(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
柳下惠爲士師、三黜。人曰、「子未可以去乎。」曰、「直道而事人、焉往而不三黜。枉道而事人、何必去父母之邦*。」
校訂
武内本
漢石経邦を國に作る。
※漢高祖劉邦の避諱。
後漢熹平石経
…去乎…枉道而事人何去父母之國
定州竹簡論語
(なし)
復元白文(論語時代での表記)
黜 黜
※焉→安・枉→黄。論語の本章は「黜」の字が論語の時代に存在しない。「可以」は戦国中期にならないと確認できない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
柳下惠士師と爲り、三たび黜けらる。人曰く、子未だ去るを以ゐる可からざる乎。曰く、道を直くし而人に事へば、焉くにか往き而三たび黜けられざる。道を枉げ而人に事へば、何ぞ必ずしも父母之邦を去らむ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
柳下恵が役人のお目付役になり、三度免職された。ある人が言った。「あなたはまだ去ることが出来ないでいるのですか。」柳下恵が言った。「筋を通して人に仕えるなら、どこに三度免職にならない場所があるだろうか。筋を曲げて人に仕えるなら、どうして必ず父母の国を去るだろうか。」
意訳
いにしえの名家老・柳下恵は、真っ直ぐで知られた人物だったので役人の目付になった。しかし三度任じられてそのたびクビになった。不正を摘発したからである。だが当人は涼しい顔。
ある人「こんな腐った国、出て行ったらどうです?」
柳下恵「まじめに職に励んだら、どこへ行ってもクビになるに決まっている。出て行った所で同じだよ。それに適当にごまかしておけば、わざわざ生まれ育った国を出る必要は無いしね。」
従来訳
柳下恵が法官となつて三たびその職を免ぜられた。ある人が彼にいった。――
「どうしてこんな国にぐずぐずしておいでです。さっさとお去りになったらいいでしょうのに。」
柳下恵がこたえた。――
「どこの国に行ったところで、正道をふんでご奉公をしようとすれば、三度ぐらいの免職は覚悟しなければなりますまい。免職がおそろしさに正道をまげてご奉公するぐらいなら、何も父母の国をすてて、わざわざ他国に行く必要もなかろうではありませんか。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
柳下惠當司法部長,三次被罷免。有人問:「你不可以離開嗎?」他說:「堅持正直輔佐別人,到哪裏不是要屢次被罷免?如果用歪門邪道輔佐別人,何必要離開自己的國家?」
柳下恵が司法大臣に任じられ、三度罷免された。ある人が問うた。「君は離れるわけにいかなかったのか。」彼が言った。「正直を貫いて他人を補佐すれば、どこに何度も罷免されない場所がある? もし法を曲げてよこしまに他人を補佐するなら、なぜ自分の国を離れる必要がある?」
論語:語釈
柳下惠(恵)(リュウカケイ)
(金文)
論語の本章では、魯の貴族。BC720-BC621。姓は姫(つまり魯公の一族であり、周王の血縁でもある)、氏は展、いみ名は獲、あざ名は禽、または季。孔子が生まれる70年前に世を去った。先祖は魯の孝公。「柳下」の名乗りは、彼の領地から。
死後、生前の功績をたたえて「惠」とおくり名された。柳下季とも呼ばれる。カタブツの裁判官とされ、年頃の娘を一晩抱いても誰も怪しまなかったという伝説がある。
魯人有獨處室者,鄰之釐婦亦獨處一室。夜,暴風雨至,釐婦室壞,趨而託焉,魯人閉戶而不納。釐婦自牖與之言:「子何不仁而不納我乎?」魯人曰:「吾聞男女*不六十不閒居。今子幼,吾亦幼,是以不敢納爾也。」婦人曰:「子何不如柳下惠然?嫗不逮門之女,國人不稱其亂。」魯人曰:「柳下惠則可,吾固不可。吾將以吾之不可、學柳下惠之可。」
魯に台風が来て、あるやもめの家が吹き飛んだ。女は隣家の独身男に「入れて下さい」と頼んだが、「あんたを入れたら国中から助平扱いされる」と断られた。
女「柳下恵さまは、一晩じゅう、年頃の娘を抱いて温めましたが、誰も怪しまなかったでしょう?」
男「俺は柳下恵さまじゃない。疑われるに決まっている。」(『孔子家語』好生6)。
職を辞した後は隠遁したという。孔子が論語衛霊公篇14で讃えたほか、孟子も「聖之和者」と讃えた。
「聖之和者」の解釈はさまざまありうるが、「和」は鋭くなく和み溶け込むことで、「聖」=有能ではあったがとげとげしくはない人物だったと想像できる。『荘子』の寓話では、当時の大盗賊・盜跖は、柳下恵の弟と言うことになっている。
士師
(金文)
論語の本章では、司法官の一種と伝統的に解する。ただし『春秋左氏伝』には全く見られず、『史記』にも春秋時代の職としての記載がない。説話集としての色合いが強い『列子』では、民事訴訟を裁く官職として現れる。文献として最も早いのは、おそらく『孟子』と思われる。
孟子謂齊宣王曰:「王之臣有託其妻子於其友,而之楚遊者。比其反也,則凍餒其妻子,則如之何?」王曰:「棄之。」 曰:「士師不能治士,則如之何?」王曰:「已之。」曰:「四境之內不治,則如之何?」王顧左右而言他。(『孟子』梁恵王下篇)
孟子が斉の宣王に言った。「王様の家臣が妻子を友人に預け、遠い楚国へ使いに出たとします。帰ってみたら妻子は飢えと凍えで死にかけていました。預かった家臣をどうなさいますか?」
宣王「クビじゃな。」
