論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
寢不尸居不客見齊衰者雖狎必變見冕者與瞽者雖褻必以貌凶服者式之式負版者有盛饌必變色而作迅雷風烈必變
校訂
諸本
- 武内本:唐石経釋文容を客に作る。
東洋文庫蔵清家本
𥨊不尸/居不容/子見齋衰者雖狎必變/見冕者與瞽者雖褻必以貌/凶服者式之式負版者/有盛饌必變色而作/迅雷風烈必變
- 「冕」字:〔冂免〕。
慶大蔵論語疏
〔穴彳𠬶〕1不尸/居不容/見𪗋2褰者3〔口衣隹〕4押5必變。見𥦙6者3与7〔壹皮目〕8者3〔口衣隹〕4褻必以貇9/凶服者3戈ユ〕10之/〔戈ユ〕10・11負版者3/有盛饌必反色而作/迅雷〔𠘨帀〕12〔夕刂〕13(烈)14必反
- 「寢」の異体字。『干禄字書』(唐)所収。
- 「齊」の異体字。「唐孔子家廟(陜西本)」刻。
- 新字体と同じ。正字。
- 「雖」の異体字。「魏內司楊氏墓誌」(北魏)刻。
- 「狎」の音通字。
- 「冕」の異体字。「隋尉氏女富娘墓志銘」刻。
- 「與」の異体字。新字体と同じ。『敦煌俗字譜』所収。
- 「瞽」の異体字。『敦煌俗字譜』所収字近似。
- 「貌」の異体字。「東魏太公呂望表」刻。
- 「式」の異体字。「唐翟惠隱墓誌」刻。
- 虫食い。
- おそらく「風」の異体字。未詳。
- おそらく「烈」の崩し字。未詳。
- 傍記。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……必以貌。六者式a258……[雷]風[烈]必變。升車259……
- 六者式、今本作”凶服者式之”。”六”、疑読為”戮”。
標点文
寢不尸、居不容。見齊衰者、雖狎必變。見冕者與瞽者、雖褻必以貌。六者式之。式負版者。有盛饌、必反色而作。迅雷風烈必反。
復元白文(論語時代での表記)
容 狎變 瞽 式 式負版 變
※饌→巽・風・烈→(甲骨文)。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「寢」「容」「齊」「衰」「者」「必」「瞽」「貌」「服」「六」「式」「作」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
寢ぬるに尸げ不、居るに容かず。齊衰の者を見ば、狎れたると雖も必ず變し、冕者與瞽者とを見ば、褻きと雖も必ず貌を以る。六の者には之に式ひ、負版者に式ふ。盛饌有らば、必ず色を反し而作つ。迅き雷風の烈しきには必ず變す。
論語:現代日本語訳
逐語訳
膝を曲げて寝なかった。座る時は猫背にならなかった。喪服を着ている者に会うと、親しい間柄でも居住まいを正した。礼服を着た者、盲人に会うと、身近な間柄でも必ず表情を改めた。死刑囚に出会うと、車の横木に手をついてお辞儀をした。子守りにもお辞儀した。収穫祭の供え物を前にすると、必ず(表情を謹厳に)戻して立礼した。急な雷や台風の時は、必ず(表情を)正した。
意訳
同上
従来訳
寝るのに、死人のような寝方はされない。家居に形式ばった容儀は作られない。喪服の人にあわれると、その人がどんなに心やすい人であっても、必ずつつしんだ顔になられる。衣冠をつけた人や、盲人にあわれると、あらたまった場所でなくても、必ず礼儀正しい態度になられる。車上で喪服の人にあわれると、車の横木に手をかけて頭を下げられる。国家の地図や戸籍を運搬する役人に対しても同様である。手厚いもてなしを受けられる時には、心から思いがけもないという顔をして、立って礼をいわれる。ひどい雷鳴や烈しい嵐の時には、形を正して敬虔な態度になられる。
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
睡覺時不要直挺著象死人,在家閒住時不要象正式場合那樣嚴肅。見穿喪服的人,即使再親密,也一定要嚴肅;見穿官服的人和盲人,即使再熟悉,也一定要有禮貌;在車上遇到送殯的人,一定身體前傾表示同情,遇見背負版圖的人也一樣;在重大宴席上,一定表情嚴肅緻謝;遇到打響雷、刮大風,一定表情嚴肅表示對天的敬畏。
寝ているときには死人のように体を真っ直ぐ張って寝ない。家に居るときは正式な場所のように厳めしくしない。喪服の人を見れば、親しい人でも、必ず厳かにした。官吏の服を着た人や盲人を見ると、よく知る人でも必ず敬意を込めた顔つきをした。車に乗っているときにかりもがりの人を見ると、必ず腰を曲げて同情を表した。背中に公文書を背負った人も同様。重大な宴席では、必ず厳かで細かな感謝の表情を作った。雷鳴や大風が吹く時には、必ず厳かな表情をして天への畏れ敬いを表した。
論語:語釈
寢 不 尸、居 不 容。見 齊 衰 者、雖 狎 必 變。見 冕 者 與 瞽 者、雖 褻 必 以 貌。六(凶 服) 者 式 之。式 負 版 者。有 盛 饌、必 反(變) 色 而 作。 迅 雷、風 烈、必 變。
寢(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”寝る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「寝」。字形は「宀」”屋根”+「帚」”ほうき”で、すまいのさま。原義は”住まい”。甲骨文では原義で用い、金文では原義、”祖先廟”、官職名を意味した。詳細は論語語釈「寝」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔穴彳𠬶〕」と記す。『干禄字書』(唐)所収。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
