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論語詳解069里仁篇第四(3)ただ仁者のみ人を°

論語里仁篇(3)要約:庶民なら好き嫌いで判断を決めていいが、大勢の人の運命を背負う君子は、合理的な判断をしなければなりません。政治や軍事の場では、イヤな奴とも必要なら手を握っていいよ。孔子先生の打算的なお説教。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰唯仁者能好人能惡人

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰唯仁者能好人能惡人

後漢熹平石経

…人…

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「唯仁者、能好人、能惡人。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文唯 金文仁 甲骨文者 金文 能 金文好 金文人 金文 能 金文䛩 金文人 金文

書き下し

いはく、ただもののふたるもののみ、ひとこのむにあたひ、ひとにくむにあたふ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が言った。「ただ貴族らしい者だけが、人を好んだり、憎んだりできる。」

意訳

論語 孔子 せせら笑い
戦争政争に勝つためなら、悪党と手を握ってもかまわない。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「ただ仁者のみが正しく人を愛し、正しく人を悪むことが出来る。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「衹有仁者能正確地愛人,正確地恨人。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「ただ仁のあるものだけが、正確に人を愛し、正確に人を怨むことができる。」

論語:語釈

、「( 。」

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

唯(イ)

現伝本では「惟」と記している版がある。対して中国伝承で現存最古の宮内庁蔵論語注疏、日本伝承で現存最古の東洋文庫蔵清家本では「唯」と記す。論語の本章のこの部分については、文明本の本願寺坊主も改竄せず、以降日本伝承の古注系は「唯」として伝えた。

ただし元禄五年(1692)刊の早大蔵新注本では「惟」と記している。中国では一旦滅びた古注を日本から逆輸入して四庫全書に収めた際「唯」と記したが、同じ四庫全書会要の新注本は「惟」と記し、「惟之為言獨也」”惟とは、これだけがそう言える、の意である”と注釈している。

どうやら新注系統の中国儒者による書き換え、おそらくは宋儒による改竄が疑われる。動機は不明だが、宋儒の精神は科挙全盛という時代を背景にして極めて幼稚だったので、ただの自己顕示欲と理解するのが早い。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

字の由来から考えれば、”ただ~だけ”に「惟」を当てるのは間違いで、論語をわざと難しくして、自分に酔った儒者の幼稚心が発言しただけと言える。

唯 金文 唯 字解
(金文)

論語の本章では”~だけが”。初出は甲骨文。「ユイ」は呉音。字形は「𠙵」”くち”+「隹」”とり”だが、早くから「隹」は”とり”の意では用いられず、発言者の感情を表す語気詞”はい”を意味する肯定の言葉に用いられ、「唯」が独立する結果になった。古い字体である「隹」を含めると、春秋末期までに、”そもそも”・”丁度その時”・”ひたすら”・”ただ~だけ”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「唯」を参照。

「維」の初出は殷代末期の金文。ただし字形は部品の「隹」のみで、現行字体の初出は楚系戦国文字。戦国時代の金文に「惟」に比定されている字があるが、字形は「口」+「廿」+「隹」で、どうして「惟」に比定されたか明らかでない。金文では「唯」とほぼ同様に、”はい”を意味する肯定の語に用いられた。詳細は論語語釈「惟」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 論語 貴族
(甲骨文)

論語の本章では、「もののふたり」と訓読して”貴族らしさのある”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

孔子の生前、「仁」は単に”貴族(らしさ)”を意味したが、孔子没後一世紀後に現れた孟子は「仁義」”慈悲深さ”を発明し、それ以降は「仁」→「仁義」となった。その場合の訓読は「よきひと」が適当。詳細は論語における「仁」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では、”…であるもの”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

好(コウ)

好 甲骨文 好 字解
(甲骨文)

論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

惡(アク/オ)

䛩 金文 悪 字解
(金文)

論語の本章では”にくむ”。現行字体は「悪」。初出は西周中期の金文。ただし字形は「䛩」。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「アク」で”わるい”を、「オ」で”にくむ”を意味する。初出の字形は「言」+「亞」”落窪”で、”非難する”こと。現行の字形は「亞」+「心」で、落ち込んで気分が悪いさま。原義は”嫌う”。詳細は論語語釈「悪」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

検証

論語の本章は、定州竹簡論語にない。

また春秋戦国の誰一人引用していない。史書では、現伝『後漢書』の前に後漢の正史の地位にあった『東観漢記』の清代再建本に孔子曰くとして全文の引用があるのみ。それ以外で先秦両漢で本章が見られるのは、周の礼法をでっち上げるために前漢儒が書いた『小載礼記』のみ。

《秦誓》曰:「若有一个臣,斷斷兮無他技,其心休休焉,其如有容焉。人之有技,若己有之;人之彥聖,其心好之,不啻若自其口出。實能容之,以能保我子孫黎民,尚亦有利哉!人之有技,媢嫉以惡之;人之彥聖,而違之俾不通。實不能容,以不能保我子孫黎民,亦曰殆哉!」唯仁人放流之,迸諸四夷,不與同中國,此謂唯仁人為能愛人,能惡人。見賢而不能舉,舉而不能先,命也;見不善而不能退,退而不能遠,過也。好人之所惡,惡人之所好,是謂拂人之性,災必逮夫身。是故君子有大道,必忠信以得之,驕泰以失之。

