(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・書き下し
原文
子曰、「賜也、女*以予爲多學而識之者與。」對曰、「然、非與。」曰、「非也。予一以貫之。」
校訂
武内本
唐石経汝を女に作る。
定州竹簡論語
子曰:「賜a,女以予為多學而志b之者與?」對曰:「[然,非與]?」414……[也,予一以貫之]。」415
- 今本”賜”下有”也”字。
- 志、今本作”識”。
→子曰、「賜、女以予爲多學而志之者與。」對曰、「然、非與。」曰、「非也。予一以貫之。」
復元白文(論語時代での表記)
※予→余・「志」→「識」・貫→毌。論語の本章は、「以」「也」「之」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、賜や、女予を以て多く學び而之を志るす者と爲す與。對へて曰く、然り。非る與。曰く、非る也。予一以て之貫く。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「賜(=子貢)よ、お前は私を多く学んで書いた者だと思うか。」子貢が答えて言った。「その通りです。違うのですか。」先生が言った。「違うのだ。私はたった一つで貫いてきた。」
意訳
孔子「子貢や、お前は私を、読書と物書きが趣味の、ただのもの知りじいさんと思っているのか。」
子貢「ええ、そうですよ。違うのですか?」
孔子「違う。私はひたすらに、政治の道を歩んできたのだ。」
従来訳
先師がいわれた。――
「賜よ、お前は私を博学多識な人だと思つているのか。」
子貢がこたえた。――
「むろん、さようでございます。ちがっていましょうか。」
先師――
「ちがっている。私はただ一つのことで貫いているのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「子貢啊,你以為我是學得多才記得住的嗎?「對,難道不是嗎?「不是,我是用一個基本思想貫徹始終的。」
孔子が言った。「子貢よ、お前は私を沢山学んで記憶した者と思っているのか?」「そうです、よもや違わないでしょうね?」「違う。私は基本的な考えをずっと貫いてきたのだ。」
論語:語釈
賜(シ)
(甲骨文・金文)
孔子の弟子、子貢のいみな。子貢については、論語の人物:端木賜子貢を参照。
『字通』によると、賜はもと易と形が同じで、のち爵=酒壺にスズメ形の翼を取り付けた手のひらサイズの杯の、注ぎ口と取っ手と、注ぐ酒を象形的に表した形という。論語の時代には、褒美として爵に満たした酒を与える例があった。爵位の語源はこれで、君主とサシで飲む栄誉を、「対飲」という。ここから”たまう”の意が生まれた。
女
(甲骨文・金文)
論語の本章では、さんずいがついた「汝」と同じく、”なんじ・お前”。詳細は論語語釈「女」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”~を”・”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
予
初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdi̯o。同音に余、野などで、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいう。「豫」は本来別の字。詳細は論語語釈「予」を参照。
(甲骨文)
論語の本章では”これ”・”まさに”。後者は直前の動詞を強調し、意味内容を持たない。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
識之→志之
「識」(金文)/「志」(戦国末期金文)
論語の本章では”これを知る”。解釈によっては、”これを記す”と主張するが、定州竹簡論語ではその通り、「志」=”記す”と書いている。
「識」の初出は西周早期の金文で、初出の字形は「戠」、「戈」+”棒杭”。「戠」の語義は兵器の名とも、土盛りとも、”あつまる”の意ともされるが、初出は”知る”の意と解せる。論語語釈「識」を参照。
「志」の初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は”知る”→「識」を除き存在しない。字形は「止」”ゆく”+「心」で、原義は”心の向かう先”。詳細は論語語釈「志」を参照。
然
(金文・篆書)
論語の本章では、”その通り”。肯定の返答を言う。『字通』によると、もと燃と字が同じで、原義は犬肉を焼いて、その脂が燃えること。古くは犬肉を天を祭る供え物として焼き、その臭いに天が感応するという。