尸*(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”膝を曲げる”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は人が膝を曲げ、あぐらをかいた横姿。甲骨文から金文にかけて”異族”の意に用い、西周から春秋まで人名の一部や”祭る”・”位牌”の意に用いた。詳細は論語語釈「尸」を参照。
映画「イノセンス」でバトーが「死んだように寝ちゃいけねえって孔子さまも仰ってる」と言うが、本章はもとより漢儒の偽作で、「死んだように寝るな」と言っているわけでもない。
居(キョ)
(金文)
論語の本章では”座る”。座布団にすること。初出は春秋時代の金文。字形は横向きに座った”人”+「古」で、金文以降の「古」は”ふるい”を意味する。全体で古くからその場に座ること。詳細は論語語釈「居」を参照。
容(ヨウ)
「容」(金文)
論語の本章では”包む”→”猫背になる”。この語義は春秋時代では確認できないが、本章は後世の創作が確実なので、さまざまある語釈から最も適切、かつ漢帝国時代に通用した語義として選んだ。この語義で同音同訓は「𡢘」のみ、初出は不明。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。”いれる”の意で「甬」が、”すがた・かたち”の意で「象」「頌」が置換候補になりうる。字形は「亼」”ふた”+〔八〕”液体”+「𠙵」”容れ物”で、ものを容れ物におさめて蓋をしたさま。原義は容積の単位。戦国の金文では原義に用いた。詳細は論語語釈「容」を参照。
見(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”出会う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”(麥方尊・西周早期)、”…される”(沈子它簋・西周)の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。
齊衰(シサイ)→𪗋褰(シケン)
論語の本章では喪服の一種。後世作られた儒教の規定では、喪服にも五等の階級があり、最上級の斬衰の次に重い喪服。麻で作り、裳(もすそ、スカート)を縫い合わせたもの。
論語の本章は定州竹簡論語にこの句を欠き、次いで古い慶大蔵論語疏は「𪗋褰」と記す。”もすそとはかま”の意。京大蔵唐石経、宮内庁蔵清家本では「齊衰」となっており、唐石経を祖本とする現伝論語とは文意が異なることになる。
まったく同じ語を用いた似た話、論語子罕篇10は定州竹簡論語に全く欠いているので、おそらく元は本章で子罕篇は焼き直し。焼き直しの疏(注の付け足し)に”斉衰は五種類の服の二番目である。斉と読んだのは(裾を)切りそろえてあるからで、それによって(着用者が)喪服を着て悲しんでいることを知る事が出来た”と言う。
慶大蔵論語疏は隋代以前に中国で書写されたとされる。字体を見ると北魏時代(386-534)のものがずいぶんあり、あるいは梁より遡るかも知れない。ただし焼き直しの包咸の注では明らかに「𪗋褰」を”喪服”と解しており、慶大本の文字列は誤っているかも知れない。
しかし物的証拠としては慶大本が古いので、今は慶大本に従って校訂した。
(甲骨文)
「齊」の初出は甲骨文。新字体は「斉」。「シ」は”ころものすそ”の意での漢音・呉音。それ以外の意味での漢音は「セイ」、呉音は「ザイ」。「サイ」は慣用音。甲骨文の字形には、◇が横一線にならぶものがある。字形の由来は不明だが、一説に穀粒の姿とする。甲骨文では地名に用いられ、金文では加えて人名・国名に用いられた。詳細は論語語釈「斉」を参照。
(篆書)
慶大蔵論語疏は「𪗋」と記し、「唐孔子家廟(陜西本)」刻。物的初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「齊」”縫う”+「衣」。『漢書』で”もすそ”の意に用い、『説文解字』は”縫う”と語釈する。詳細は論語語釈「𪗋」を参照。
(金文)
「衰」の初出は西周中期の金文。字形は藁蓑の象形で、原義は”蓑”。”おとろえる”の意での漢音・呉音は「スイ」。”そぎおとす”の意ではともに「シ」。”もふく”の意では漢音が「サイ」、呉音が「セ」。春秋末期まででは、人名の用例のみが知られる。論語語釈「衰」を参照。
(後漢隷書)
慶大蔵論語疏は「褰」と記す。「魏邑子二十七人造象」(北魏?)刻。
物的初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「齊」”縫う”+「衣」。『詩経』『楚辞』に”からげる”・”かかげる”の意で用いるが、いつ記されたか分からない。『史記』では”たたむ”の意、『説文解字』は”はかま”の意に用いる。詳細は論語語釈「褰」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~である者”。この語義は春秋時代では確認できない。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。旧字の出典は後漢の「華山廟碑」、文字史から見れば旧字体の方がむしろ新参の字形。
