論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰君子懷德小人懷土君子懷刑小人懷惠
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰君子懷德/小人懷土/君子懷刑/小人懷惠
後漢熹平石経
(子)…子懷㓝小人懷惠
※「㓝」:『大漢和辞典』では「刑」の異体字、「小学堂」では「刑」「型」の異体字として扱う。
定州竹簡論語
[子曰:「君子懷德,小人壞土];68……
標点文
子曰、「君子懷德、小人懷土。君子懷刑、小人懷惠。」
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章では、「小人」が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の創作である。
書き下し
子曰く、君子德を懷へば、小人土を懷ふ。君子刑を懷へば、小人惠みを懷ふ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「君子は道徳を身につけようとするが、凡人は土地を欲しがる。君子は刑に服するのを好ましく思うが、凡人は恩恵を好ましく思う。」
意訳
教養ある人格者である君子は、道徳を身につけようとするが、つまらない人間は手っ取り早く稼げる土地を求める。君子は罪を犯せばいさぎよく罰せられようとするが、つまらない人間はお目こぼしを願って逃げ回る。
従来訳
先師がいわれた。
「上に立つ者が常に徳に心掛けると、人民は安んじて土に親み、耕作にいそしむ。上に立つ者が常に刑罰を思うと、人民はただ上からの恩恵だけに焦慮する。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「君子心懷仁德,小人心懷家鄉;君子心懷法制,小人心懷實利。」
孔子が言った。「君子は心に人徳を思い、小人は心に家庭を思う。君子は心に法制度を思い、小人は心に実利を思う。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
君子(クンシ)・小人(ショウジン)
論語の本章では、為政者階級と庶民。武内本には、本章について「君子は官吏、小人は人民をいう」とある。それはその通りで、孔子の生前、「君子」とは従軍の義務がある代わりに参政権のある、士族以上の貴族を指した。「小人」とはその対で、従軍の義務が無い代わりに参政権が無かった。
ただし「君子」の物証が西周末期からあるのに対して、「小人」の物証は戦国時代にならないと現れない。
詳細は論語における「君子」を参照。また春秋時代の身分については、春秋時代の身分秩序と、国野制も参照。
(甲骨文)
「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
(甲骨文)
「小」の初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。
(甲骨文)
「人」の初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
懷(カイ)
(金文)
論語の本章では”好ましく思うこと”。新字体は「懐」。初出は西周早期の金文。ただし字形は「褱」。現行字体の初出は秦系戦国文字。同音は同訓の「褱」と異訓の「壊」(去)。「褱」の字形は「眔」+「衣」で、「眔」はのちに”視線で跡を追う”と解されたが、原義は「目」+「水」で”涙を流す”こと。「褱」は全体で”泣いて衣を濡らす”ことであり、そのような感情のさま。秦系戦国文字で”心”を示す「忄」がついたのは感情を示すダメ押し。原義は”泣くほどの思い”。金文では”思い”、”ふところ”、”与える”、「鬼」”亡霊”、”招き寄せる”の意に用いた。詳細は論語語釈「懐」を参照。
德(トク)
(金文)
