論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰朝聞道夕死可矣
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰朝聞道夕死可矣
※「矣」字、京大本、宮内庁本同。
後漢熹平石経
子白朝聞道夕死可也
- 「朝」字、へん下〔十〕→〔┬〕
- 「道」字、〔辶〕→〔辶〕。
定州竹簡論語
子曰:「朝聞道,夕死可□a。」66
- 可□、阮本作「可矣」、漢石経作「可也」。
標点文
子曰、「朝聞道、夕死、可也。」
復元白文(論語時代での表記)
書き下し
子曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも、可しき也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
朝のうちに正しい道を伝え聞いたなら、その日の夕方に死んでもいいなあ。
意訳
弟子の諸君。貴族になるには覚悟が必要だ。そのあるべき姿を知ったなら、その日のうちに命を終えるつもりで修行しなさい。
従来訳
先師がいわれた。――
「朝に真実の道をきき得たら、夕には死んでも思い残すことはない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「早上理解真理,晚上死也值得。」
孔子が言った。「朝に真理を理解したら、夕方の死も価値がある。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。
朝(チョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”あさ”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。
聞(ブン)
(甲骨文1・2)
論語の本章では”伝え聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。詳細は論語語釈「聞」を参照。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”正しい方法”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。
夕(セキ)
(甲骨文)
論語の本章では”夕暮れ時”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。甲骨文の段階では「月」と未分化。中に一画あるものを「夕」、無いものを「月」と区別するとされるが比定は曖昧。甲骨文では原義に、金文でも原義に用いた。詳細は論語語釈「夕」を参照。
「命旦夕に迫る」とは、余命が「旦」=日の出か「夕」=日の入りかに尽きようとすることで、今にも死にそうになること。以下は余談。
炭鉱で栄えた北海道の夕張には、国鉄私鉄の路線上を、車番号に「セキ」と白書きされた石炭車が行き来していた。「セ」は石炭車を、「キ」は25t以上の積載量を表し、まるまる「セキタン」の略ではなかったが、地名との関係なら、それを思った夕張市民もいたに違いない。
死(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”死亡”。字形は「𣦵」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”…してもよい”。積極的に”…せよ”の意ではない。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
矣(イ)→也(ヤ)
現存最古の論語本である定州竹簡論語では章末は判読不能だが、漢石経では「也」と記し、唐石経と清家本では「矣」と記す。時系列から漢石経に従い校訂した。漢石経は後漢末の霊帝熹平年間に建立された石碑で、論語の他儒教経典を含む。直後に三国の動乱があり、現在では破片のみ残る。清家本は年代こそ唐石経より新しいが、唐石経より前の古注系の文字列を伝承している。論語の本章に関して、清家本が漢石経に対して「矣」と記すのは、三国から南北朝時代に字の書き換えがあったことを示す。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
