論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰人之過也各於其黨觀過斯知仁矣
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰民之過也各於其黨觀過斯知仁矣
後漢熹平石経
…過也各於其黨□□斯知仁矣
- 「過」字、〔辶〕→〔辶〕。
- 「其」字、「斯」字、〔其〕上部中心に〔丨〕一画あり。
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「民之過也、各於其黨。觀過、斯知仁矣。」
復元白文(論語時代での表記)
黨
※仁→甲骨文。論語の本章は、「黨」が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、民の過也、其の黨於各ぶ。過を觀れば、斯は仁を知らせ矣。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「民の犯罪こそはまさしく、その隣近所まで連座することになる。罪をじっと観察した結果、(観察の)過程が情け深さを知らせることにきっとなる。」
意訳
民の罪は、その近所の者まで追求して審理する。すると罪のなすりあいをする者が必ず出るから、そういう場面を観察することで、人情や薄情とは何かを思い知ることになるのだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「人がら次第で過失にも種類がある。だから、過失を見ただけでも、その人の仁不仁がわかるものだ。」下村湖人『現代訳論語』
※この解釈は、朱子の新注「黨,類也」に従ったもの。
現代中国での解釈例
孔子說:「人的過錯,各不相同。觀察過錯,就能瞭解人的精神境界。」
孔子が言った。「人の間違いは、互いに似ていない。その間違いを観察すると、人の精神世界がすぐに明瞭に分かる。」
※この解釈も、朱子の新注に従ったもの。
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
人(ジン)→民(ビン)
唐石経では「人」と記す。清家本では「民」と記す。清家本は年代は唐石経より新しいが、唐石経より前の古注系論語の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。唐石経が「人」に改めたのは、太宗李世民のいみ名を避諱したため。従って「民」に校訂した。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(甲骨文)
論語の本章では”世間の人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
(甲骨文)
「民」は、論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
唐帝国で、歴代皇帝の名に使われたとして避諱された文字については、辻正博「唐代寫本における避諱と則天文字の使用」を参照。
つまり本章は、為政者としての孔子が、上から目線で民の犯罪を論じ、仁をからめた話だと分かる。ここから、「人」→”人柄”と解する上掲の従来訳は間違いだと分かる。漢学の面白さの一つは、このように時折、発破一発ズドンで、常識がガラガラと崩れ落ちるところにある。
ただし下村先生の学識と善良は疑えない。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
過(カ)
(金文)
論語の本章では”あやまち”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで主格の強調。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
各(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”およぶ”。初出は甲骨文。字形は「夊」”あし”+「𠙵」”くち”で、人がやってくるさま。原義は”来る”。甲骨文・金文では原義に用いた。”~に行く”・”おのおの”の意も西周の金文で確認できる。詳細は論語語釈「各」を参照。
以下は余談だが、「各」の上古音をklɑkとするのはカールグレンに限られ、藤堂博士を始め他説ではおおむねkakだとする。藤堂説では中世までkakだったとし、近世にko、現代になってkə(əはシュワーと読み、アとエの中間音)になったとする。
さらに全くの蛇足だが、ロシア語の基本単語にкакがあり、英語のhowに当たる疑問辞だが、加えて日本語の「かく語りき」の「かく」=”このように”と、よく似た語義を持つ。белый как снег.”雪のように白い”など。言語にはこういう偶然の一致があるものだ。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