雖(スイ)
(金文)
論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。
慶大蔵論語疏は上掲異体字「〔口衣隹〕」と記し、「魏內司楊氏墓誌」(北魏)刻。
狎*(コウ)
(篆書)
論語の本章では”慣れ親しんだ”。初出は前漢宣帝期の定州竹簡論語。ただし字形は未発表。戦国中末期の楚系戦国文字にも、別の字形を「狎」と釈文する例がある。論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。字形は「犭」”犬”+「甲」”檻に入れる”。動物を飼い慣らすさま。同音に「柙」”檻・箱”、「匣」”檻・箱”。文献上の初出は論語の本章。『墨子』『孟子』『老子』『韓非子』にも用例がある。詳細は論語語釈「狎」を参照。
慶大蔵論語疏は「押」と記す。「狎」(カールグレン上古音ɡʰap、中古音ɣap、入声)の異体字として「押」(同ʔap、ʔap、入声)は見つからなかったので、音通字として隋代ごろの中国では区別しなかった可能性がある。
必(ヒツ)
(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
變(ヘン)→反(ハン)
(戦国金文)
論語の本章では”変える”→”姿勢を正す”。新字体は「変」。初出は戦国早期の金文。ただし釈文は□のままで語義が明瞭でない。論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。同音は存在しない。初出の字形は字形は「占」+「又」”手”+「言」で、先を占うさま。現行字体の字形は「絲」”糸→つながる”+「言」+「攵」”打つ”で、「䜌」は音符とされ、”乱れる”の語釈が『大漢和辞典』にある。詳細は論語語釈「変」を参照。
「反」(甲骨文)
慶大蔵論語疏は現伝論語「必變色而作」を「必反色而作」と、「風烈必變」を「風烈必反」と記す。後者は定州竹簡論語で「變」となっているが、前者は書いているので慶大本に従い校訂した。「變」(カールグレン上古音pli̯an、中古音pi̯ɛn、去声)と「反」(pi̯wăn、pi̯wɐn、上声)は音通のようで、慶大蔵論語疏が写された隋代の中古音では音素の共通率が50%を下回るのでそうでない。
論語の本章では”(謹厳な表情に)戻す”。字の初出は甲骨文。字形は「厂」”差し金”+「又」”手”で、工作を加えるさま。金文から音を借りて”かえす”の意に用いた。その他”背く”、”青銅の板”の意に用いた。詳細は論語語釈「反」を参照。
冕(ベン)
(甲骨文)
論語の本章では”かんむり”。初出は甲骨文とされる。ただし字形は「免」と未分化。現行字体の初出は楚系戦国文字。甲骨文の字形は跪いた人=隷属民が頭に袋のようなものをかぶせられた姿で、「冕」”かんむり”と解するのは賛成できない。殷代末期の金文には、甲骨文と同様人の正面形「大」を描いた字形があり、高貴な人物が冠をかぶった姿と解せる。現行字形は「冃」”かぶりもの”+「免」”かぶった人”。殷代末期の金文は、何を意味しているのか分からない。春秋末期までに、人名・官職名に用い、また”冠”の意に用いた。詳細は論語語釈「冕」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「𥦙」と記す。「隋尉氏女富娘墓志銘」刻。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~と”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「与」と記す。『敦煌俗字譜』所収。
瞽(コ)
(甲骨文・古文)
論語の本章では、ひとまず”目が見えない”。
初出は甲骨文。甲骨文の字形は「目」+「針」+「人」。視力の無い人のさま。現行字形は音符「鼓」+「目」でまるで違い、別の字だと考えた方が理屈に合う。甲骨文の後は戦国中末期の「郭店楚簡」まで用例が無い。つまり論語の時代には存在しなかった可能性が高い。
上掲甲骨文はむしろ「叟」”おきな”の字と解した方が理に合い、「瞽」だと言い出したのは10世紀末から11世紀の前半を生きた北宋の夏竦で、孔子から1500年も後の人物であり、その断定が間違いなら、ざっと千年の間、日中の漢文業界人はデタラメを担ぎ続けていることになる。詳細は論語語釈「瞽」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔壹皮目〕」と記す。『敦煌俗字譜』所収字近似。
仮に「叟」だとする訳者のバクチが当たるなら、「瞽者」→「叟者」で老人の意であり、孔子は老人には敬意を示した、と論語の本章は解しうる。
褻(セツ)
(金文)
論語の本章では”身近な人”。初出は西周末期の金文。字形は「衣」の間に「埶」”身近に仕える”。普段着の意。西周末期の金文では、”身の回りの”の意に用いた。春秋時代には用例が無く、再出は戦国時代。詳細は論語語釈「褻」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”作る”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