(金文)
「也」は論語の本章では、「かな」と読んで詠歎の意。「なり」と読む断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
朝聞道夕死可也
論語の本章は、「朝」が聞くわけでも、「夕」が死ぬわけでもない。後半が一句なら、「夕可死也」となるべきところ、「可」と「死」が入れ替わっている。従って本章は三句構成「朝聞道、夕死、可也。」、「朝」「夕」は副詞で、当時の口語を伝えたものと思う。
ある朝道を聞き知ったら、夕方には死んでも、それで構わないね。
論語:付記
検証
論語の本章は、文字史的にも用法的にも史実を疑えない珍しい章だが、春秋戦国の誰一人引用していない。事実上の再出は定州竹簡論語で、それに次ぐのは竹簡埋蔵時に22歳ほどだった前漢劉向の『新序』に、孔子の言葉として全文引用されている。
楚共王有疾,召令尹曰:「常侍莞蘇與我處,常忠我以道,正我以義,吾與處不安也,不見不思也。雖然,吾有得也,其功不細,必厚爵之。申侯伯與處,常縱恣吾,吾所樂者,勸吾為之;吾所好者,先吾服之。吾與處歡樂之,不見戚戚。雖然,吾終無得也,其過不細,必前遣之。」令尹曰:「諾。」
明日,王薨。令尹即拜莞蘇為上卿,而逐申侯伯出之境。曾子曰:「鳥之將死,其鳴也哀;人之將死,其言也善。」言反其本性,共王之謂也。孔子曰:「朝聞道,夕死可矣。」於以開後嗣,覺來世,猶愈沒世不寤者也。
(明君で知られる)楚の共王が死の床に就き、令尹(楚の宰相)を呼んで言った。
「侍従の莞蘇はわしに侍るとき、いつも忠義を尽くしてワシをいさめ、正道へ戻してくれた。たしかに口うるさくて、不愉快だから無視していたが、それでもワシに大いに尽くしてくれた。その功績は小さくない。ワシの死後、必ず高い爵位を与えよ。
申侯伯はワシに侍るとき、いつもワシに好き勝手をさせた。ワシが面白がることを探してきては、ワシに勧めたものじゃ。それも事前に自分で試してから、ワシに話を持ちかけた。ワシは申侯伯がそばに居ると愉快で、そばに居ないと寂しかった。だがついに、ワシのためになることをせなんだ。その罪は軽くない。わしの目の黒いうちに、宮廷から追い出せ。」
令尹「かしこまりました。」
翌日、共王は死んだ。令尹は莞蘇を上級閣僚に引き揚げ、申侯伯は国外追放に処した。
曽子は言った。「鳥が死ぬ間際の声は哀しい。人が死のうとするとき、その言うことはよい」と。感情に逆らってよいことを言ったのは、まさに共王である。孔子は言った。「ある朝道を聞き知ったら、その日の夕方に死んでも悔いは無い」と。
そう言って後人の生きる道を開き、将来の分からず屋を目覚めさせようとしたのだが、世には死んでも分からない者がうじゃうじゃいるのに、まことに優れた人たちである。(『新序』雑事一10)
解説
論語の本章は、革命家孔子の面目を伝える言葉で、おとなしい、ただのもの知り爺さんではなかったことを物語る(論語衛霊公篇3)。貴族成り上がり塾の経営者としての孔子は、論語里仁篇4に見えるような不真面目な弟子にも、こう言って発破を掛けた。
革命家と言っても孔子のそれは、既存の権力を丸ごとひっくり返すのではなく、当時の権力に必要な人材を提供する事で、庶民から貴族への成り上がりを助長する法をとった。もちろん墨子が証言するように国際的な陰謀を働きもしたが、目的はひとえに弟子の仕官だった。
だが現在では想像も付かない身分制社会の春秋時代にあって、社会の底辺に生まれながら、由緒ある魯国の宰相に上り詰めた孔子は、まぎれもない革命家だった。いわゆる易姓革命と呼ばれる中国の王朝交替や、真っ赤な旗を掲げる共産革命だけが、革命というわけではない。
漢語「革命」が現れるのは意外に遅く、中国では戦国時代の編纂と信じられている史書『逸周書』で、それを真に受けないなら何と後漢の『白虎通義』まで時代が下る。「天命」の発想は西周中期の金文(「新收殷周青銅器銘文暨器影彙編」NA1607)に見られるが、それが「革まる」革命の概念は、まだ周王朝が続いている孔子の生前にはあったと考えにくい。
