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論語詳解070里仁篇第四(4)まことに仁に志さば*

論語里仁篇(4)要約:おそらく孟子による創作。本気で仁者になりたかったら、悪いことをするな。それはそのとおりで、仁者の語義が孟子以降の「仁義」=”情け深さ”なら、なるほど悪事を働いてはいい人になれません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰茍志於仁矣無惡也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰茍志於仁矣無惡也

後漢熹平石経

子白茍志於仁矣無惡

  • 「矣」字:上下に〔厶夫〕
  • 「無」字:上下に〔一卌一灬〕。つまり「無」-〔丿〕。
  • 「惡」字:〔亞〕内に〔一〕一画あり。

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「茍志於仁矣、無惡」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 茍 金文於 金文仁 甲骨文矣 金文 無 金文䛩 金文

※仁→(甲骨文)。本章は「志」字が論語の時代に存在しない。本章はおそらく孟子による創作である。

書き下し

いはく、まことなさけこころざたらば、しきことかれ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
先生が言った。「本当に情け深い人間を志すなら、悪いことをしてははならない。」

意訳

孔子 人形
本気で慈愛のある人になりたいなら、悪いことをしてはいかん。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「志向がたえず仁に向ってさえおれば、過失はあっても悪を行うことはない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「一旦樹立了崇高的理想,就不會為非作歹。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「ひとたび崇高な理想を掲げたなら、決して悪いことをしてはならない。」

論語:語釈

、「  。」

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。

茍(キョウ)

茍 甲骨文 茍 字解
(前漢隷書)

論語の本章では”慎み深く”→”本気で”。初出は甲骨文。字形は羊型のかぶりものをした人=羌族が跪いている姿。異民族を従わせること、従うことを意味するのだろう。部首はソウ部「くさかんむり」に分類されるが、「カン」は羊の角を由来とし草とは関係が無い。甲骨文は複数の用例が見られるが、破損のためか釈文されていない。西周の金文では、人名のほか”慎み深く”の意に用いた。詳細は論語語釈「茍」を参照。

くさかんむりの横画が繋がった「苟」(コウ、いやしくも)とは別字。文献時代になると「茍」と「苟」とは区別がつかなくなったらしく、漢代の成立とみられる『小載礼記』大学篇に「茍日新,日日新,又日新。」”一日一日とみずからを新しくし、また一日一日と新しくする”とあるのを、「苟」と記す例がある。論語語釈「苟」を参照。

志(シ)

志 金文 志 字解
(金文)

論語の本章では”こころざし”。『大漢和辞典』の第一義も”こころざし”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は”知る”→「識」を除き存在しない。字形は「止」”ゆく”+「心」で、原義は”心の向かう先”。詳細は論語語釈「志」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 仁 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”慈悲深さ”。本章は「志」の字の論語時代における不在から、後世の創作が確定しているので、通説通り「仁義」の意で解すべき。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

孔子の生前、「仁」は単に”貴族(らしさ)を意味したが、孔子没後一世紀後に現れた孟子は「仁義」を発明し、それ以降は「仁」→「仁義」となった。詳細は論語における「仁」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。「苟志於仁矣」で”もし仁に志し切ってしまったならば”。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…ない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

惡(アク/オ)

䛩 金文 悪 字解
(金文)

論語の本章では”悪事を働く”。現行字体は「悪」。初出は西周中期の金文。ただし字形は「䛩」。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「アク」で”わるい”を、「オ」で”にくむ”を意味する。初出の字形は「言」+「亞」”落窪”で、”非難する”こと。現行の字形は「亞」+「心」で、落ち込んで気分が悪いさま。原義は”嫌う”。詳細は論語語釈「悪」を参照。

也(ヤ)→×

唐石経、清家本は文末の「也」を記すが、漢石経は記さない。これに従い無いものとして校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで詠歎の意”…よ”に用いている。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

無惡(也)

従来訳のように、「あしき無き(なり)」と読んで、”悪がない・なくなる”と解する場合がある。しかし『学研漢和大字典』に、日本語の「なし」は形容詞であるが、漢語では「無」は動詞である、と明記されている。

もし「あしき無き(なり)」なら、S-V順に「悪無(也)」と書いた方が文法的に妥当。従って”悪がない・なくなる”と解するのには無理がある。動詞として”無くす”、つまり「あしきことなかれ」”悪いことをするな”。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、定州竹簡論語に存在しない。

