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論語詳解083里仁篇第四(17)賢を見ては*

論語里仁篇(17)要約:賢者を見たら真似をしろ。愚か者を見たら真似するな。いかめしく見える論語も、実はこうした単純な真理が多くを占めます。多様な弟子を教えたからには、孔子先生はよく分かる簡単な教え方もしたのでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰見賢思齊焉見不賢而内自省也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰見賢思齊焉/見不賢者而内自省也

※「者」字:京大本、宮内庁本も同。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「見賢、思齊焉。見不賢者、而內自省也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 見 金文賢 金文 思 金文斉 金文 見 金文不 金文賢 金文者 諸 金文 而 金文內 内 金文自 金文省 金文也 金文

※論語の本章は、「焉」の字が論語の時代に存在しない。ただし「焉」無しでも文意は変わらない。

書き下し

いはく、さかしきをたらば、ひとしからむとおもなんさかしからものたらば、うちみづかかへりみよ

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が言った。「賢者を見たら、同じようでありたいときっと思うだろう。だが不賢者を見て、自分に同じ所がないか反省するのだ。」

意訳

孔子 微笑み
すごい人を見たら真似をしたくなるだろ。だがそうそうすごい人はいないから、まず愚か者を見て自省するのだ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「賢者を見たら、自分もそうありたいと思うがいいし、不賢者を見たら、自分はどうだろうかと内省するがいい。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「見到賢人,要向他看齊;見到不賢,要反省自己。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「賢者に出会ったら、見習え。愚者に出会ったら、自己を反省せよ。」

論語:語釈


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

見(ケン)

見 甲骨文 見 字解
(甲骨文)

論語の本章では”見る”→”会う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”、”…される”の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。

賢(ケン)

賢 金文 賢 字解
(金文)

論語の本章では名詞として”賢者”。初出は西周早期の金文。字形は「臣」+「又」+「貝」で、「臣」は弓で的の中心を射貫いたさま、「又」は弓弦を引く右手、「貝」は射礼の優勝者に与えられる褒美。原義は”(弓に)優れる”。詳細は論語語釈「賢」を参照。

思(シ/サイ)

思 金文 思 字解
(金文)

論語の本章では、”思う”。初出は春秋末期の金文。画数が少なく基本的な動作を表す字だが、意外にも甲骨文には見えない。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「シ」で”思う”を、「サイ」で”あご”を意味する。字形は「」”人間の頭”+「心」で、原義は頭で思うこと。金文では人名、戦国の竹簡では”派遣する”の用例がある。詳細は論語語釈「思」を参照。

齊(セイ)

斉 金文 斉 字解
(甲骨文)

論語の本章では”同列に並ぶ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「斉」。「サイ」は慣用音。甲骨文の字形には、◇が横一線にならぶものがある。字形の由来は不明だが、一説に穀粒の姿とする。甲骨文では地名に用いられ、金文では加えて人名・国名に用いられた。詳細は論語語釈「斉」を参照。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「なん」「たり」と読んで、”…てしまう”を意味する断定のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

者(シャ)

論語の本章は現存最古の論語本である定州竹簡論語・後漢末期の熹平石経に全文を欠き、唐石経は「者」を記さない。清家本は記す。清家本は年代的には唐石経より新しいが、より古い文字列を伝承している。従って清家本は唐石経を訂正しうる。ゆえに清家本に従い、「者」があるものとして校訂した。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”~である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”~かつ~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

內(ダイ/ドウ)

内 甲骨文 内 字解
(甲骨文)

新字体は「内」。ただし唐石経・清家本とも「内」と新字体で記す。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ダイ」で”うちがわ”、「ドウ」で”入れる”を意味する。「ナイ/ノウ」は呉音(遣隋使より前に日本に入った音)。初出は甲骨文。字形は「ケイ」”広間”+「人」で、広間に人がいるさま。原義は”なか”。春秋までの金文では”内側”、”上納する”、国名「ゼイ」を、戦国の金文では”入る”を意味した。詳細は論語語釈「内」を参照。

自(シ)

自 甲骨文 吾
(甲骨文)