黨(トウ)
(戦国末期金文)
論語の本章では、”隣近所”。新字体は「党」。初出は戦国末期の金文。出土品は論語の時代に存在しないが、歴史書『国語』に春秋末期の用例があるため、本章は史実である可能性がある。『大漢和辞典』の第一義は”むら・さと”。第二義が”ともがら”。戦国の金文では地名に用い、”党派”の語義は前漢まで時代が下る。詳細は論語語釈「党」を参照。
觀(カン)
(甲骨文)
論語の本章では”観察する”。新字体は「観」。『大漢和辞典』の第一義は”みる”、以下”しめす・あらはす…”と続く。初出は甲骨文だが、部品の「雚」の字形。字形はフクロウの象形で、つの形はフクロウの目尻から伸びた羽根、「口」はフクロウの目。原義はフクロウの大きな目のように、”じっと見る”こと。詳細は論語語釈「観」を参照。
斯(シ)
(金文)
論語の本章では”そういう過程”。犯罪捜査の過程で、連座すべき一族や隣近所にまで審理する、そういう一連の観察過程の意。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知らせる”。漢語は表意文字を使う→使える文字種が限られるという制限から、同じ漢語=漢字の品詞は一定せず、動詞の場合も自動詞と他動詞を兼任させる。
現行書体の初出は秦系戦国文字。孔子在世当時の金文では「知」・「智」は区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は明瞭でない。ただし春秋時代までには、すでに”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”慈悲深さ”。上記「黨」の論語の時代での不在から、後世の創作とすると、通説通り「仁義」の意で解すべき。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
孔子の生前、「仁」は単に”貴族(らしさ)を意味したが、孔子没後一世紀後に現れた孟子は「仁義」を発明し、それ以降は「仁」→「仁義」となった。詳細は論語における「仁」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
觀過、斯知仁矣
「過」を「觀」察するのは、本章を説教している孔子を代表とする為政者で、「斯」=その観察の過程が、「仁」とは何かを「矣」”必ず”「知」らせる、の意。
漢文は甲骨文の昔より、筆記材料に費用がかかるという制約から、極端まで文字数を切り詰めて書くよう進化した。従って省ける主語は省き、主語が変わっても記さない場合がある。本章もその例で、「民之過」という主部が「觀」以降の下の句では「君子」などに入れ替わっているのだが、その変更を明記しない。
「過」を「觀」察する立場に在る人間は、検断する為政者にほかならず、本章の書き手も読み手もその階層だから、暗黙のうちに主語が入れ替わったと解せただろう。
論語:付記
検証
論語の本章の前半、「民(人)之過也、各於其黨。」は、先秦両漢の誰一人引用も再録もしていない。事実上の再出は、後漢末の漢石経になる。後半の「觀過,斯知仁矣。」は、後漢の王充が『論衡』に再録している。
且忠者、厚也,厚人、仁矣。孔子曰:「觀過,斯知仁矣。」子文有仁之實矣。孔子謂忠非仁,是謂父母非二親,配疋非夫婦也。
(論語公冶長篇18で、孔子は楚の宰相子文を仁者ではないと言った。それは間違っている。)その上、忠とは人への厚意だ。厚意のある人を、仁のある人という。孔子は言った。「罪を観察すれば、そこで情けとは何かを思い知る」と。子文には情け深さの実践例がある。孔子は忠と仁は違うと言った。それは父母と両親を、配偶と夫婦を別物だと言い張るようなものだ。(『論衡』問孔27)
「黨」の物証はどうやっても論語の時代まで遡れないが、孔子と同時代人の伍子胥の発言として史書の『国語』にあり、本章は史実である可能性がある。その場合の解釈は次の通り。
民の罪は、その近所の者まで追求して審理する。その過程で(我々君子は)、貴族にふさわしい裁判が出来るかどうかが問われるのだ。
解説
論語を読むに当たって気を付けなければならないのは、まず中国人というのがきわめて実利主義の人たちであって、ドイツ思想のような空理空論をもてあそぶ癖が少ないことにある。その代わり論理的思考は極めていい加減であり、とりわけ物事の分類を苦手とする。
そのくせ分類好きで、試しに厚めの漢和辞典を開いてみるといい。「うま」と読む字が一体いくつあるか。中国語は原則として漢字が異なれば意味が違うから、それぞれの「うま」は別物を意味しているが、ではその分類を数式やプログラムの宣言としてやってみようとすると。
