の間違いは見て見ぬふりをしなさい」と教えている(下記)。そうしないと弟子の身が危ないし、危ない塾には、新弟子が入ってこなくなる。
子張問入官於孔子,孔子曰:「安身取譽為難也。」子張曰:「安身取譽如何?」孔子曰:「有善勿專,教不能勿搢,已過勿發,失言勿踦,不善辭勿遂,行事勿留。君子入官,自行此六路者,則身安譽至,而政從矣。
子張が官吏として働く道を孔子に問うた。
孔子「身を安全に保ったまま、名誉を得るのが難しい。」
子張「その法を教えて下さい。」
孔子「自分に能があっても一人目立ちするな。教えてやっても出来ない者を追い払うな。済んでしまった過失をほじくり返すな。言い間違えても誤魔化すな。ろくでもない言葉には従うな。仕事を溜めるな。仕官してこの六箇条に心掛けるなら、安全に名誉を得られ、命令にもみんな従ってくれる。」(『大載礼記』子張問入官)
すぱっと切れる鋭い刃のようでありながら、人の恨みを買わぬようにおとなしくしていろとの教えは、論語憲問篇4でも説いている。孔子自身も官界で、出来るのをいい事にやり過ぎて、貴族からも庶民からも忌み嫌われた。失脚し亡命したのもそのためである。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語義疏』
子曰放於利而行註孔安國曰放依也每事依利而行之者也多怨註孔安國曰取怨之道也疏子曰至多怨 云放於利而行者放依也謂每事依財利而行者也云多怨者若依利而行者則為怨府故云多怨
本文。「子曰放於利而行」。
注釈。孔安国「放とは依りかかることだ。いつも利益に寄りかかり、欲タカリばかりしている者を言ったのである。」
本文。「多怨」。
注釈。孔安国「怨まれる道理だと言ったのである。」
付け足し。先生は恨みが重なる様を語って記した。「放於利而行」とあり、放とはそればかりすることだ。その心は、いつも金儲けばかり考えている、ということだ。「多怨」とは、もし欲タカリばかりしていると、恨みの吹きだまりになるということだ。だから「多怨」と言った。
新注『論語集注』
放,上聲。孔氏曰:「放,依也。多怨,謂多取怨。」○程子曰:「欲利於己,必害於人,故多怨。」
放は上がり調子に読む。
孔安国「放とはそればかりすることだ。多怨とは、沢山恨みを買うことを言う。」
程伊川「自分の得になることを企めば、必ず人を損させる。だから沢山恨みを買うわけだ。」
話を「利」の解釈に戻すと、戦国末の荀子も”利益”と捉えている。
「義」與「利」者,人之所兩有也。雖堯舜不能去民之欲利;然而能使其欲利不克其好義也。雖桀紂不能去民之好義;然而能使其好義不勝其欲利也。故義勝利者為治世,利克義者為亂世。上重義則義克利,上重利則利克義。故天子不言多少,諸侯不言利害,大夫不言得喪,士不通貨財。有國之君不息牛羊,錯質之臣不息雞豚,冢卿不脩幣,大夫不為場園,從士以上皆羞利而不與民爭業,樂分施而恥積藏;然故民不困財,貧窶者有所竄其手。
正義と利益は、人はどちらも持っている。堯舜のような聖王が世を治めても、民の利益追求は止められなかった。だから民には正義をすり込んで洗脳し、欲得を押さえさせるのが肝心だ。桀や紂のような暴君でも、民の正義の心は消さなかったではないか。だがこういう暴君の世では、民の正義の心が利益追求を押さえるには至らなかった。
だから正義が欲得に勝てば世は治まり、欲得が正義に勝てば世は乱れる。上に立つ者が正義を重んじれば、正義は欲得に勝ち、逆なら逆になる。だから天子は多い少ないと愚痴をこぼさず、諸侯は損失と儲けを言わず、上級貴族は取った取られたと言わず、士族は金儲けを行わない。
国主は牛や羊を売り飛ばさないし、祭祀を取り仕切るような家臣は鶏や豚を売り飛ばさない。家老格はぜにかねに手を出さないし、上級貴族は農園を経営しない。士分以上は利益追求を恥じて、民と競合しない。分け与えるのを楽しんでしわき蓄えを恥とする。だから民は貧困に苦しむことがないし、貧しい者は大っぴらに乞食はしない。(『荀子』大略61)
そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
こんなメルヘンを言っているから、荀子死去直後に秦帝国が成立すると、儒家は法家以外の他学派と十把一絡げにされ、役立たず扱いされた。荀子当人は斉国の宰相格だったから、このような高慢ちきが言えたのだが、孔子の現実主義と懸け離れること甚だしい。
余話
勉強嫌いはオカルトがお好き
その孔子の現実主義を語る論語の章がある。

諸君は貴族を目指すのであるから、迷信に惑わされてはならない。天命を占ったところで、信じるに足りる理由は何もない。他人を納得させるために占いの真似を見せはしても、自分が信じてどうする。(論語衛霊公篇37)
従って後世の易者や儒者が一生懸命こしらえた、「孔子は五十を過ぎてから易を熱心に学んだ」(論語述而篇16)という伝説は物証から偽作が確定しており、一生懸命勉強する例えとしての「韋編三絶 」”巻物のヒモが三度切れるほど(易を)読んだ”というのも『史記』の創作。
それが司馬遷の手によるのか、取材に来た司馬遷に一杯機嫌で出鱈目を語った魯の古老によるのかは明らかではないが、孔子が占いなど当てにしなかった事は確か。後世の朱子は一生懸命『易経』にもっともらしい解釈を付けたが、まるで当たらないことは中国人にも知れていた。
或見醫者。問以生意如何。荅曰。不要說起。都被算命先生悞了。嘱我有病人家莫走。
ある人がかかりつけ医に診て貰ったが、不機嫌そうだったので「先生どうなすったので」と問うた。
医者「あまり言いたくはないんだが、易者の奴に小バカにされた。患者の家には行くなだとさ。」(『笑府』巻四・怨算命)
「あんたじゃ診ても治せない」と言われたように読める。『笑府』には「怨」の用例があと二章あるが、論語の本章と関わる例として挙げた。上掲の話は巻四「方術部」”医者と易者”に入っており、明代のインテリにはどちらも同程度に当てにならないと思われていたことを示す。
ただし漢方や中医学は、現代でも例えば風邪やインフルエンザの治療でそれなりに人類に貢献しているが、易の方はどうだろうか。江戸時代の日本では、医者は士分として扱われたが、易者は町人扱いで、その日暮らしの長屋住まいだったことが史料からわかっている。

式亭三馬「浮世床」
この背景には江戸時代の漢文事情がある。日本にも平安の昔から医学書はあったが、系統立った医学大系は専ら漢籍に頼った。つまり漢文が読めねばならなかった。一方で易は日本でそれなりに流行したので、漢文の読めない者にも日本語で書かれたアンチョコが出回っていた。
だからせいぜい仮名が読めるに過ぎない江戸の町人でも、易者が務まったのである。現代でも医者になるには、生半可な勉強では免許が下りない。一方易者には日本語の『高島易断』があるし、元ネタの『易経』は、予言書のたぐいと同様で、どうとでも読めるように書いてある。
詳細は『周易』䷋否篇現代語訳を参照。
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