また「茍志於仁矣」について、「苟不志於仁」との用例が『孟子』にある。「茍」の誤字であり、この「苟」はどうやりくりしても戦国より前には遡れない。この混用が当時からか、現代の筆記者のうっかりに拠るかは分からない。

また「志於仁」は孟子以外、先秦両漢の誰一人引用や再録していない。「無惡」は一般的な物言いだから、無数に用例があるので論語の本章の再出とは言いかねる。

論語 春秋諸国と諸子百家

春秋戦国年表 クリックで拡大

以上を踏まえると、本章を創作したのは孟子ではあるまいか。
孟子

身長2mを超しペニシリン無き時代に70過ぎまで生き武術の師範でもあったバケモノ孔子と違って、ひょろひょろだった孟子は、体格や腕力で弟子を威圧できなかった。加えて弟子には殿さまの屋敷からスリッパをくすねるような小悪党がおり、こういう説教をする動機は十分にある。

孟子が子分どもを引き連れてトウの国へ巡業し、殿様の屋敷に逗留した。子分の一人が、窓の上に置いてあったスリッパをくすね、屋敷の管理人が探しても見つからない。

管理人「ああたの従者って、平気で人のものを盗むんですね。」
孟子「管理人どの、我らがスリッパ泥棒の巡業に来たとでも?」
管理人「そうまでは言いませんが…。」

後世の編者「孟子先生は、弟子を役割によって分類したが、嫌がる者に無理強いせず、なりたがる者は好きなようにさせた。そういうわけで、その気がある者は(ドロボー・チンピラだろうと)全て受け入れたのだ。」(『孟子』盡心下76)

解説

上掲語釈の通り、「キョウ」”まことに”は「コウ」”もしも”とは由来を異にする別の字だったのだが、遅くとも後漢末までには混同されて、中国人の儒者にも分けが分からなくなっていた。これにつき論語の本章、古注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子曰苟志於仁矣無惡也註孔安國曰苟誠也言誠能志於仁者則其餘無惡也疏…苟誠也言人若誠能志在於仁則是為行之勝者故其餘所行皆各無惡行也


本文「子曰苟志於仁矣無惡也」。
注釈。孔安国「苟とは誠である。孔子の言うには、本心から仁を志したら、必ずその後は悪が消えるのである。」

付け足し。「苟とは誠である。孔子の言うには、人がもし本当に仁を志すことが出来たら、それはとりもなおさず行為に優れた者となるので、その後はすっかりいろいろな悪行をしなくなるのである。」

注に「苟とは誠」とあるから、後漢末まで論語の本章に限っては「コウ」ではなく「キョウ」である、と解釈されていたことになる。だがわざわざ注を付けたところから、あるいはすでに両字の混同があったとみてよいが、古注は「どうでもいいだろうがそんなこと」と思うようなことまでウンチクを書き付けるから、そうでない可能性もある。

しかし「苟とは誠」とあるついでに「其餘」”その後は”とあることから、「誠」が確定的事実ではなく、仮定的願望に過ぎないと読み取れる。つまり「茍」”まことに”と「苟」”もしも”の語義を併せ持った、あやふやな注釈であることになる。

さらに古注も南北朝に書き足された注の付け足し「疏」になると語義のあやふやが確定的になってくる。「苟とは誠」と書きながら、「若誠」とも書いてあるからには、”もし本当に”と仮定の意味で解したことになる。

対して新注は次の通り。

新注『論語集注』

子曰:「苟志於仁矣,無惡也。」惡,如字。苟,誠也。志者,心之所之也。其心誠在於仁,則必無為惡之事矣。楊氏曰:「苟志於仁,未必無過舉也,然而為惡則無矣。」


本文「子曰:苟志於仁矣,無惡也。」
惡は通常の音で読む。苟とは誠である。志とは、自我が行こうとする先である。まことに心が本当に仁に根ざしているなら、必ず悪事を働かなくなるのである。

楊時「本心から仁を志しても、まだ間違いが完全に無くなるわけではない。だが悪事を働こうとする行動は、すっかり無くなるのである。」

やはり「苟」を”まことに”と解しながら、「心之所之也」「其~則」とあることから、仮定した未来への前提と解釈していることがわかる。

これを受けて日本で通説の訓読「いやしくも」は、大正年間の『國譯漢文大成』にはそう書かれているから、日本人も古注以来の、「茍」に「苟」を足しっぱなしにしたあやふやな解釈に従ったことになる。上掲現代中国での解釈例も、「一旦~了」としているから、”もし~したなら”の意で、「いやしくも」と訓読したのと同じ結果になる。