必ず失敗する。中国思想を専攻する若者が挫折する原因はおおかたこれであり、中国人は違う名前を付けておきながら、実際の生活では「似たような者はどれも同じ」と考える。だからこそニセモノが悪いという発想がない。利益さえあれば円い鍵穴に平気で角材を押し込むのだ。
このおかしさに孔子が気付いて「名を正す」(論語子路篇3)と言ったのだが、付き合いの古い子路ですら、その意味が分からない。同様に各自の好みは違っても、つるむことで利があるならいくらでもつるむ。しかし一旦いさかいが起これば、というのが論語の本章の意味。
なお既存の論語本では、吉川本にこうある。
朱子の新注によって読みたい。…朱子の注が具体的に説くのによれば、君子は人情に厚いためにあやまちをおかし、小人は人情に薄いためにあやまちをおかす。君子は愛のためにあやまちをおかし、小人は残忍のためにあやまちをおかす。だからその人の過失の種類を見れば、その道徳の程度なり方向がわかる。…斯の字は、則の字の意味に読むべきである。
朱子の言う君子・小人とは、自分の教義に従う者とそうでない者を言うから、ずいぶんとすごい解釈だ。しかし吉川本には続けてもっとすごいことが書いてある。
後漢書の呉祐伝でも、父の着物を買うために余分な税を取り立てた役人のことを弁護して、それは孝心から出たあやまち、いわゆる過ちを観れば斯ち仁を知るものである、といっている。
史料を確認してみよう。
〔呉祐という情け深い知事がいた。民や下級役人はよく懐いた。〕下級役人の孫性が、勝手に民の銭を巻き上げ、市場で売っていた上着を奪ってその父に差し出した。父はそれを手にすると、怒って言った。
「ありがたい知事様がいるというのに、どうしてだませようか。」息子を促がして自首させた。孫性は恥ずかしいやら恐ろしいやらで、その上着を持って役所に出向き、自首した。知事の呉祐が人払いしてから理由を問うと、孫性は父の言葉をありのままに伝えた。
呉祐「お前は父のために、汚名を着たのだな。論語にある、『過ちを観て斯に人を知る矣』とはこのことだ。」孫性を罰さず帰らせて、その父親に感謝の言葉を伝えさせ、くだんの上着はそのまま持たせてやった。(『後漢書』吳延史盧趙列傳)
これが後漢時代の「善政」。銭や上着を奪い取られた庶民はどうなるのだろう? 孝行という、帝政中国での最高道徳も、知事の自己宣伝や行政の言い逃れのためなら、こんな解釈がまかり通る。後漢社会の偽善性が、どこまでも染み込んでいることが分かるだろう。
後漢は開祖の光武帝が、とびきりの偽善者でオカルト信者だったから、下これにならうでこうなった。そして行政はガタガタになり、政府は派閥抗争の場と化し、そして滅亡に至った。詳細は論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。
論語の本章、新古の注は以下の通り。
古注『論語集解義疏』
註孔安國曰黨黨類也小人不能為君子之行非小人之過也當恕而無責之觀過使賢愚各當其所則為仁也疏子曰至仁矣云民之過也各於其黨者過猶失也黨黨類也人之有失各有黨類小人不能為君子之行則非小人之失也猶如耕夫不能耕乃是其失若不能書則非耕夫之失也若責之當就其輩類責之也云觀過斯知仁夫者若觀人之過能隨類而責不求備一人則知此觀過之人有仁心人也若非類而責是不仁人故云觀過斯知仁矣註孔安國曰至仁也殷仲堪解少異於此殷曰言人之過失各由於性類之不同直者以改邪為義失在於寡恕仁者以惻隱為誠過在於容非是以與仁同過其仁可知觀遇之義將在於斯者
注釈。孔安国「党とは社会階級のことである。階級の低いくだらない人間は君子のように行動できないので、そういう連中が罪を犯すのは仕方が無いことである。だから許してやって、責めてはいけない。どういう犯罪を犯したかを見れば、その人間が利口かバカかがはっきり分かる。それにふさわしい場を与える。こういう慈悲を仁という。」
付け足し。先生は仁義の至りを言った。「民…党」とあり、「過」とは”間違う”というような意味である。「党」とは”種類”のことである。人が間違いをすると、その間違いを分類できるというのである。つまらない人間は君子の行動が出来ないので、間違いを起こすのは責めることが出来ない。農夫が畑仕事が出来ないというならそれは農夫の責任だが、文字が書けないことを責めることは出来ないのと同じである。もし責めるなら、必ずその親族に責任を求めるべきだ。「観…矣」とは、もし人の過失を観察するなら、親族にもその責任を問うべきで、一人の人間に何でも出来ることを求めてはならないと言う道理である。そうするなら、人の過失を観察する者は、仁の情けをわきまえていることになる。もし親族に責任を問わず個人だけ責めるなら、それは情けの無い者のすることである。だから”間違いを観察すれば仁の情けを知ることになる”という。
孔安国「これが仁の情けの極致である。」