礼記
『書経』秦誓篇にいわく、「ある家臣が、一芸のみに通じて他芸を知らないなら、つまらぬ事を考えずに働き、顔色にもそれが出る。人の持つわざとは、ただその人だけが持てば良いのだ。多芸多才な人とは、好きが高じてそうなったので、口で言うだけで無く本当に出来るものだ。そうした人を家臣に迎えるなら、我が子孫や民百姓を栄えさせるのに、大いに役立つに違いない。だが一芸の人は、その芸ゆえに妬まれ嫌われる。多芸多才な人でも、分野が違えば出来ない事がある。それを承知しないで家臣に迎えないなら、我が子孫や民百姓を栄えさせるのに、大いに差し支えるに違いない。」と。

ただ仁者だけが、蛮族の国に流されても、中華の風習にこだわらない。これが「ただ仁者だけが人を愛し、憎むことが出来る」を表している。賢者を見ても採用できない、採用しても昇進させられないことがあるが、それは時運のせいで仕方がない。悪事と知りながらまぜろと近寄り、仮に離れても未練がましく見ているのは、自分が仕出かした過ちだ。

人が嫌うことを好み、好む事を嫌うのを、人好きのしない性格という。叩き直さないといずれ災いが降りかかる。だから君子には従うべき大原則があるのだが、それに従えるのは必ず真心の作用であり、おごり高ぶっていてはその道を踏み外す。(『小載礼記』大学14)

ただし文字史的には論語の時代まで遡りうるので、とりあえず史実として扱う。なお「正史」のなんたるかは、論語郷党篇12余話「せいっ、シー」を参照。

解説

上記の通り、論語の本章が漢儒の創作である可能性は低いとは言えないのだが、史実として本章を見た場合、かえって「仁」の何たるかを説明している。孔子の弟子が目指した春秋の君子とは貴族のことで、貴族がわきまえるべき常識を「礼」と言った

孔子の生前、「礼」は文章化され固定化されていなかったし、礼儀作法などの狭い意味しか持たなかったわけではない。政治軍事に携わる貴族として、臨機応変に判断するための常識だった。「政界は一寸先は闇」は春秋時代も同じで、ましていくさはマニュアルで戦えはしない。

その判断には極めて冷徹な、合理性がなければならなかった。そうでないと負けてしまうからだ。君子に対して戦国時代以降は庶民を小人と呼んだが、小人は好き嫌いで判断しても、迷惑がかかるのは自分だけで済む。しかし君子が判断を誤れば、国を滅ぼしかねなかった。

だから「礼」をわきまえた君子、つまり貴族らしい貴族=仁者だけが、多くの人々に影響を与えうる判断を正しく出来る、と孔子は本章で語った。イヤな奴でも政治軍事的に利益があるなら、にこやかに手を繋いでも全然構わないというわけである。

孔子自身、のちに悪党呼ばわりされる三桓=魯の門閥貴族三家と親しかったし、「梁父の大盗」と呼ばれた春秋の大親分、顔濁鄒と盃を交わしていた。だから魯国を追い出されても全然困りもせず、真っ直ぐに衛国にある親分の屋敷に向かいわらじを脱いだ(『史記』孔子世家)。

武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候。


武士は犬と言われようとケダモノと言われようと、勝つことだけが務めです。(『朝倉宗滴話記』)

孔子の生きた春秋時代は乱世で、当時の君子はほぼ例外なく戦士を兼ねた。命がけで国防を担うから、社会が特権を認めたのだ。孔子塾は庶民が貴族の教養と技術を身につけ、君子に成り上がるための学塾だったし、朝倉宗滴の気分は多分に孔子とその直弟子たちも共有していた。

一方孔子を教祖として、神に近い聖者のような、聖人としてあがめさせ﹅﹅なければ商売にならなかった戦国以降の儒者は、「必要だったら悪党と手を組んでもいいよ」という本章の言葉は困るわけで、仁を仁義と言い張った孟子も、存外本章あたりに困って仁義を開発したのかも。

余話

ナマコのような明代

本サイトでたびたび紹介する明代の笑い話集『笑府』は、驚くべきことに「仁」がただの一字も出てこない。明と言えば開祖の朱元璋が、朱子学を国教とし論語を含む四書を科挙(高級官僚採用試験)の必須科目に据えたほどだから、「仁」が日常にありふれた言葉だったはず。

また儒者の偽善も相当だったし、それをからかう話は『笑府』にいくつもあるから、「仁」を気取る儒者がネタになっていてもおかしくないのだが、一字も無いうらにはそれ相応の事情があると思われる。その一つは、明が帝室のお家争いで、一旦滅んでいると言えるからだ。