貌(ボウ)
(金文)
論語の本章では”顔つき”。初出は殷代末期の金文。その後は戦国文字まで時代が下る。従って、殷周革命で一旦滅んだ漢語である可能性が高い。ただし字形は豸(むじなへん)を欠き、つくりの皃のみ。しかも器にこの一字しか鋳込まれていない。字形は「白」”人々のかしら”の意味をもたせた頭部の大きな人の象形。殷代末期の金文に「皃」とのみあり、族徽(家紋)の一種と考えられる。楚系戦国文字では「豸」で「貌」を表現し、”表情”の意で用いた。詳細は論語語釈「貌」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「貇」と記す。「東魏太公呂望表」刻。
凶*服(キョウフク)→六(リク)
論語の本章では”囚人服”。
(楚系戦国文字)
「凶」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文とされるが、欠損がひどく語義が不明。その後は殷末または西周早期の金文に部品として見られるが、用例は家紋と見られ、”わざわい”の意だったとは思えない。確実な初出は楚系戦国文字。西周・春秋に見られず、殷周革命で一旦滅んだ漢語と思われる。字形は「凵」”落とし穴”+「乂」”かぶせ物”。隠された落とし穴のさま。同音に「洶」”水が湧く”、「兇」”恐れる”、「匈」”胸”。戦国時代から”わざわい”の意に用いた。詳細は論語語釈「凶」を参照。
カールグレン上古音はxi̯uŋ(平)。『大漢和辞典』に『左伝』などを引いて「咎に通ず」とあり、「咎」”とがめる・つみ”の音はɡʰ(上)。
(甲骨文)
「服」の初出は甲骨文。”衣類”の語義は春秋時代では確認できない。字形は「凡」”たらい”+「卩」”跪いた人”+「又」”手”で、捕虜を斬首するさま。原義は”屈服させる”。甲骨文では地名に用い、金文では”飲む”・”従う”・”職務”の用例がある。詳細は論語語釈「服」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語では現伝「凶服」を「六」と記す。定州竹簡論語の注釈では「戮」と釈文し、「戮者」でおそらく”刑死した者・死刑囚”の意とする。元ネタは『漢書』王莽伝の「六者,戮也。」で、編者の班固が書いた出任せのおそれがある。「戮」のカールグレン上古音はɡl(入)で「六」l(入)と同音でない。論語語釈「戮」を参照。
「六」と同音同調は「陸」「稑」”早稲”「坴」”土くれの大きいさま”で「者」に繋がりそうにない。繋がりそうな同音に「牢」「劉」”殺す・まさかり”(以上平)、「流」(平/上)、「老」(上)。「劉」は当時の帝室の姓であり、定州竹簡論語が避諱(帝室をはばかって別字に書き換えること)する理由は重々ある。またまさかりは斬首の道具で、殷周時代には司法権の象徴でもあった。結論として注釈と同じだが、「戮者」で”死刑囚”。
「六」の初出は甲骨文。「ロク」は呉音。字形は「入」と同じと言うが一部の例でしかないし、例によって郭沫若の言った根拠無き出任せ。字形の由来と原義は不明。屋根の形に見える、程度のことしか分からない。甲骨文ですでに数字の”6”に用いられた。詳細は論語語釈「六」を参照。
式*(ショク)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”馬車の前にある手すり”。この語義は春秋時代では確認できない。そこに手をついて車上からお辞儀すること。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。”手すり”の語義では論語時代の置換候補もない。西周中期から戦国まで、「弋」を「式」と釈文する例がある。字形は「弋」”下げ振り錘”+「工」”直角定規”。原義は”基準”。同音に「識」「拭」「軾」”車の手すり”、「飾」(全て入)。「シキ」は呉音。春秋末期までに”則る”の意に、戦国時代に”基準”の意に用いた。詳細は論語語釈「式」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔戈ユ〕」と記す。「唐翟惠隱墓誌」刻。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
負*(フウ)
(秦系戦国文字)
論語の本章での意味は下記。初出は秦系戦国文字。戦国末期の金文にも見えるが、字形がかなり異なる。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「𠂊」+「貝」”財貨”。手で財貨を提げて差し出すさまか。同音に「罘」”網”、「芣」”花が盛んなさま”、「婦」「萯」”カラスウリ”、「偩」”たよる”、「伏」。「フ」は慣用音。呉音は「ブ」。戦国最末期の竹簡で”負担する”の意に用いた。”負ける”の語義は『孫子』など文献時代にならないと見られない。詳細は論語語釈「負」を参照。
版*(ハン)
(秦系戦国文字)
論語の本章での意味は下記。論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「片」”寝台”+「反」”工作を加える”。寝台の板のように平らに加工した板。同音に「班」「頒」「斑」「扳」”引く・よじる”、「板」「昄」”大きい”、「鈑」”板金”。戦国最末期の竹簡で、”字を書く木札”の意に用いた。詳細は論語語釈「版」を参照。