論語の本章では”道徳”。初出は甲骨文。新字体は「徳」。甲骨文の字形は、〔行〕”みち”+〔丨〕”進む”+〔目〕であり、見張りながら道を進むこと。甲骨文で”進む”の用例があり、金文になると”道徳”と解せなくもない用例が出るが、その解釈には根拠が無い。前後の漢帝国時代の漢語もそれを反映して、サンスクリット語puṇyaを「功徳」”行動によって得られる利益”と訳した。孔子生前の語義は、”能力”・”機能”、またはそれによって得られる”利得”。詳細は論語語釈「徳」を参照。
本章もまた”能力”と解せなくはないが、本章は「君子」と、孔子生前に見られない「小人」との対比話であり、「徳」を何かしら立派なものとして解さないと、文意が通じない。
土(ト)
(甲骨文)
論語の本章では”土地”。「ド」は慣用音。呉音は「ツ」。初出は甲骨文。字形は「一」”地面”+「∩」形で、地面の上に積もったつちのさま。甲骨文の字形には、「一」がないもの、「水」を加えたものがある。甲骨文では”領土”、”土地神”を意味し、金文では加えて”祭祀を主催する”、天に対する”大地”、また「𤔲土」と記し後年の「司徒」の意を示した。詳細は論語語釈「土」を参照。
刑(ケイ)
(金文)
論語の本章では”刑罰”。初出は西周中期の金文。字形は「井」”牢屋”+「刂」”かたな”で、原義は刑罰。ただし初出の「史牆盤」は「荊」”いばら”と解釈されており、「荊」=楚国のことだとされる。詳細は論語語釈「刑」を参照。
惠(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”恩恵”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「恵」。初出は甲骨文。字形は「叀」(専)+「心」。「叀」は紡錘の象形とされるが、甲骨文から”ただ…のみ”の意に用いた。「惠」は”ひたすらな心”の意。春秋までの金文では”従う”、”善い”、”恵む”・”憐れむ”、戦国の金文では”憐れみ”の意に用いた。詳細は論語語釈「恵」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用せず、事実上の初出は定州竹簡論語か、ほぼ同時期の前漢武帝死没直後の記録『塩鉄論』で、文学=メルヘンに酔いしれる若造儒者の屁理屈として引用された。このメルヘン者については論語八佾篇4の解説を参照。
論語の本章は、文字史的には全く史実を疑えないにもかかわらず、読むそばからニセモノとわかる贋作で、その理由は「君子」と「小人」を対比して論じていることにある。孔子の生前、「君子」は説明の要がない明確な言葉で、「小人」の語が存在したかは極めて如何わしい。
「小人」の物証は戦国時代の竹簡からで、「上海博物館蔵戦国楚竹簡」緇衣21に「小人敳(豈)能(好)丌(其)庀(匹)」とあるなどが初出。文献上は本章のように論語から見られるが、史実は「君子」の価値が暴落した戦国以降の語と断じてよい。
加えて論語為政篇14と違い、「小人」を”平民”と非差別的に訳しうる余地を持たず、土地を欲しがり悪事を働いても逃げ回る、下らない人間だと解するしか方法が無い。従って論語の本章は文字史にかかわらず、孔子の史実の発言として取り扱うことが出来ない。
解説
孔子の生前、「君子」とは戦士のことで、従軍する代わりに参政権があった(国野制)。春秋前半、庶民にとっていくさは見物や落ち武者狩りの場ではあっても、自分事ではなかった(『春秋左氏伝』荘公十年)。だから「君子」も「小人」も、誰が誰に説明する必要の無い言葉だった。
それが変わったのは孔子の時代で、「弩」(クロスボウ)の普及によって、「卒」(徴集兵)の戦力化が現実になった。長い訓練を経なくても、徴集兵に弩を渡して斉射させれば、それまで軍の主力だった貴族の操る戦車を一掃できるようになり、「君子」の価値が暴落した。
だからこそ、被差別階級に生まれた孔子が宰相格にまで出世できた。詳細は論語における君子を参照。だが過渡期ゆえに、孔子塾に入ったのは君子に成り上がりたい小人階級で、彼らは当然君子とは何かを心得ていた。心得られなくなったのは、孔子より一世紀後の孟子の時代。
