論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰三年無改於父之道可謂孝矣
*論語学而篇11後半と同じ。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰三年無改於父之道可謂孝矣
後漢熹平石経
子白三年無改於父之道可謂…
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「三年無改於父之道、可謂孝矣。」
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章は、「孝」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、三年父之道於改むる無くんば、孝と謂ひ矣可し。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「三年間父の道を改める事がないなら、やっと孝行と評価してもいい。」
意訳
「世の親御さん、よーく聞きなさい。死後三年まで子供に文句を言われないようでないと、子は孝行者になりませんぞ。」
従来訳
先師がいわれた。
「もし父の死後三年間その仕来りを変えなければ、その人は孝子といえるだろう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「三年內不改父親的規矩習慣,可算孝了。」
孔子が言った。「三年の間父親の掟や習慣を変えないなら、孝行と言ってよい。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。
三(サン)
(甲骨文)
論語の本章では”三たび”。初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。
年(デン)
(甲骨文)
論語の本章では”とし”。初出は甲骨文。「ネン」は呉音。甲骨文・金文の字形は「秂」で、「禾」”実った穀物”+それを背負う「人」。原義は年に一度の収穫のさま。甲骨文から”とし”の意に用いられた。詳細は論語語釈「年」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
改(カイ)
(甲骨文)
論語の本章では”あらためる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「巳」”へび”+「攴」”叩く”。蛇を叩くさまだが、甲骨文から”改める”の意だと解釈されており、なぜそのような語釈になったのか明らかでない。詳細は論語語釈「改」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…の”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
父(フ)
(甲骨文)
初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では「の」と読んで”~の”。初出は甲骨文。字形は”足を止めたところ”で、原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”やり方・きまり”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”してもよい”。積極的に認める意味ではない。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
謂(イ)
(金文)
論語の本章では”評価する”。同じ「言う」でも、”事・人を論じて判断を言う”こと。『大漢和辞典』の第一義は”あたる”。現行書体の初出は春秋の石鼓文。論語の時代の金文では、部品の「胃」と書き分けられていなかった。「胃」の初出は春秋早期の金文。詳細は論語語釈「謂」を参照。
孝(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”孝行者”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は年長者に対する、年少者の敬意や奉仕。ただしいわゆる”親孝行”の意が確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「孝」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は重複の論語学而篇11同様定州竹簡論語に無く、春秋戦国時代の誰も引用していない。再出は漢儒が周の礼法をでっち上げるために書いた『小載礼記』のみ。仮に偽作の場合、解釈は全く従来訳の通りだが、これだけで本章が後世の創作とは言いかねる。
『礼記』の記述は以下の通り。
子云:「君子弛其親之過,而敬其美。」《論語》曰:「三年無改於父之道,可謂孝矣。」《高宗》云:「三年其惟不言,言乃讙。」
(孔子)先生が言った。「君子は親の間違いを大目に見て、親の美点を敬うものだ」と。論語に曰く、「三年…」と。『書経』に殷の高宗の言葉として曰く、「三年間まったくものを言わず、ひとたび言い出せば耳を覆いたくなるほど厳しい言葉だった」と。(『小載礼記』坊記17)
訳者は論語以外のテキストデータを、「中国哲学書電子化計画」から取っているのだが、現伝の『書経』には高宗編が無く、上掲の「三年其惟不言,言乃讙。」は『書経』無逸篇2に「三年不言。其惟不言,言乃雍」として出てくるが、「讙」が「雍」になっている。
「雍」とは”おだやか”で、全然意味が違う。この書経の一節については、子張が孔子に意味を問うた話が論語憲問篇43にあるが、後世のでっち上げが確定している。また学而篇との重出関係だが、おそらく本章がオリジナル。学而篇の前半は論語の時代に無い「志」があるからだ。また学而篇は漢石経に欠き本章はあるが、これは傍証の傍証程度にしかなり得ない。
つまり本章は全て文字史的に論語の時代に遡り得る。本章をとりあえず史実として扱う。
解説
論語の本章から派生したのは論語学而篇11の他、論語陽貨篇21の「宰我問う三年」。陽貨篇の章は偽作だが、『史記』仲尼弟子列伝に引用があり、すくなくとも前漢武帝期までには存在した。論語の本章が学而篇と重複した理由については、古注を書いた儒者は何も言っていない。
古注『論語集解義疏』
註鄭玄曰孝子在喪哀戚思慕無所改其父之道非心之所忍為也
