論語詳解074里仁篇第四(8)朝に道を聞かば°

論語里仁篇(8)要約:何かを成し遂げるなら、全力で取り組まなくてはいけない。求めるものが手に入ったら、もう死んでもいいと思えるほどに。孔子先生はそうたとえました。それは人格修養でも、政治改革でも同じです、というお話。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「朝聞道、夕死可矣。」

校訂

定州竹簡論語

曰:「朝聞道,夕死可□a。」66

  1. 可□、阮本作「可矣」、漢石経作「可也」。

※『論語集釋』によると、漢石経は「矣」を「也」と書いているという。


→子曰、「朝聞道、夕死、可矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 朝 金文聞 金文道 金文 夕 金文死 金文 可 金文已 矣金文

矣→已。

書き下し

いはく、あしたみちかば、ゆふべすとも、なり

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

孔子 切手
朝のうちに正しい道を伝え聞いたなら、その日の夕方に死んでも、きっといい。

意訳

君子 諸君 孔子
同志諸君。例えば理想の実現法をある朝に知ったら、その日のうちに死んでしまっても悔いはない。それぐらいの覚悟を固めてくれ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「朝に真実の道をきき得たら、夕には死んでも思い残すことはない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「早上理解真理,晚上死也值得。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「朝に真理を理解したら、夕方の死も価値がある。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

、「 。」

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間から金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。詳細は論語と日本儒教史を参照。

朝(チョウ)

朝 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”あさ”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。

聞(ブン)

聞 甲骨文 聞 甲骨文
(甲骨文1・2)

論語の本章では”伝え聞く”。「モン」は呉音。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「斧」+「人」で、斧は刑具として王権の象徴で、殷代より装飾用の品が出土しており、玉座の後ろに据えるならいだったから、原義は”王が政務を聞いて決済する”。詳細は論語語釈「聞」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
「道」(甲骨文・金文)

論語の本章では”正しい方法”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。

夕(セキ)

月 甲骨文 夕 字解
(甲骨文)

論語の本章では”夕暮れ時”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。甲骨文の段階では「月」と未分化。中に一画あるものを「夕」、無いものを「月」と区別するとされるが比定は曖昧。甲骨文では原義に、金文でも原義に用いた。詳細は論語語釈「夕」を参照。

メイタンセキに迫る」とは、余命が「旦」=日の出か「夕」=日の入りかに尽きようとすることで、今にも死にそうになること。以下は余談。

石炭列車

Photo by 昔の鉄道マニア https://tetsumaru.jp/user/176/photo/16178/

炭鉱で栄えた北海道の夕張には、国鉄私鉄の路線上を、車番号に「セキ」と白書きされた石炭車が行き来していた。「セ」は石炭車を、「キ」は25t以上の積載量を表し、まるまる「セキタン」の略ではなかったが、地名との関係なら、それを思った夕張市民もいたに違いない。

死(シ)

死 甲骨文 死 字解
(甲骨文)

論語の本章では”死亡”。字形は「𣦵ガツ」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…してもよい”。積極的に”…せよ”の意ではない。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”…できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”…できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)…である”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。同音で同義の「已」が、論語時代の置換候補になる。字形の下部は「矢」だが、上部の由来は明瞭でなく、原義も明瞭でない。初出の金文は”…である”だと解釈されている。詳細は論語語釈「矣」を参照。

朝聞道夕死可矣

論語の本章は、「朝」が聞くわけでも、「夕」が死ぬわけでもない。後半が一句なら、「夕可死矣」となるべきところ、「可」と「死」が入れ替わっている。従って本章は三句構成「朝聞道、夕死、可矣。」で、当時の口語を伝えたものと思う。

論語 孔子
ある朝道を聞き知ったら、夕方には死んでも、それでぜんぜん構わない。

論語:解説・付記

論語の本章は、文字史的にも用法的にも史実を疑えない珍しい章だが、春秋戦国の誰一人引用していない。事実上の再出は定州竹簡論語で、それに次ぐのはやや時代が下る前漢劉向の『新序』に、孔子の言葉として全文引用されている。

楚共王有疾,召令尹曰:「常侍莞蘇與我處,常忠我以道,正我以義,吾與處不安也,不見不思也。雖然,吾有得也,其功不細,必厚爵之。申侯伯與處,常縱恣吾,吾所樂者,勸吾為之;吾所好者,先吾服之。吾與處歡樂之,不見戚戚。雖然,吾終無得也,其過不細,必前遣之。」令尹曰:「諾。」

明日,王薨。令尹即拜莞蘇為上卿,而逐申侯伯出之境。曾子曰:「鳥之將死,其鳴也哀;人之將死,其言也善。」言反其本性,共王之謂也。孔子曰:「朝聞道,夕死可矣。」於以開後嗣,覺來世,猶愈沒世不寤者也。