つまり戦国の世、軍の主力は徴集兵に転換し終え、「君子」とはわざわざ説明せねば意味が分からない言葉になっていた。加えて孟子は「君子」にもったいをつけ、自分の教説を売り歩くための商材にした。だから「小人」と対比させ、「君子」の価値がすごいように言い回った。
「小人」という言葉がいつから漢語にあったか。「小」の初出は甲骨文、「人」の初出も甲骨文で、ともに論語の時代に存在したが、「小人」との言葉が漢語に現れるのは、出土史料としては戦国の簡書(竹簡や木簡)からになる。その中で謙遜の語としての「小人」(わたくしめ)ではなく、”くだらない奴”の用例は、例えば次の通り。
子曰:唯君子能好其駜(匹),小人剴(豈)能好亓(其)駜(匹)。古(故)君子之友也
子曰く、唯だ君子のみ好く其の匹たるを能う。小人豈に好く其の匹たるを能うや。故に君子の友也。(『郭店楚簡』緇衣42・戦国中期或いは末期)
これより先、臣下がへり下って「小臣」と青銅器に鋳込んだ例はあるが(小臣宅簋・西周早期など)、財産も文字の読解力も無い「小人」が金文を鋳込むわけが無い。
春秋の世、武器を除く青銅器は実用品ではなく記念品で、そこに政治的宣伝効果を期待して「小臣」と鋳込んだ。そういう青銅器は配るものではなく見せびらかすものだった。
孔子の生前、「君子」が単に参政権のある貴族を意味したように、「小人」という言葉は仮に当時の漢語にあったにせよ、参政権の無い庶民を意味するに過ぎなかった。それをバカにし始めたのは孔子没後一世紀に現れた孟子で、激しくバカにしたのは戦国末期の荀子に始まる。
論語の本章は定州竹簡論語にあることから、前漢中期までには存在したことが確実だが、内容的には春秋時代まで遡れない。戦国時代の儒者による偽作が大いに疑われ、「惠」を戦国以降の語義である”恩恵”と解さないと文意が通じない。
なお新古の注の解釈は、以下の通り。
古注『論語集解義疏』
註孔安國曰懐安也…註孔安國曰重遷也…註孔安國曰安於法也…註苞氏曰惠恩惠也
注釈。孔安国「懐はそれに寄り添って安心することである。」「小人懐土とは、住む土地を離れるのを嫌がることである。」「君子懐刑とは、法律に寄り添って安心することである。」
注釈。包咸「恵とはお貰いのことである。」
前漢中期と言われる孔安国は実在が怪しい。包咸は新~後漢初期の儒者。
新注『論語集注』
懷,思念也。懷德,謂存其固有之善。懷土,謂溺其所處之安。懷刑,謂畏法。懷惠,謂貪利。君子小人趣向不同,公私之間而已。尹氏曰「樂善惡不善,所以為君子;苟安務得,所以為小人。」
懷とは思い願うことである。懷德とは、もともと身に付いた善がある事を言う。懷土とは、住む土地の安楽に溺れることを言う。懷刑とは、法を尊重することを言う。懷惠とは、利益を貪り求めることを言う。君子と小人とでは志望が違う。公私のけじめの有る無しが決定的に違う。
尹焞「善を楽しんで不善を憎むのは、君子のあかしだ。一時凌ぎの稼ぎにあくせくするのは、小人のあかしだ。」
*尹焞:北宋の儒者。1061-1132年。 程伊川の門人。宋儒には珍しい善人。
余話
ハッタリにならねばいいが
本章は「刑」という物騒な言葉を扱うから息苦しく感じるが、歌うような言葉になっている。藤堂明保先生の『学研漢和大字典』から上古音(周代~秦代)を引いてみる。
小人懐土 siɔg nien ɦuər t’ag シオク ニエン ブエル トッアク
君子懐刑 kıuən tsiəg ɦuər ɦeŋ キウエン チエク ブエル ブエンク
小人懐恵 siɔg nien ɦuər ɦuəd シオク ニエン ブエル ブエード
カナは無理に直せばこう、という参考例。ɦはブではなくロシア語のХと同じで…とか言い出したら切りがない。訳者もIPA(国際発音記号)を正確に発音できるには遠い。
それでも「徳」と「土」、「刑」と「恵」が近い音で韻を踏んでいるのがおわかりだろうか? おそらく多くの弟子の前で孟子あたりが読み上げ、弟子に繰り返させたのだろう。
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