負版者(めのと)
論語の本章では”子守り”。本章は漢儒による偽作が確定することから、漢代の漢語で解釈せねばならない。先秦両漢で「負版」の用例は、中国最古の辞典で前漢の編集とされる『爾雅』に見える1件しかない。他は項羽の伝記で「身負版築」とあり、”版築(城壁を突き固める土)を身ずから背負う”の意で「負版」の用例ではない。
『爾雅』釈虫篇に「傅,負版。」とあり、「傅」は「めのと」と訓読して”子守り”・”幼い貴人の補佐役”の意。下掲『大漢和辞典』が「虫の名」というのは、『論語注疏』の編者でもある北宋の邢昺が『爾雅』に書き付けた「疏」付け足しで、邢昺は後漢滅亡後712年に生まれている。つまりぜんぜん当てにならない。
邢昺の言う「蝜蝂」という虫については、唐中期の大儒で後漢滅亡後553年に生まれた柳宗元が「蝜蝂伝」という伝記まで書き、”蝜蝂はものを背負いたがる小虫で、歩き回って何かにぶつかると、首を下げて背にかつぐ。いつも一生懸命でご苦労様な虫である”と書いている(原文全文と訳文は余話に掲示)。原文には論語のろの字も、「負版」のふの字も出てこない。柳子厚先生の作ったラノベと考えた方がいい。
「負版者」の従来の解釈は以下の通り。藤堂本は”公文書を運ぶ者”と解する。一方吉川本では、喪服の背中に縫い付けた布を「負版」と言うので、葬列の者と解するが、それは「負板」の語釈で、版と板は同音で声調も同じだが誤り。また衣類の「負版」が文献に見えるのは、南朝宋の『世説新語』からで、漢代の漢語とは言えない。
武内本は「徂徠云う、式負版者の四字は注文の誤りで本文と成れるもの、凶服前に衰あり後に負版あり、負版は即負版にして負版者は即ち凶服者なるべし」というが、これも同じ理由で採用しがたい。徂徠の出任せを真に受ける必要も無い。
新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
孔安國曰…負版持邦國之圗籍者也
負版とは、国家の公文書を持つ者である。
新注『論語集注』
負版,持邦國圖籍者。
負版とは、国家の公文書を持つ者である。
古注の孔安国が、漢儒とされていながら高祖劉邦の名を避諱(帝室をはばかって別字に置き換える)していないことに意味がある。つまり、孔安国架空人物説の証拠となる(もちろん異説あり。論語里仁篇7余話参照)。従って古注「負版」の解釈は当てにならず、引き写した新注も当てにならない。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”持つ”→”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
盛(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”(収穫祭の)供え物”。いわゆる新嘗の供物。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「水」+「皿」+「戈」”カマ状のほこ”。犠牲をほふって血を皿に満たすさま。殷代の風習は血祭りを好んだので、転じて”高調した祭の雰囲気”の意。金文以降では「水」が省かれ、さらに「阝」”はしご”→”天界とやりとりする通路”が書き加えられた。春秋末期までに、”力が強い”・”新たに実った(穀物)”の意に用いた。詳細は論語語釈「盛」を参照。
饌(セン)
(前漢隷書)
論語の本章では”供え物”。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「善」(膳)。部品の「巽」は、「丌」”台”の上にのせた首二つで、戦勝の首祭りのさま。「饌」はそれに「食」”食物”を加えた字で、原義は”食物を供える”。詳細は論語語釈「饌」を参照。
盛饌(たむけ)
論語の本章では”収穫祭の供え物”。『後漢書』光武十王楚王英条に、「以助伊蒲塞桑門之盛饌」とあり、「伊蒲」は仏前の供え物、「塞」は神仏を拝むこと、「桑門」は仏寺。漢代の漢語として”供え物”と解するのが妥当。
色(ソク)
(金文)
論語の本章では”表情”。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
作(サク)
(甲骨文)
論語の本章では”(姿勢を)作る”→”立って敬意を示す”。”立ち上がって敬意を示す”と言い出したのは前漢末~新の包咸で、根拠を書いていないが、論語子罕篇10とは異なり、本章は漢儒の偽作が確定するので”立つ”と解してよい。初出は甲骨文。金文まではへんを欠いた「乍」と記される。字形は死神が持っているような大ガマ。原義は草木を刈り取るさま。”開墾”を意味し、春秋時代までに”作る”・”定める”・”…を用いて”・”…とする”の意があったが、”突然”・”しばらく”の意は、戦国の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「作」を参照。
迅*(シン)
(金文)
論語の本章では”素早い”。論語では本章のみに登場。初出は西周早期の金文。ただし字形はしんにょうを欠く「卂」。現行字形の初出は後漢の説文解字。初出の字形は十字形の物体が風を切って飛ぶさま。現行字形は〔辶〕”道”+「卂」。道を素早く行くさま。同音に「新」「薪」「信」「訊」「卂」”早く飛ぶ”。「ジン」は慣用音で、呉音は「シン」。西周の金文では、諸侯名に用いた。詳細は論語語釈「迅」を参照。