注。鄭玄、「孝行者は喪中の間悲しみが募って亡き親を慕いに慕い、その父の道を改める事がない。心が悲しくて改める事に我慢が出来ない状態なのだ。
新注を書いた朱子は、引用の形で、重複しているが理由は記さず、学而篇の「父在觀其志、父沒觀其行」が抜けていると言っているのみ。
新注『論語集注』
胡氏曰:「已見首篇,此蓋複出而逸其半也。」
胡寅「すでに学而篇に記してある。個人的感想では、重出ではあるが、学而篇にあった前半部分の”父在さば其の志を觀、父沒らば其の行を觀る”が抜けたのだ。」
孔子は父の顔も名前も知らずに育った。世界の古代文明圏の多くで、巫女が娼婦を兼ねていたことを考えると、孔子の母も同様で、客の一人の子が孔子と考えられる。従って孔子の父親観は理念的なもので、経験から引き出した話ではない。そしておそらく、快く思っていない。
自分の出自は成長するにつれ、うすうす覚っただろうし、大人たちから少しずつ聞いた話もあっただろう。従って孔子には後世捏造されたような、父親への一方的な隷属と奉仕を強要する考えはみじんもなかった。むしろ双務的と考え、父らしくないおやじに対しては子らしくなくていい。
斉の景公が政治を孔子に問うた。孔子が答えて言った。「君は君らしく、臣は臣らしく、父は父らしく、子は子らしくなさるよう。」景公が言った。「よろしい。まことに、君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなければ、私に税収の穀物があると言っても、落ち着いて食べていられるだろうか。」(論語顔淵篇11)
上掲の斉の景公に語った政治論は、裏を返すとそういうことだ。あるいは積極的に父を怨んだかも知れないが、誰だか分からないでは怨みようがない。母に対しては心から孝行を尽くしたろうが、母に関する思い出話は論語の中に、ただの一つも入っていない。
孔子は家族関係を、それほど強く思わなかったのではないか。確かに孝行を説きはしたが、それは読んだ文献から想像した家族像であり、説こうにも経験が乏しく話に迫力がなかった。儒教が孝行をうるさく言い出すのは孟子に始まると言ってよく、論語の段階では一段弱い。
『史記』では古代の聖王・舜を、夏-殷-周王朝より前の人物として取り上げ、並外れた孝行者として持ち上げるが、もとより舜などの聖王は創作された人物であり、孝行を強調することがかえって、実在の人物でないことを示している(論語語釈「舜」)。
その舜を創作したのが孔子より一世紀後の孟子で、その顧客だった斉王は王家を乗っ盗ってから日が浅かった。その先祖に居もしなかった舜を据えることで、孟子は顧客の家格に箔を付けたのである。つまりは商売の都合で作られた人物で、現代人が有り難がる理由は微塵もない。
また別伝では、親子君臣の双務的関係を、次のように説いている。
子貢問於孔子曰:「子從父命,孝乎;臣從君命,貞乎;奚疑焉?」孔子曰:「鄙哉賜!汝不識也。昔者明王萬乘之國,有爭臣七人,則主無過舉;千乘之國,有爭臣五人,則社稷不危也;百乘之家,有爭臣三人,則祿位不替;父有爭子,不陷無禮;士有爭友,不行不義。故子從父命,奚詎為孝?臣從君命,奚詎為貞?夫能審其所從、之謂孝、之謂貞矣。」
子貢「子が父の命に従うのは、まことに孝行です。 臣下が君主の命に従うのは、まことに忠義です。これに何の疑いがありましょう。」
孔子「どこの田舎者だ、お前は。それはナントカの一つ覚えというものだ。昔の聖王には七人のご意見番がいて、おかげで間違いをせずに済んだ。同様に、殿様の家には五人、家老の家には三人いて、やっとお家は安泰になる。父にも意見する子がいるから、ならず者にならずに済み、士族にも忠告してくれる友がいるから、悪事を働かないでいられる。
分かったか。父の言うことをハイハイと聞いただけで、孝行者になれるわけがないし、主君の言うことをヘイヘイと聞いているだけで、忠義者になれるわけがない。従うべきと逆らうべきの場合分け、これを自分で見分けられるのが、本当の孝行だし、忠義なのだ。」(『孔子家語』三恕9)
なお『孔子家語』を王粛の偽作と言い立てた清儒の説は、個人的思い込みから来たデタラメだったことが、定州漢墓竹簡の発掘以降明らかになっている。
余話
ノモスでなくて何だ
論語の本章が学而篇と重複していることぐらい、論語を読んだ儒者なら気付いただろう。そしておそらく重複の削除を思っただろうが、論語が一本化されていった漢代の儒学には、古いものは尊いという金看板があり、時には偽作してまで儒学の経典を増やしていった。
よく言えば儒学の発展期だが、実態はニセモノまでこしらえて、儒学の権威化にせっせと励んでいた。重複にももったいをつけて、何かしら重大な意義があると儒者たちは考えた。こうしてただの編集や偽作のずさんが重大な意義を持つことになり、儒学の硬直化につながった。
白川静『孔子伝』によると、孔子の教えは至ってイデア=理想主義的であり、ノモス=体制とは相容れない教説だった。その本来水と油の教えを、無理やり体制を維持する原理とする作業に漢代以降の儒者は取り組んで、論語の解釈にも無理なねじ曲げを行った、という。
この論語イデア説は、社会の底辺に生まれた孔子が、門閥の当主というノモスの権化に見出されて政界デビューした史実、自身や主要弟子が、魯国ノモスの頂点にあった季孫家や国公に仕えた史実を説明できない。博士の個人的感想に過ぎず、孔子や論語を理解する障害になる。
ノモスと相容れない教説を、ノモスに入りたいから入門した弟子が聞き入れるだろうか。そうした教説で育った弟子を、ノモスの側にいる貴族が雇っただろうか。ただ孔子の生前と帝政期で違うのは、一君万民思想と、その基礎構造である奴隷的孝行の政治的要請の有無だ。
春秋戦国の民は、君主が気に入らなければ外国に出た。孔子と同時代人、越の范蠡が斉国に亡命したこと、当の孔子が諸国を回って魯国宰相並みの給与を貰ったことは『史記』が記しているし、『孟子』では梁の恵王が善政を敷いているのに民が移住してこないとぼやいている。
論語の本章はおそらく史実だが、孔子は当たり前の互恵的親孝行を説いたに過ぎず、帝政儒教の説くような、隷属的親孝行説く動機が無いし、そのような社会背景も無い。天下を一家と見なし、皇帝をその家長として、這いつくばって拝む基礎としての親孝行など存在しなかった。
論語はどの章も、隷属を説いたと読めなくはないが、それは読者の願望の反映というものだ。
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