開祖の洪武帝朱元璋は、自身が読書家だっただけに、儒教的説教をしつこく社会にすり込み、恐怖の思想弾圧で官民共に大人しくさせた、ことになっている。だが朱元璋が死ぬとそのタガが一気に外れて、早世した朱元璋の太子の子・建文帝と、四男永楽帝の間で内乱になった。

いわゆる靖難の変だが、うるさくお説教を説いていた帝室が、叔父と甥で殺し合い、最後は甥ではあるが至尊の地位にあった皇帝が殺され、逆賊のはずの永楽帝が取って代わった。立て前と本音がこれほど乖離した事件も珍しく、それゆえか明帝国は比較的「だらしなく」見える。

儒者がワイロ取りなのは漢儒の頃からそうだったし、偽善と高慢ちきも宋儒の頃からそうだった。だが明儒のだらしなさは後漢儒に匹敵するもので(論語解説「後漢というふざけた帝国」)、明が滅んだときも律儀に王朝に殉じた儒者はほとんど出なかった。『笑府』の編者はその例外である。

明はまず内乱で滅んだのだが、滅ぼした李自成を儒者は揃って拝んだすぐ後で、押し込んできた満洲軍の頭領であるドルゴンが李自成を追うと、やはり揃ってドルゴンを拝んだ。こういう無節操から明帝国がだらしなく見えるのだが、これも靖難の変が与えた影響と言ってよい。

明末清初の大儒と讃えられる顧炎武黄宗羲も、「弁髪を結うのがイヤだ」と言って表向き道士になったふりはしたが、蛮族呼ばわりしていた満洲王朝の、康煕帝時代までのうのうと生きた。朱子学的価値観からはおよそ考えられぬ事だが、存外これが中華文明の一部になった。

崖山の戦いのような、壮烈であるが誰も得をしないことに興味を失い、つまりは自分の利益になることしか考えなくなった。だからこそ以降の歴代中国政府が、口を酸っぱくして愛国を説教しても、もはや誰も真に受けなくなった。これはこれで、人間の生存にかなっている。

ただし、これは訳者が中国人でないから言えることだ。では『笑府』から、明儒のありさまの一例を紹介しよう。

鼠與蜂約為兄弟。固邀一秀才與盟。秀才不得已。往列之行三。人問曰。公何以屈于鼠輩之下。答曰。他兄弟輩。一會鑚。一會刺。我只索讓他罷了。


ネズミとハチが義兄弟の契りを交わした。箔を付けるために儒者にもこの契りに加わって貰おうと頼むと、儒者は仕方なく加わった上に、何と末弟の地位に甘んじた。

ある人「なんでまた、ネズミやハチの弟分になられた?」
儒者「止むをえんでござろう。兄者の一方は隠れるのがうまく、もう一方は刺す(チクる)のがうまい。弟分にならないと大変な目に遭うのでござる。」(『笑府』巻二・鑚刺)

原文には「箔を付ける」うんぬんは無いのだが、『三国志演義』の劉備・関羽・張飛以来、義兄弟の契りと言えば三兄弟と決まっており、ネズミとハチだけでは完結しないのだった(論語先進篇5余話「最小の幸せな数」)。関連する話をやはり『笑府』から引こう。

漢時有一神相來訪劉玄德。劉使觀相。々者曰。汝相甚好。白面而白心。因令相雲長。相者曰。汝相亦好。赤面而赤心。劉聞之。急握張翼德手曰。三阿弟險矣。莫相罷。


後漢末の乱世。よく当たると評判の易者が劉備玄徳のもとを訪れた。劉備は喜んで見て貰った。

易者「たいへん立派な人相をしておられる。白面(美男)で白心(無欲)です。」

関羽雲長も見て貰った。易者「あなたも立派な面相をしておられる。赤面(武勇絶倫)で赤心(真心一途)です。」

劉備はそれを聞くと、「オレも見て貰う」と言い出した張飛翼德を止めた。
「お前さんの顔はいかつ過ぎて、何を言われるか分からない。よしたほうがいいぞ弟者。」(『笑府』巻四・三阿弟)

ともあれ明儒がこうなっちゃった原因になった、洪武帝のお説教は次の通り。

孝順父母。尊敬長上。和睦郷里。教訓子孫。各安生理。毋作非為。


父母に孝行しなさい。年上や目上を敬いなさい。隣近所で仲良くしなさい。子孫をよく教育しなさい。生まれ持った境遇に満足しなさい。悪いことをしてはいかん。(明洪武帝『六諭』)

ところが、である。中国史の面白いところはこの後で、明が滅び清が制覇すると、『六諭』は社会を維持すべき根本道徳として貴ばれた。満洲人の真面目さというか「人の夢」と書くはかなさと言うべきか、康煕帝の頃まで皇帝でも自信が持てず、儒教を真に受けた節がある。

日本人も同様で、『六諭』の解説書が江戸時代に大流行した。それを『六諭衍義』というのだが、「孝順父母」部分の解説だけでこんなに長い(wikipedia)。以下の画像は「孝順父母」部分・全10ページのうち1ページだけにすぎない。

『六諭衍義』阪巻・宝玲文庫(ハワイ大学所蔵)

『論語』里仁篇:現代語訳・書き下し・原文
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