「迅雷」で”いきなりの雷”と解せなくはないが、雷には必ず予兆があるもので、あり得ないことに驚くのを「青天の霹靂」”青空に急な雷”という。漢儒の心象風景としては、遠雷が聞こえて心づもりし、恐れて慎んだ、と想像できる。
なお帝国海軍の潜水母艦「迅鯨」は、素早く泳ぐおすクジラを意味する。対してめすクジラは「鯢」と書く。
雷*(ライ)
(甲骨文)
論語の本章では”かみなり”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形:稲光と、雷鳴を象徴する「𠙵」”くち”または”太鼓”2つ。稲妻のさま。甲骨文から”かみなり”の意に、その他甲骨文・金文では、地名人名に用いた。初出は甲骨文。詳細は論語語釈「雷」を参照。
なお「雷」の甲骨文・金文は、「神」とほとんど同じ形をしている。
「神」(金文)
風*(ホウ)
(甲骨文)
論語の本章では空気の速い流れである”かぜ”。初出は甲骨文。字形は鳥が風を切って飛ぶさま。「フウ」は呉音。甲骨文から”かぜ”の意に用いた。詳細は論語語釈「風」を参照。
慶大蔵論語疏はおそらく異体字「〔𠘨帀〕」と記す。未詳。
烈*(レツ)
(甲骨文)
論語の本章では”はげしい”。論語では本章のみに登場。初出:初出は甲骨文。初出の字形は「歹」”凶事”+「水」。激しい降雨のさま。現行字形は「歹」+「刂」”刀で斬る”+「灬」”火”。刀で斬ってなきがらを焼くさま。甲骨文から”はげしい”の意に用い、西周・春秋の金文、戦国文字では「灬」を欠く「剌」で「烈」を表した。詳細は論語語釈「烈」を参照。
慶大蔵論語疏はおそらく崩し字「〔夕刂〕」と記し、「烈」と傍記する。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に含まれる。「見齊衰者、雖狎必變。見冕者與瞽者、雖褻必以貌。」は論語子罕篇10「子見齊衰者、冕衣裳者、與瞽者、見之雖少必作。」の焼き直し。上掲の通り「負版」「盛饌」は漢代の漢語。文字史からも、漢儒による偽作と断じてよい。
解説
下掲新古の注が言うように、論語の本章に言う「迅雷風烈」をはばかったのは、音や風を怖がったと言うより、神霊や精霊の祟りを恐れたとされた。日本語でも「神鳴り」という。
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しかし論語の時代、孔子は神の実在を否定した(孔子はなぜ偉大なのか)。大自然の脅威は恐れたのだろうが、それは凶作や疫病・落雷や台風として物理現実に実現したからで、実利の問題だった。つまり抽象的な事物に対しては何ら恐れも敬意も持たなかったことを意味する。
孔子ですらこうだから、世界最古級の歴史を誇りながら、中国では抽象的な論理思考の発達がはなはだ遅れた。現代科学の発祥は、ギリシア・ローマの時代にあり、その後はイスラム社会やヨーロッパで発達して開化した。絶対神がいないと、数学や科学は発達しないらしい。
対して漢代の儒者は孔子の無神論から、ただ幼稚化しただけで、だから孔子が超自然的存在を恐れたと記した。オカルトを説かないとメシが食えない儒者の宿痾(奥深く居座って治らない病気)というべきだが、彼らの偽作ゆえに本章は、オカルトに解してやらないと文意が取れない。
論語の本章、新古の注は次の通り。古注は前章と一体化しているが、本章とまとめて記す。
古注『論語集解義疏』
寢不尸註苞氏曰不偃臥四體布展手足似死人也居不容註孔安國曰為室家之敬難久也子見齊衰者雖狎必變註孔安國曰狎素相親狎也見冕者與瞽者雖䙝必以貌註周生烈曰䙝謂數相見也必當以貌禮也凶服者式之式負版者註孔安國曰凶服者送死之衣物也負版持邦國之圗籍者也有盛饌必變色而作註孔安國曰作起也敬主人之親饋也迅雷風烈必變註鄭𤣥曰敬天之怒也風疾雷為烈也
本文「寢不尸」。
注釈。包咸「手足を広げて寝ないことである。手足を広げると死人そっくりになるからである。」
本文「居不容」。
注釈。孔安国「家庭内で慎んだ表情を作るのは長続きしないからである。」
本文「子見齊衰者雖狎必變」。
注釈。孔安国「狎とは普段から見知りの者をいう。」
本文「見冕者與瞽者雖䙝必以貌」。
注釈。周生烈「䙝とはいわゆるよく会う人物である。それなりの表情を作るのが礼儀である。」
本文「凶服者式之式負版者」。
注釈。孔安国「凶服者とは葬列に着る服である。負版とは国家の文書を持ち運ぶことである。」
本文「有盛饌必變色而作」。
注釈。孔安国「作とは立ち上がることである。客として迎えられて、その家の主人がみずからご馳走を差し出したのに感謝するためである。」
本文「迅雷風烈必變」。
注釈。鄭玄「天の怒りを恐れ敬ったのである。風のすごいのや雷をともなうのを烈という。」
新注は次章と一体化しているが、本章部分のみ記す。
新注『論語集注』
寢不尸,居不容。尸,謂偃臥似死人也。居,居家。容,容儀。范氏曰:「寢不尸,非惡其類於死也。惰慢之氣不設於身體,雖舒布其四體,而亦未嘗肆耳。居不容,非惰也。但不若奉祭祀、見賓客而已,申申夭夭是也。」見齊衰者,雖狎,必變。見冕者與瞽者,雖褻,必以貌。狎,謂素親狎。褻,謂燕見。貌,謂禮貌。餘見前篇。凶服者式之。式負版者。式,車前橫木。有所敬,則俯而憑之。負版,持邦國圖籍者。式此二者,哀有喪,重民數也。人惟萬物之靈,而王者之所天也,故周禮「獻民數於王,王拜受之」。況其下者,敢不敬乎?有盛饌,必變色而作。敬主人之禮,非以其饌也。迅雷風烈,必變。迅,疾也。烈,猛也。必變者,所以敬天之怒。記曰:「若有疾風、迅雷、甚雨則必變,雖夜必興,衣服冠而坐。」此一節,記孔子容貌之變。