殷仲堪の解釈は少し異なっている。いわく「人の過失はそれぞれその性格によって違っている、ということである。正直者はその性格で自分の邪悪を矯正して正義になるが、人を思いやれない結果にもなる。仁者は憐れみの心で誠実を尽くすが、世の悪を見逃す結果にもなる。だから無さか深いゆえに過ちを犯す者は、その情け深さを知る乎とが出来る。過失を観察する、とは、まさにこういうことを言うのである。」
新注『論語集注』
黨類也程子曰人之過也各於其類君子常失於厚小人常失於薄君子過於愛小人過於忍尹氏曰於此觀之則人之仁不仁可知矣吳氏曰後漢吳祐謂掾以親故受汙辱之名所謂觀過知仁是也愚按此亦但言人雖有過猶可即此而知其厚薄非謂必俟其有過而後賢否可知也
「党」とは、”種類”のことである。
程頤「人の過失には、その人なりの種類がある。君子は情け深いから間違いをし、つまらない人間は薄情だから間違いをする。君子は愛情から間違いをし、つまらない人間は残忍だから間違いをする。」
尹焞「このように観察すれば、人の仁の情けのあるなしが分かる。」
呉棫「『後漢書』呉祐伝に、お前は父のために、汚名を着たのだな、とある。これがいわゆる、過失を観察してその者の情けを知る、ということだ。」
愚か者の私(朱子)が思うには、人が間違いを犯したとしても、その間違いを観察することで、情けの有り無しを分かるということだ。人が間違いを起こすまでは、その人の本当の賢愚は分からない。
余話
何晏は孔安国の皮を被ったか
上掲古注の通り、前漢儒とされる孔安国は「黨」(党)を”社会的階級”と解釈し、身分の低い者は高尚な行動を取れないのだから、罪を犯しても許してやれ、それが仁政というものだ、と解している。これは漢代の漢語で解するからそうなるので、さらにそもそも孔安国の実在は疑わしい。
それは史書に孔安国のまともな伝記が見つからないのが理由の一つ。
孔子生鯉…安國爲今皇帝博士、至臨淮太守、蚤卒。安國生卬、卬生驩。
孔子は息子の鯉をもうけ…孔安国は今上陛下(=武帝)の博士になった。それで臨淮の知事にまで出世したとたん、死んでしまった。孔安国は息子の卬をもうけ、卬は驩をもうけた。(『史記』孔子世家)
「孔卬」も「孔驩」も先秦両漢の文献に見えない。
申公者,魯人也。…弟子為博士者十餘人:孔安國至臨淮太守。
申公は魯の人である。…弟子で博士になった者が十余人もいた。そのうち孔安国は臨淮の知事にまで出世した。(『史記』儒林伝)
伏生者,濟南人也。故為秦博士。…受業孔安國。…伏生孫以治尚書徵,不能明也。自此之後,魯周霸、孔安國,雒陽賈嘉,頗能言尚書事。孔氏有古文尚書,而安國以今文讀之,因以起其家。
…伏生は済南の人である。もとは秦の博士だった。…孔安国に教えを授けた。…伏生の孫の伏以は『尚書』に記されたことを解釈しようとしたが、何が書いてあるか分からなかった。これ以降では、魯の人周霸と孔安国、洛陽の賈嘉が、『尚書』について盛んに議論できた。孔家には古文で書かれた『尚書』が伝承され、孔安国が現在の隷書で解釈し、これがきっかけになって有名になった。(『史記』儒林伝)
もう一つ実在が疑わしい理由は、孔安国が高祖劉邦の名を避諱せず、「邦」の字を平気で使っているからだ。詳細は論語郷党篇17語釈を参照して頂きたいが、訳者は孔安国を、古注を編んだ何晏が前漢儒の総体として創作したとにらんでいる。つまり孔安国の中の人は、何晏というわけだ。
ただしにらんだだけで断定できないのは、次のような異説があるからだ。
漢人作文不避國諱威宗諱志順帝諱保石經皆臨文不易樊毅碑命守斯邦劉熊碑來臻我邦之類未嘗爲高帝諱也此碑邦君爲兩君之好何必去父母之邦尚書安定厥邦皆書邦作國疑漢儒所傳如此非獨遠避此諱也
漢代の人は文を書くのに、皇帝のいみ名を避けなかった。威宗(後漢11代桓帝)のいみ名は「志」で、順帝(後漢8代敬宗)のいみ名は「保」である。しかし漢石経は元通りに書いて別字に書き改めていない。
ほかにも「樊毅碑」(後漢末光和年間刻)の「命守斯邦」、「劉熊碑」(後漢)の「來臻我邦」のたぐいがそうであり、まだ高祖劉邦のいみ名を避けて書くようなことはしなかった。
対してこの漢石経は、「邦君爲兩君之好」(論語八佾篇22)、「何必去父母之邦」(論語微子篇2)、また『尚書』の「安定厥邦」では、みな「邦」の字を「國」の字に書き換えている。
おそらく漢儒が伝承した文字列はこの通りであり、「邦」の字だけでなく他の皇帝のいみ名も避けて、書かないようにしていたのだろう。(適園叢書本『漢石經考異補正』道光五年(1825)・論語の部)
つまり漢石経が刻まれた後漢末期、儒者の常識では高祖劉邦以外の皇帝のいみ名もちゃんと避けていたのだが、漢石経はなぜか高祖以外は避諱しなかったのだという。なぜなんだか理由を書いてくれないと分けが分からないが、真相は古代の闇に包まれて、もはや誰にも分からない。
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