ただし鉄器や小麦生産や弩(クロスボウ)の実用化で、孔子の生きた春秋後半の世が沸き立っていたことは間違いなく、だからこそそうした世の中について行けない血統貴族が力を失い、同時に当時の実務に長けた孔子塾の卒業生に人材的需要が出来た。
それでも庶民が君子=貴族の何たるかを普通に知っているほど身分制はヤワではなかったから、孔子は本章のようなことを言って発破を掛ける必要があった。その貴族の覚悟とは、一に戦場働きをする覚悟、二に公共に奉仕する覚悟、三に荷の重い勉強と稽古に励む覚悟だった。
論語の本章について、古注は悲観的なことを書いている。
古注『論語集解義疏』
子曰朝聞道夕死可矣註言將至死不聞世之有道也註言將至死不聞世之有道也疏歎世無道故言設使朝聞世有道則夕死無恨故云可矣欒肇曰道所以濟民聖人存身為行道也濟民以道非為濟身也故云誠令道朝聞於世雖夕死可也傷道不行且明已憂世不為身也
本文「子曰朝聞道夕死可矣」。
注。その日の夕方に死んでもいい、とは、今にも死のうとしているのに、世に正しい道があるという話を聞かない、ということだ。
付け足し。本章は、世の中に道がないことを嘆いたのだ。だからもし朝に、道があるという話を聞いたなら、その日の夕方に死んでも悔いはない、と言ったのだ。だから可=死んでもいい、と言った。
欒肇いわく、「道が民を救える理由は、聖人がいてその道を行ってくれるからだ。道を用いて民を救うなら、自分の身は救わない。だから本当に道があると朝方に聞いたなら、夕方には死んでもいいと言ったのだ。道がダメになって行われないなら、もう世の終わりは見えていて、やはり世を嘆いて身を保とうとはしないのである。」(『論語集解義疏』)
古注の儒者が生きた後漢というのはひどい時代で、ひたすら偽善をこととする清流派と、やや偽善の程度がおとなしかった濁流派が官界で争い、これに宦官や外戚が加わって、些細な発言が処刑につながった。馬融も鄭玄もそうした偽善の悪党の一人だが、同情できなくもない。
本章の注は無記名だから、後漢から三国にかけて生きた何晏の筆だが、その時代は後漢社会の乱脈に加えて、饑饉と戦争が続いた。安能務は「信じられないほど人間不信が広まった時代」という。更に疫病も流行し、医書『傷寒論』の著者・張仲景の一族はほぼ全滅している。
私の一族はもとは大勢いて、二百人を過ぎていただろうか。だが漢末の建安年間(196-220)以降、十年と過ぎないうちに、一族の三分の二が死に絶えてしまった。その中で、寒さと栄養失調による死者は七割に上る。(『傷寒論』張仲景原序)
余話
清儒に怪しまれる宋儒
このような時代背景について、清儒・程樹徳は以下のように言っている。
按:魏晉時代道家之說盛行,此章之義正可藉以大暢玄風。當時注輪語者,此等迎合潮流之書當復不少,而何氏皆不採,獨用己説,其見解已非時流所及。皇氏生齊梁之世,老庄之外,雜以佛學,其時著述尤多祖尚玄虚,如王弼之論語釋疑、郭象之論語體略、太史叔明之論語集解,皆出入釋老,亦當代風趨使然也。乃皇氏獨引欒肇以申注義,並不兼採以廣其書,其特識尚在宋儒之上。沈堙幾數百年,終能自發其光,晦而復顯,蓋其精神有不可磨滅者在也。
魏晋時代は道家の説が世間に流行して、本章のことばは取りあげるにうってつけだったので、大いに道家風に解釈された。当時論語に注を付けた人物は、こうした世間の風潮に迎合して、そのような本が少なからず出回っていた。
ところが古注をまとめた何晏は、そうした本には目もくれず、自分の説だけを書き記したので、古注の見解は時流とはそぐわなかった。同じく古注の撰者の一人である皇侃は、南朝・斉の時代に生まれ、梁の世を生き、当時は老荘思想の他に、仏教思想まで入っていた。
だから当時の著述は仏教道教の虚無論が大流行りで、王弼『論語釋疑』、郭象『論語体略』、太史叔明『論語集解』などは、すべて仏教や道教、さらには当時の虚無主義の影響を受けている。
ところが皇侃は、ただ欒肇の説に従って注釈を書き、それ例外の書籍を参照しなかったので、かえってその慧眼は宋儒の上に出た。論語の真意が道教仏教によって覆い隠されること数百年、遂に再びその光が輝き、闇から明るみに出た。私はその功績を思うと、今なおすり減らずに残っているように感じる。(『論語集釋』)
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