本文「寢不尸,居不容」
尸とは、死人のように寝ることである。居とは、家で過ごすことである。容とは、堅苦しい表情である。
范祖禹「寝るに尸せずとは、死体そっくりだからではない。だらけた気持が体を整えないからで、寝床が手足を伸ばすに十分であっても、のびのびとは寝ていけないのである。自宅での様子が堅苦しくなかったのは、だらけたわけではない。祭祀のような緊張はしないだけである。ただしお客が来たときには、申申夭夭と(論語述而篇4)伸びやかに過ごした。」
本文「見齊衰者,雖狎,必變。見冕者與瞽者,雖褻,必以貌。」
狎とは、普段から親しみのある者である。褻とは、気遣いなく会える関係の者である。貌とは、礼儀作法に用いる謹厳な表情である。論語泰伯篇4を参照せよ。
本文「凶服者式之。式負版者。」
式とは、車の前側に取り付けた横木である。敬うべき人に出会えば、うつむいて横木に手を付くのである。負版とは、国家の文書である。この二者にお辞儀したのは、葬儀を悲しみ、公文書の飛脚役を課される民を憐れんだからである。人は万物の霊長であり、王者だろうと人民を天であると見なした。だから『周礼』に「民の労役は王のためだが、それゆえ王はその奉仕を拝む」という。王より身分の低い者が、敬わないわけにはいかないだろうが。
本文「有盛饌,必變色而作。」
客として招かれ、主人がもてなすのを敬った。ご馳走が素晴らしいからではない。
本文「迅雷風烈,必變。」
迅とは素早いことである。烈とは激しいことである。必ず居住まいを改めたというのは、天の怒りを恐れたからである。『礼記』に「嵐や雷や大雨があったときは、必ず居住まいを正す。夜中だろうと、礼服を着る」とある。この一節は、孔子の表情や居住まいについての作法を記す。
「寝ている最中にも謹厳に振る舞え」とは、他人を怒鳴りつけて喜ぶ幼稚なサディズムに過ぎず(論語泰伯篇4余話「地位は人を愚かにする」)、現代なら「じゃ録画するからお前もそうしろ」と言い返される。寝ぎたなくよだれを垂らした画像を大写しにしてプリンタで刷られ、ベタベタと貼り出されることだろう。
宋儒のろくでもなさについては、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
馬に騎るやまい
論語の本章、語釈で取り挙げた柳宗元「蝜蝂伝」の全文訳は、次の通り。
蝜蝂者,善負小蟲也。行遇物,輒持取,卬其首負之。背愈重,雖困劇不止也。其背甚澀,物積因不散,卒躓仆不能起。人或憐之,為去其負。茍能行,又持取如故。又好上高,極其力不已,至墜地死。今世之嗜取者,遇貨不避,以厚其室,不知為己累也,唯恐其不積。及其怠而躓也,黜棄之,遷徙之,亦以病矣。茍能起,又不艾。日思高其位,大其祿,而貪取滋甚,以近于危墜,觀前之死亡,不知戒。雖其形魁然大者也,其名人也,而智則小蟲也。亦足哀夫!
蝜蝂は、ものを背負いたがる小虫で、歩き回って何かにぶつかると、首を下げて背にかつぐ。いつも一生懸命なご苦労様な虫である。背負いすぎて背中はすり切れてしまうが、おかげでザラザラとして、ものを背に載せてもずり落ちない。しかし何かの拍子でひっくり返ると、それでも荷物を離さず、もう自分では起き上がることが出来ない。
憐み深い人が虫の難儀を見て、荷物を取り払ってやる。ところがせっかく身軽になったのに、下ろされた荷物を探して、また背負う。また高いところへ上がりたがる習性があり、力の限り高さを極めようとする。そして墜落して死ぬまでやめない。
今の世で出世を追い求める者は、利益になると見れば必ずしがみつき、それで我が家を豊かにするのだが、自分で災いを積み上げているとは考えない。ただ地位財産が積み上がらないことを苦にする。気が緩んだすきに稼ぎがつまずくと、その仕事を放り投げ、旨味のありそうなほかの仕事に飛び付く。もう病気の一種だと言うしかない。
まだ起き上がる力があるうちは、決して儲け話を逃さない。毎日高みにのぼろうと願い、利益が多くなるよう企て、貪欲に利益を取り込んでますます財産を殖やす。だがそれは、やればやるほど危機に近づいているのだ。目の前に死の危険が待ち構えているのに、気付かないままでいて、自分を押しとどめることが出来ない。
そういう者は虫と比べたら体も大きいし、人間でござると威張っているが、智恵の程度は小虫と変わらない。悲しいことではないか。(「蝜蝂伝」)
柳宗元もまた科挙の合格者だが、通常科挙を通ったと言えば進士科出身者を指す。ところが柳宗元は進士出身の上に難関中の難関である宏辞科合格者で、文系おたくにメルヘンを足しっぱなしにした、普通の科挙合格者とはわけが違った。オカルトを否定したから天命も否定した。
なお柳宗元が合格した宏辞科とは、「長恨歌」で名が知れた玄宗の時代、科挙の合格者から更に古典に詳しい者を選んで皇帝の顧問官に取り立てたのが始まりで、wikiが「博学宏詞科に合格」と書いているのは、『新唐書』を編んだ宋儒のでっち上げで正しくない。
『新唐書』など正史の何たるかについては、論語郷党篇12余話「せいっ、シー」を参照。