論語の本章では”自分で”。初出は甲骨文。「ジ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。原義は人間の”鼻”。春秋時代までに、”鼻”・”みずから”・”~から”・”~により”の意があった。戦国の竹簡では、「自然」の「自」に用いられるようになった。詳細は論語語釈「自」を参照。

省(セイ)

省 甲骨文 省 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”振り返って詳しく検討する”。初出は甲骨文。「ショウ」は呉音。原義は「」”ささげる”+「目」で、まじめな気持でじっと見つめること。詳細は論語語釈「省」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで詠歎の意に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

見賢思齊焉、見不賢者而內自省也

従来の読み下しと解釈は上記の通り。ただし句読を切り改めると、下記のようになる。

見賢思斉。焉見不賢者而内自省也。
賢しきを見て斉しからんことを思え。焉(いずく)んぞ賢しから不る者を見て內に自ら省みん也。
(賢者を見てああなろうと思え。どうして愚か者を見て自省するのか。)

しかし、世にめったにいない賢者を見習うより、どこにでもいる愚か者を見て反面教師にした方が、有効だろうと思う。従ってこの読みは採用しなかった。本章は論語述而篇21とほとんど同じなので、お暇ならそちらも参照されたい。

見不賢者、而內自省也

論語の本章では、”賢くない人を見て反省材料にせよ”。

句末の「也」は”~しなさいよ”。つまり賢者はめったにいないから、見習おうにも機会がない。だからその代わりに、どこにでもいる馬鹿者を見て(見…者)、自分の内側を自省しなさいよ(也)ということ。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、論語述而篇21同工異曲。「焉」の春秋時代に於ける不在にかかわらず、史実の孔子の発言である余地を残している点も同じ。「焉」の語義が断定にせよ疑問にせよ、無くても文意が変わらないからだ。

ただし論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用せず、定州竹簡論語にも無い。破壊された定州竹簡論語に無いことを理由に本章の史実でないことを主張は出来ないが、再出は定州竹簡論語とほぼ同時期の、前漢劉向による『説苑』になる。

昔者南瑕子過程太子,太子為烹鯢魚。南瑕子曰:「吾聞君子不食鯢魚。」程太子曰:「乃君子否?子何事焉?」南瑕子曰:「吾聞君子上比所以廣德也,下比所以狹行也,於惡自退之原也。《詩》云:『高山仰止,景行行止。』吾豈敢自以為君子哉?志向之而已。孔子曰:『見賢思齊焉,見不賢而內自省。』


春秋のむかし衛の貴族南瑕子(簡子瑕)が、程太子の居室を通りがかると、太子はサンショウウオを煮込んで食おうとしていた。

南瑕子「太子さまともあろうお方が。ご身分にさわります。おやめ下さいそんな以下物。」
程太子「いかんかね? じゃどうしとろ言うんだい?」

南瑕子「君子は行儀をよくして技能を高めるものです。イカモノ食いなど行儀の悪いことをして、技能を高めようとしないから、品が無くなりタワケ者に成り下がるのです。

古詩に言うではありませんか。”高い山は仰げ。高潔はやれ”と。そうしないで、どうして”自分は君子だ”などと言えますか。志が高いから、”俺は君子だぞ”と言えるのです。孔子先生も言いました。”賢者を見たら…”と。」(『説苑』雑言23)

論語 春秋諸国と諸子百家
程太子は孔子と同時代、衛霊公の太子・公子程の可能性があり、南瑕子はその孫だから、これはラノベに違いない。ちなみにBC221年、始皇帝が他の中華諸国を攻め潰して天下統一したことになっているが、衛国だけは目こぼしされ、しぶとく生き残ったのは春秋戦国史の豆知識。

ともあれ論語の本章は、史実の孔子の発言として扱うのが妥当。

解説

すごい人はめったにいないからすごいのであって、見習おうにも手本が近場にいないのは当たり前。だが愚人は世間のどこにでもいるから、せめてそうならないように自分を戒めるのが現実的。孔子は学派の開祖には珍しく、自分を崇めろとは一言も言わなかった。