劉向
(明君で知られる)楚の共王が死の床に就き、令尹(楚の宰相)を呼んで言った。

「侍従の莞蘇はわしに侍るとき、いつも忠義を尽くしてワシをいさめ、正道へ戻してくれた。たしかに口うるさくて、不愉快だから無視していたが、それでもワシに大いに尽くしてくれた。その功績は小さくない。ワシの死後、必ず高い爵位を与えよ。

申侯伯はワシに侍るとき、いつもワシに好き勝手をさせた。ワシが面白がることを探してきては、ワシに勧めたものじゃ。それも事前に自分で試してから、ワシに話を持ちかけた。ワシは申侯伯がそばに居ると愉快で、そばに居ないと寂しかった。だがついに、ワシのためになることをせなんだ。その罪は軽くない。わしの目の黒いうちに、宮廷から追い出せ。」

令尹「かしこまりました。」

翌日、共王は死んだ。令尹は莞蘇を上級閣僚に引き揚げ、申侯伯は国外追放に処した。

曽子は言った。「鳥が死ぬ間際の声は哀しい。人が死のうとするとき、その言うことはよい」と。感情に逆らってよいことを言ったのは、まさに共王である。孔子は言った。「ある朝道を聞き知ったら、その日の夕方に死んでも悔いは無い」と。

そう言って後人の生きる道を開き、将来の分からず屋を目覚めさせようとしたのだが、世には死んでも分からない者がうじゃうじゃいるのに、まことに優れた人たちである。(『新序』雑事一10)

論語の本章は、革命家孔子の面目を伝える言葉で、おとなしい、ただのもの知り爺さんではなかったことを物語る(論語衛霊公篇3)。貴族成り上がり塾の経営者としての孔子が、一般塾生にこんな事を言えば逃げ出されるので、聞き手は政治工作に携わった初期の高弟たちだろう。

論語の本章について、古注は悲観的なことを書いている。

古注『論語集解義疏』

鄭玄 馬融 古注
注。その日の夕方に死んでもいい、とは、今にも死のうとしているのに、世に正しい道があるという話を聞かない、ということだ。

付け足し。本章は、世の中に道がないことを嘆いたのだ。だからもし朝に、道があるという話を聞いたなら、その日の夕方に死んでも悔いはない、と言ったのだ。だから可=死んでもいい、と言った。

ランチョウいわく、「道が民を救える理由は、聖人がいてその道を行ってくれるからだ。道を用いて民を救うなら、自分の身は救わない。だから本当に道があると朝方に聞いたなら、夕方には死んでもいいと言ったのだ。道がダメになって行われないなら、もう世の終わりは見えていて、やはり世を嘆いて身を保とうとはしないのである。」(『論語集解義疏』)

古注が記した後漢というのはひどい時代で、ひたすら偽善をこととする清流派と、やや偽善の程度がおとなしかった濁流派が官界で争い、これに宦官や外戚が加わって、些細な発言が処刑につながった。馬融も鄭玄もそうした偽善の悪党の一人だが、同情できなくもない。

清儒・程樹徳はこの事情について以下のように言っている。

按:魏晉時代道家之說盛行,此章之義正可藉以大暢玄風。當時注輪語者,此等迎合潮流之書當復不少,而何氏皆不採,獨用己説,其見解已非時流所及。皇氏生齊梁之世,老庄之外,雜以佛學,其時著述尤多祖尚玄虚,如王弼之論語釋疑、郭象之論語體略、太史叔明之論語集解,皆出入釋老,亦當代風趨使然也。乃皇氏獨引欒肇以申注義,並不兼採以廣其書,其特識尚在宋儒之上。沈堙幾數百年,終能自發其光,晦而復顯,蓋其精神有不可磨滅者在也。

程樹德
魏晋時代は道家の説が世間に流行して、本章のことばは取りあげるにうってつけだったので、大いに道家風に解釈された。当時論語に注を付けた人物は、こうした世間の風潮に迎合して、そのような本が少なからず出回っていた。

ところが古注をまとめた何晏は、そうした本には目もくれず、自分の説だけを書き記したので、古注の見解は時流とはそぐわなかった。同じく古注の撰者の一人である皇侃は、南朝・斉の時代に生まれ、梁の世を生き、当時は老荘思想の他に、仏教思想まで入っていた。

だから当時の著述は仏教道教の虚無論が大流行りで、王弼『論語釋疑』、郭象『論語体略』、太史叔明『論語集解』などは、すべて仏教や道教、さらには当時の虚無主義の影響を受けている。

ところが皇侃は、ただ欒肇の説に従って注釈を書き、それ例外の書籍を参照しなかったので、かえってその慧眼は宋儒の上に出た。論語の真意が道教仏教によって覆い隠されること数百年、遂に再びその光が輝き、闇から明るみに出た。私はその功績を思うと、今なおすり減らずに残っているように感じる。(『論語集釋』)

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だし、訳者に連絡のお気遣いも不要だが(ただしネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。

言い訳無用。訳者が「やった」と思えば全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。空港の刃物検査通過は、やったことがあるが存外簡単だ。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。朴ったら○すぞ。それでもやるなら、覚悟致せ。



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