柳宗元の仕えた唐帝国は、遣唐使を通じて日本人とも関係が深く、時に『大唐帝国』(宮崎市定)と呼んで中華王朝の代表のように見なしているが、帝室や権力中枢にあった貴族の多くは、いわゆる漢人ではなく鮮卑人だった。国教として道教を奉じた点も中華王朝らしくない。
これは帝室の姓が「李」で、前漢中期の『史記』以降、老子の本名が「李耳」であるとされたことからのコジツケだが、儒教を奉じる漢人に対して、一線を引くつもりがもちろんあった。鮮卑とは秦漢帝国と抗争した匈奴の末裔で、世界初のあぶみを発明した騎馬遊牧民だった。
唐は中華帝国として元成立直前のモンゴル帝国に次ぐ領域を持ったが、鮮卑人の気分がなければ、遠い中央アジアまで遠征軍を出そうとは考えなかったはずで、当時の杜甫は漢の武帝を描く振りをしながら、唐の遠征を「辺庭の流血、海水と成る」(「兵車行」)と批判した。
鮮卑人の気分とは、騎馬遊牧民に共通する、「政権は同族の利益を図るための連合の長」という考えである。だから族長は貴族階級の飽くなき欲望を満たすため、彼らに与える領地を獲得するための外征をやめられないし、貴族の利益を実現できない政権はすぐ解散する。
日本史で言うなら豊臣秀吉が朝鮮の併合を目論み、「死に場所が無くて気が狂ったか」と近臣にも罵倒されても強行したこと、さらには、帝政期の日本が軍人と官僚という特権階級をのさばらせた挙げ句、中国征服を企て、どちらも大失敗して政権が崩壊したのと同じ。
”漢の武帝→玄宗皇帝の領土拡張欲は、もう止まるに止まらない。”(杜甫「兵車行」)
秦漢帝国が匈奴と抗争を繰り返したのは、連年襲い来る匈奴の脅威を除くためで、武帝が幼稚な気分でタリム盆地を領有したのはやり過ぎというものだ(論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」)。それゆえ伝統的に漢人が住んだ領域は、秦や北宋や明の領域とほぼ重なる。
つまりもともと中華帝国は西洋史的帝国ではない。
支配下に漢人以外をほぼ含まないからだ。それでも帝国の実質を失わないのは、戦国時代にそれぞれの諸侯国が独立の気分を持っていたからで、それを打倒して併合したから始皇帝は皇帝を称した。ただし英語のemperor”最高命令者”の意ではなく”輝く宇宙の主宰者”の意。
話を唐に戻せば、唐帝国は貴族の連合体として始まり、帝室が最高命令権を握ろうと貴族と抗争し、それゆえ隋を引き継いで科挙を行い、皇帝個人の手下を増やそうと企んだ。だが唐が滅ぶまで、ついに貴族の力を圧倒できなかった。しかも科挙は国教でない儒教に従った。
ただし唐も盛りの頃はそれほど儒教に凝らなかった。当時、儒教経典は儒者がそれぞれ勝手な文字を書き付けた各種の本が出回って、異同異説だらけだったが気にしなかった。気にしたのは明らかに落ち目になった晩唐初期で、開成二年(837)の開成石経でようやく文字列の統一を図った。
それが分かるのは唐開成石経が現存するからで、ついでに碑を建てた翌年に、日本から最後の遣唐使がやって来て写しを取ったらしい。おそらく隋代の筆写になる慶大蔵論語疏には、文字の修正跡が残っているが、おそらく唐石経を見てたまげた日本人による、しおらしい仕事だろう。
詳細は論語の成立過程まとめを参照。
唐は軍制としては当初、北魏以来の府兵制(徴兵制)をとり、玄宗の頃から傭兵を使うようになったとするのが教科書的知識だが、実は国初から軍閥がはびこっていたし、兵隊には漢人ではない者がいくらでもいた。安禄山がトルコ系でも軍で出世出来たのは、珍しくなかったからだ。
つまり唐帝室は、漢人と非漢人、貴族と平民に、入れ替えつつ四本足を乗せていた。
何とも不安定な綱渡りが、唐帝室の稼業だった。『大唐帝国』は見せかけである。柳宗元は若くして科挙を通ったが、玄宗時代の安史の乱以降、唐は明らかに下り坂で、帝室は柳宗元を使いこなせなかった。結局政争で柳宗元はクビになり、地方に流されて四十代で世を去った。
「蝜蝂伝」はそれを踏まえないと誤訳のおそれがある。自分の頭脳に自信があった柳宗元は、「オレほどの才能を持っていてもこのざまだ。世間の連中はあくせくと、いったい何をすき好んで駈け回っているのか」と言いたかったのだ。おだてられた役人根性で書いたのではない。
今の人民共和国も、多民族を抱えた上で領土拡張に走っている点、伝統的中華国家らしくない。首領が世襲でないから「帝」国ではないが、あきらかに現代に再現されたempireで、しかもローマや中華帝国と異なって、同程度の巨大国家と普段の取引をしないと国が保たない。
それでなお拡張に走るというのだから、内部に貴族を抱えていることになる。ソ連が人民の平等をうたいながら、その実赤い貴族(ナメンクラトゥーラ)と呼ばれた共産党幹部が威張り、多民族を抱えるempireであったのと同じ。ただしソ連は領土拡張に走らなかった。
理由は二次大戦の戦勝で、欲しいところを取り尽くしたからと言えるが、取り尽くした結果、帝政時代と同じく全土の面倒を見切れなくなって崩壊した。スターリンの過酷な支配や民族ごとの強制連行を繰り返してこの結果である。中共はそこをうまくやるつもりなのだろうか?
無理だと思いますがね。蝜蝂や玄宗と同じで、やむにやまれぬのでしょうな。
参考記事
- 論語子罕篇24余話「全員押し込み強盗」
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