『学研漢和大字典』も語源については同じで、セン・ネンという指示詞に然の字を当て、”しかり・その通り”の字とし、燃える意味には下にれっかを付けて燃を作り、区別するようになったという。ただしセン・ネンにどのような字がもと当てられていたかは記されていない。
中国語は殷代半ばまで文字を持たなかったから、もともと無かったのかも知れない。『字通』にも甲骨文が記されていないので、殷代の遅くか周代に入ってから、この文字が現れたのかも知れない。また、”しかり”の意になったのは、犬肉の臭いが漂った事で天が祭祀を受け入れた事とし、”しかり”の意になったと思いたいが、想像の域を出ない。
詳細は論語語釈「然」を参照。
予一以貫之
「貫」(金文大篆)
「われ一以て之を貫く」と読み、論語の本章での「以」は前置詞ではなく接続詞で、”それで”の意。「之」は直前が動詞であることを示す記号で、意味内容を持たない。こういう読みにくい語順になったのは、「一」を強調するため倒置になっているから。
日本語に直すと大して変わらないが、原則的に主語-動詞-目的語のつもりで話したり聞いたりしている中国人にとっては、「ただ一つ!」と、駒場と本郷あたりにある某国立大学の応援歌の題を、大声でどやしつけられたようなビックリ感がある。
予貫一。(予は一を貫けり。/私は一つのことを貫いてきた。)
↓
予一以貫之。(予一以て之を貫く。/私は一つのことで、貫いてきた。)
論語の本章は、「一」とは何かが分かれば文意が判明する。「之」は無いものとして扱ってかまわない。「一」について注釈書では、さまざまな想像や個人の感想が記されている。以下引用するが、ほとんど愚にもつかない議論ばかりなので、引用部分は読み飛ばして下さい。
古注『論語集解義疏』
子曰く、非ざる也。予一を以て之を貫けり、と。
注。善きことには源泉があって、出来事には偶然がある。天下の人々はみな違った生き方をしているが、究極的には同じ所に従うものだ。
百たび考え抜いてその究極を知るのが、その源泉である。だから人々がもてはやす。ならばたくさん学ばなくても、源泉があれば全てが分かるのである。
付け足し。孔子様は、全てを貫く根本を仰った。子曰くうんぬんとは、人は孔子を多く学んだから多くを知っていると思い込み、世間のことを多く学んだから世間が分かると勘違いしていることを言う。だから孔子は子貢にそうではないと説明したのである。
対えて曰く然り、というのは、そのとおりです、ということである。子貢もまた勘違いして、孔子が多く学んだのだと言った。だから多くを知っているのでしょう、と言ったのである。
非ざる与、というのは、子貢は孔子が多く学ばないのにものを知っていると思いたくなかったのだ。だからさらに問い詰めて、孔子が多学者だと決めつけたのだ。ただし自信がなかったので、非ざる与、と疑問形で言ったのだ。
曰く非ざる也、と言い、予一えに以て之を貫く、と言ったのは、穴を開けるように貫いている、と言ったのである。まず「そうでない」と答え、それゆえ貫くことが多く学ばないで全てを知る源泉であると示したのである。つまり孔子が全てを知るのは、一つの善きことわりで万事を貫き通すから、万事は自然に分かるというのである。だから一でこれを貫く、と言ったのである。
注。善は全てを知ることがある。善には源泉がある、出来事には偶然があると言うのは、源泉が物事の始まりで、偶然は物事の終わりだからである。源泉は善のかしらである。だから善には源泉があると言うのである。出来事には終わりがある。だから出来事には偶然があると言うのである。
天下の人々が違う生き方をするというのは、偶然に出くわすことわりを言ったのである。生き方が違っても偶然には出くわすのではあるが、皆一つの所に帰って行くのである。百たび考えて源泉にたどり着くというのは、善に源泉があることわりを言ったのである。行きつく所の極致を言うのである。
人は百たび考えると言っても、源泉から出ないものはない。つまりみな同じく、善の一部を行うのである。知其うんぬんは、善は源泉を指し示す最高の道具だと言っているのである。だからほとんどの者は善について多く学んでも、源泉には至れない道理なのである。
長々と引用して恐縮だが、要は孔子は知の根源を知っているので、多く学ぶ必要はなかったのだと解し、「一」とはその根源を指している。
新注『論語集注』
この話は里仁篇にも出ている。里仁篇では言葉の実践を言ったが、本章では言葉そのものを知ることを言う。