論語 古注 何晏 古注 皇侃

結局諸悪の根源は、高祖劉邦を避諱しないなど実在が怪しい孔安国の皮を被り(論語郷党篇17語釈)、論語に注を書き加えた三国魏の何晏と、南朝梁の時代に古注に疏を書き足した、皇侃であると言わねばならない。それはそうとして、そもそも「いやしくも」とは何だろうか。

藤堂明保編『学研漢和大字典』「」条

「いやしくも」とよみ、「もしも」「かりに~」「ほんとうに」と訳す。順接の仮定条件の意を示す。

ここは藤堂博士らしくない雑な語義の切り分けで、「ほんとうに」は「苟とは誠」という新古の注に従ったものだが、現代日本語では順接の仮定条件ではありえない。「もしほんとうに」ならありえるのだが。いずれにせよ論語の本章を「苟」字”もしも”で釈文(これこれの字だと確定すること)している限り、何が書いてあるかは分からない。

なお論語の本章に関して現存する日本伝承論語最古の版本は清家本だが、東洋文庫本の公開画像は「マコト」らしきふりがなの痕跡がページの狭間に薄切りされて残り、原本を見ない限り何とも言えない。京大本は明確に「イヤシクモ」と仮名を振っている。対して宮内庁本は「マコト」と振っており、鎌倉から室町時代の間、同じ清原家の家伝でも、二種類の解釈があったことになる。

また年代不明だが、内容的に正平本同等以上に古い龍雩本は右に「マコトニ」と仮名を振り、左に朱墨で「イヤシクモ」とある。訓点も朱墨書きしているのでおそらく注記が新しいから、古くは「マコトニ」と読み、新しくは「イヤシクモ」と読んだことになる。

日本古語としての「いやしくも」の語釈は次の通り。

学研『全訳古語辞典』「いやしくも」条

《副詞》

  1. 身分不相応にも。柄でもないが。もったいなくも。
    《平家物語・三・医師問答》 「重盛(シゲモリ)いやしくも九卿(キウケイ)に列して」
    《訳》
    平重盛は身分不相応にも公卿(クギヨウ)に列して。
  2. かりそめにも。もしも。
    《太平記・一一》 「夫に別れたる妻室(サイシツ)は、いやしくも二夫(ジフ)に嫁(カ)せん事を悲しんで」
    《訳》
    夫に死別した妻は、かりそめにも二夫に嫁することを悲しんで。

「かりそめにも」と「もしも」は必ずしも語義が一致しないだろう。ダメ押しで国語辞典を引く。

『学研国語大辞典』「かりそめにも」条

《副詞》

①{下に打ち消しの語・反語などを伴う}どんなことがあっても。まちがっても。けっして。
《参考》強い禁止を表す。「仮初めにもうそはつくな」─用例(夏目漱石・倉田百三)
②まがりなりにも。いやしくも。─用例(尾崎紅葉)《同意語》「①②」かりにも。
③ほんのちょっとでも。ほんの少しの間でも。─用例(尾崎紅葉)

同「もしも」条

《副詞》「若(モ)し」を強めた言い方。「若しも私が男なら…」「若しも失敗したらどうしよう」
《参考》特に、死など、よくないことを仮定して言う場合に用いられることもある。「若しもの時にはあとを頼むよ」→若(モ)しもの事。《類義語》→もし。

もう一つダメ押し。現存する出版年による世界最古の論語の紙本は、宮内庁蔵南宋版論語注疏だが、もちろん宋版だからふりがなは付いていない。編者の邢昺も解釈については古注を踏襲しており、「茍」と「苟」を区別できなかったことを示している。

余話

火酒の勢い

ロシア語訳『論語』から引用する。

Еслиイェースリ направитьナプラービチ помыслыポーミスリ к человеколюбиюチェラウェカリュービユ, неニェ будетブージェト злаズラー.
(Переводピェリェウォート Аアー. Еイェー. Лукьяноваルキヤノワ)


もし意志を慈愛に向け続けるなら、悪は存在しなくなる。(訳:Аアー. Еイェー. ルキヤノワ)