日本語で「馬鹿真似はよせ」とよく言う。論語の本章に言うのは「馬鹿真似はよせ」であって微妙に意味が異なるが、人類に普遍的な教えであるには違いない。新古の注は以下の通り。

古注『論語義疏』

子曰見賢思齊焉註苞氏曰思與賢者等也見不賢而內自省也疏子曰至省也 云見賢思齊焉者言人若見賢者當自思願修礪與之齊等也云見不賢而內自省也者省視也若見人不賢者則我更自視我心內從來所行無此事不也故范甯曰顧探諸己謂之內省也

包咸 古注 皇侃
本文。「子曰見賢思齊焉」

注釈。苞氏「賢者と同等になろうと思うことである。」

本文。「見不賢而內自省也」。

付け足し。先生は反省を言ってそれを記した。「見賢思齊焉」とは人がもし賢者に出会ったら必ず見習って自分も同等になろうとすることである。「見不賢而內自省也」とは、省とは見つめることであり、もし馬鹿者に出会ったら自分の心を反省してバカげたことをしないよう努めることである。

だから范甯が言った。「自省するのを内省という。」

新注『論語集注』

省,悉井反。思齊者,冀己亦有是善;內自省者,恐己亦有是惡。胡氏曰:「見人之善惡不同,而無不反諸身者,則不徒羡人而甘自棄,不徒責人而忘自責矣。」

論語 朱子 新注
省は悉-井の反切音である。思齊とは、自分もまた同じようによくなろうと乞い願うことである。內自省とは、自分にもそうしたバカげた事が無いか恐れることである。

胡氏「人の善し悪しが同じで無いのを見て、自分の身を反省しないなら、それは直ちに善人になろうとする気を失い、バカのままでいるのを選んだことになり、バカをバカだと言わないのも、自分の馬鹿さ加減をただ忘れただけである。」

余話

アスマトリーチェルヌィ

孔子は後世「聖人」と呼ばれたが、孔子生前の語義は”尊い人”ではなく、耳や口が優れた才人だった。「賢」の字形が上記の通り「見」に深く関わるように、よく聞くだけでなくよく見て観察することが古代中国の賢者の条件だった。ロシア語でосмотрительныйアスマトリーチェルヌィと言う。

осматриватьアスマートリヴァチ”見る・調べる”の派生語で、”油断の無い”を意味する。ロシア人は日露戦争の頃から、駆逐艦にはБуйныйブイヌィ”勇敢な”とかГрозныйグローズヌィ”恐ろしい”とか勇ましい名前を付けるのが常だったが、冷戦真っ盛りのころ、ソ連太平洋艦隊に配属された油断の無い「賢者」があった。

Осмотрительный

アスマトリーチェルヌィ

駆逐艦とは言い条、以前の巡洋艦を拡大発展させたバケモノで、同時期の日本で相当するはつゆき型が基準排水量で3000t弱だったのに対し、8000t近くあった。条約下の日本の特型駆逐艦が約2000tでバケモノ扱いされた二次大戦直前なら、重巡洋艦に分類される大型艦。

ソ連崩壊直後に除籍されてしまったが、はるばる回航された当時「う~むカッコイイ」と思ったことを覚えている。中国人も同様に思ったらしく、これらソヴレメンヌイ級駆逐艦を何隻か買い、気に入ったと見えて追加注文した。ソ連崩壊による大バーゲンだったに違いない。

なおГрозныйグローズヌィはロシア帝国海軍やソ連海軍が保有した駆逐艦の艦名の他、皇帝イワン4世のあだ名「雷帝」としても使われるが、”かみなり”の意は無く、帝国海軍の駆逐艦「いかづちと名前を同列には扱えない。英語ではイワン雷帝を”Ivan the Terrible”と訳している。

「グローズヌイ」は…元となった名詞に「雷雨」ないし「ひどく厳格な人」という意味の「グロザー」があり、この単語との連関から畏怖を込めて雷帝と和訳されたといわれる。(wikipediaイワン4世条)

『論語』里仁篇:現代語訳・書き下し・原文
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