謝良佐「聖人の道は偉大であるなあ。人は全てを見て全てを知ることは出来ない。せいぜい、多く学んで多く知るだけだ。しかし聖人ならどうして広く学ぶ必要があろうか。天が万物を形作るようなものだ。天は万物の根源素材を加工して、万物を生み出すのだ。だから孔子様は仰った。『予一えに以て之を貫く』と。『徳とは毛のようにささいだが、毛にも人の道がある。万物をみそなわす天には、声も臭いもない』と。究極の境地だなあ。」
尹焞「孔子は曽子に対しては、問う前に答えを言い、曽子も”はい”と言っただけだった。子貢のごときは、まずその疑いを言わせてから、その間違いを指摘した。子貢はどう頑張っても、曽子のようにはなれないのだ。二人の出来不出来は、これを見れば明らかではないか。」
私・朱子の個人的感想では、孔子様は子貢に対しては、しばしば言わせてから答える形を取っている。その他の弟子にはこういうことはしない。顔回・曽子以下の先生方と比べて、子貢の浅はかさを見ることが出来よう。
新注は、論語里仁篇15を引き合いに出す。つまり「一」とは「真心と思いやり」。
先生が言った。「参よ、私の道は一つのことで貫いているのだ」。曽子が言った。「はい」。先生は部屋を出た。門人が問うて言った。「何を言ったのか」。曽子が言った。「先生の道は、真心と思いやりだけだ」。
そして曽子は賢いので、孔子に問われて「はい」と答えたのみで、孔子の意図は言わなくても分かっているとする。しかし子貢はアホウなので、孔子が挑発して子貢に「そうじゃないのですか?」と言わせてから、孔子が教えたと解している。
「あいつはウスノロだ」と名指しで孔子に評された曽子は(論語先進篇17)、その学派が後世の帝政中国儒教になった。ゆえにそれに連なる狂信者の朱子とその引き立て役が、曽子を持ち上げ子貢をおとしめる動機は十分にある。
以上、儒者の注釈からは狂信から来るごますりと罵倒以外、何も分からなかった。
訳者の感想では、孔子は自分を「多く学んでそれを知る者」ではないと言った。つまり本の虫、ひょろひょろで実務に役立たずな学者ではないと言った。論語を読み通して見る限り、孔子の志は政治にあり、学問はその手段か趣味に過ぎない。「一」とは政治の事である。
なお「貫」の字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。部品の毌(カ音不明、藤堂上古音は貫と同)に”つらぬく”の意がある。詳細は論語語釈「貫」を参照。
論語:付記
論語の本章は、「也」の用法から後世の作文である可能性が高いのだが、それに目をつぶれば十分あり得る話で、史実でないと断定しがたい。司馬遷は、論語の本章を、孔子一行が陳・蔡で兵糧攻めに遭った時のこととする。
行くを得ず。糧を絶つ。従者病みて、能く興(た)つ莫し。孔子、講誦弦歌して衰えず。子路、愠(うら)み、見えて曰く、「君子も亦窮すること有るか。」孔子曰く、「君子、固より窮す、小人窮すれば、斯(すなわ)ち濫る。」子貢色を作(な)す。孔子曰く、「賜や、爾は予を以て多く学びて之を識(しる)す者と為すか。」曰く、「然り、非ざるか。」孔子曰く、「非ざるなり。予は一を以て之を貫けり。」(『史記』孔子世家)
つまり空腹の余り怒鳴りだした子路の話、つまり論語の前章の続きと解し、「君子は追い詰められて当然じゃよ?」といけしゃあしゃあと答えた孔子の言葉を聞いて、普段快闊な子貢もさすがに腹を立てた。そこで孔子が「わしをもの知りジジイとでも思っているのか」と言った。
孔子一行枕を並べ飢え死に寸前、という場面だからこそなのだが、陳・蔡国で後ろ暗い政治工作を行ったのは当の孔子であり、窮地に陥った原因も「先生あなたのせいじゃないですか!」と子貢も怒ったわけ。自分も手を貸しておきながらヘンだが、腹が減ってはやむを得ない。
孔子はこう言っているのだ。「お前の手も血に汚れている。わしについて来た以上、討ち死には覚悟の上じゃろう。闘士は革命に倒れるのが本望ではないか。それともあれか、私がおとなしいばかりのひょろひょろ学者とでも思っていたのかね。今さら何を言っている。」
お上品な学問やら、知の究極やらの話ではないし、日本人に無関係でもない。
(乃木希典「復命書」明治三十九年一月十四日)
我々の多くは、旅順で前のめりになって亡くなった兵隊さんやその戦友達の子孫だ。その「万歳を喚呼し欣然として瞑目」のおかげで今を生きている。忘れているのはかまわないが、無かったことにするなら思い上がりだし、知能的にも人間的にも如何わしいと言えるだろう。
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