”не будет”は研究社の分厚い『露和辞典』を引かないと出てこないのだが、”将来は…なくなる”の意。編者の東郷正延先生は、訳者が初めてロシア語に接した、講談社現代新書『ロシア語のすすめ』もお書きになったが、この辞書は1988年の初版以降、まだ改訂されていない。

その直後のソ連崩壊からIT時代の今に至るまで、ロシア語も相当に変化しているはずだが、しょせん日本のロシア語需要がその程度だからだろう。これは漢文についても言えることで、『字通』以降、画期的な辞書は出ずじまいで、多くの漢和辞典にも改訂話を聞かない。

思えば訳者の少年時代はITとは違った意味で情報収集によい時代で、訳者の郷里のようなものすごい山奥にも書店が数軒あり、英語以外の辞書を置いてある店もあった。加えて現在よりも立ち読みに比較的鷹揚で、既得権益の権化の一つである本の再販制度がそれを支えていた。

さすがにロシア語の辞書は、取り寄せて貰うしかなかったが。

ともあれルキヤノワ女史の訳は、あるいはロシアの文化的背景を踏まえているかも知れない。勧善懲悪を説くのは大宗教の常だが、正教会も同様で、年に6週間もある大斎戒の間、信者同士で「どうか私の罪をお許しください」と言い合わねばならないという(→wikipedia)。

もちろんその間、オリーブ油を含む”なまぐさ”を平日に食べてはならず、酒も飲んではいけない。毎日ウォトカを飲まないと死んでしまいそうなロシア人が、よくこんな戒律を守れるものだ。何せ独ソ戦の最中でも、兵士に毎日コップ1杯のウォトカは配給されたというのに。

その代わり食べ物は最悪で、豆の水煮と干し魚だけだったとどこかで読んだ。パンよりウォトカのロシア人が、こういう戒律を伴う正教の熱心な信徒であり得るのは、我慢強さが習い性になっているからだろう。”ポースミル”とはそういう習い性となった”考え”の古語という。

この語も研究社『露和辞典』を引かないと出てこない。

上掲訳で語尾に”bl”が付いているのは英語の”s”と同じで複数形だからだが、ルキヤノワ女史は論語の本章を解釈するにあたって、「志」を一時的な発憤と捉えたのではなく、いつもずっと持ち続ける素志と解したわけ。一時的な発憤から老中を斬り殺すような「志」とは違う。

もっとも、若者の暴走は多分に恒常的な下半身のナニガシが要因で、桜田門外の囗刂卜も存外そうした理由かも知れない。だから孔子は論語季氏篇10で、「若い頃は自我に振り回されて情緒不安定だから、色事に気を付けなさい」と戒めた。この章は文字的に史実を疑えない。

対して戦国時代に登場した漢語「志」は、それこそ火酒の勢いで突進するたぐいのもので、我慢強く持ち続けるものではない。仮に訳者の見当が当たって、論語の本章の作者が孟子だとするなら、一時的に「仁義」を思うだけで、すぐさま悪が無くなると説いたことになる。

それはそれで理がある。孟子の活動は高位高禄を得るための利権あさりで、「仁義」はその大事な商品だった。『孟子』の冒頭でも相談を請う梁の恵王に対して、まず大喝して売り込んだのが「仁義」だった。だから孟子にとって「仁義」は、即効性が無いと困るのである。

小悪党が多かった弟子にお説教するにも同様だっただろう。

苟不志於仁,終身憂辱,以陷於死亡。


(孟子が申しました。)もし仁義に「志」をしないなら、生涯人にバカにされ続け、死に追いやられることもあるのだぞ!(『孟子』離婁上9)

※ここでは一時的に、「茍」”まことに”ではなく「苟」”もしも”として解釈。「終身~死亡」とあるからには、確定的事実でなく仮定的予想を述べたと解するのが妥当であるから。確定として訳すならこうなる。

”心から仁義を志さない者は(どいつもこいつも)、生涯人に馬鹿にされ続け、死に追いやられて仕舞ったんだぞ。”

「たった一日でいいから、自分を貴族らしく仕立てようと考えてくれないものかな」(論語里仁篇6)と弟子に説教した孔子と、一脈通じるところがある。この里仁篇の章も同様に「仁」を心掛けるよう説いているのだが、史実性を疑えないので、もちろん仁は”貴族らしさ”の意。

『論語』里仁篇:現代語訳・書き下し・原文
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