孟子「士師でありながら管轄下の役人を躾けることが出来ない者がいるとします。どうなさいますか?」
宣王「それもクビじゃな。」
孟子「国内が治まらず不穏な状況になりました。どうなさいます?」
宣王「うむむ、それはじゃな、うむむ。」
王は左右の家来を見回して、口をもぐもぐさせた。
つまり王様だろうと無能はクビですぞ、と孟子が脅した話だが、伝統的にはここでの「士師」を司法官と解し、色々と現代語訳を工夫する。しかし素直に読む限りは官吏の管理職であり、司法官とは一言も書かれていない。指導者であり上級判事でもあるということだろう。
なお旧約聖書に言う士師は、英語では Judge(判事)と言うらしい。wikipediaによれば訳語として士師を当てたのは中国語版聖書に始まるという。ただし聖書の士師はただの判事ではなく、イスラエルの指導者をも意味すると聞く。すると『孟子』の用例が妥当ではなかろうか。
黜(チュツ)
(古文)
論語の本章では”免職される”。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。
『学研漢和大字典』によると形声文字で、「黒+(音符)出」。並んだ人・物の中の特定のものを外または、下に押し出す。ひっこめて見えなくすること。徹(つき抜ける、その場からとりはらう)・退(ひっこむ)・出(おしだす)・突(つき出す)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「黜」を参照。
可以(カイ)
論語の本章では”~できる”。現代中国語でも同義で使われる助動詞「可以」。ただし出土史料は戦国中期以降の簡帛書(木や竹の簡、絹に記された文書)に限られ、論語の時代以前からは出土例が無い。春秋時代の漢語は一字一語が原則で、「可以」が存在した可能性は低い。ただし、「もって~すべし」と一字ごとに訓読すれば、一応春秋時代の漢語として通る。
「可」(甲骨文)
「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
「以」(甲骨文)
「以」の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では疑問辞として”どこ”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「安」。
完了・断定の文末助辞として現れることがほとんどの言葉だが、文頭では「安」とともに、音を借りた当て字として疑問辞に用いられる、と説明される。句末では、安の字が「然を意味する」と『大漢和辞典』にあるのを拡大解釈して”…であるようす”などと訳す。詳細は論語語釈「焉」を参照。
ただし「アン・エン」の音を持つ、もとの疑問辞は何かと問えばはっきりしない。
つまり漢字は全ての口語を表すほど数が揃っていなかったことの反映だが、場所を問うような基本的なことばに文字が当てられなかった理由ははっきりしない。
枉(オウ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”曲げる・悪用する”。この文字は論語以前の甲骨文・金文には見られず、楚系戦国文字から確認できる。論語時代の置換候補は「黄」。『学研漢和大字典』によると形声文字で、「木+(音符)王」。詳細は論語語釈「枉」を参照。
論語:付記
論語の本章には、孔子もその弟子も全く出てこない。この事情について従来訳の注はこうまとめる。
本章には孔子の評語がないが、これには、評語が落ちたのだろうという説と、柳下恵のいうことが義理明白で評語の必要がなかつたのだろうという説と、両説がある。
武内義雄『論語之研究』では、本章の史実性について疑義を挟んでいないが、上記の検証通り、論語の本章は戦国時代以降の儒者による創作である。論語微子篇は道家的思想が強いとされているが、柳下恵の態度が隠者的なので、膨らましのために入れられた話と想像する。
とするなら、柳下恵カタブツ伝説は、ただの昔話に過ぎないことになる。
それより本章で注目すべきは、漢帝国では決して使われぬはずの「邦」の字で、上記の通り漢の高祖劉邦のいみ名(本名)だから、漢帝国治下でこう書いたら首を刎ねられる重罪だった。それが堂々と書かれていることは、本章が後漢滅亡後に書き換えられたことを証す。
- 漢石経「母之國」
- 現伝論語「母之邦」
定州竹簡論語に無くとも、漢石経に本章があるからには、本章そのものは後漢末には成立していただろうが、後漢滅亡後、一体何を根拠に「國」を「邦」に書き戻したのだろう?論語の本章に関する、現存する最古の版本は断片的な漢石経であり、後漢末期より以前には遡れない。
漢帝国成立以前に本章があったなら、そこに「母之邦」と書かれていた可能性があり、もし現伝論語がまじめに書き戻されたなら、後漢滅亡後にもその古本が残っていたはずなのだが。だがいわゆる魯論語や斉論語や古論語すら、一冊残らず焼いてしまった中国人である。
いったいどこに漢より前の記録を残していたのか? そんな可能性は極めて低いだろう。それより後漢滅亡後、既存の経典類はいじくって「國→邦」に書き換え、そうでないのはでっち上げるキャンペーンがあったのだろう。なお唐石経では、「邦」と記されている。
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