中国四千年というウソ
閲覧者諸賢。謹んで申し上ぐ。漢文の読めない者の中国語りは、話半分になさるがよい。
中国四千年と巷で言う。それが定着したのは昭和の後半に、とある袋ラーメン屋がTVコマーシャルで流行らせたからだ。実際にはそんなに長くないが、王朝交替は24回ほど、帝政中国はほぼ二千年続いた。だがそれでも、統一帝国から統一帝国へと代替わりした例は少ない。
つまり秦漢、漢新、新漢、隋唐、元明、明清の六度の交替のみ。王朝交替しつつ連綿と続いた中華文明というのが、この意味でウソになる。文字のない太古、「夏」王朝などなかったし、途中から文字を作った殷王朝は小王国に過ぎず、周王朝は諸侯組合の組合長に過ぎない。
清→民国→人民共和国を勘定に入れても良さそうだが、中華民国は群雄割拠で、統一国家とは言えない。だから大総統の仕事は外国から金を借り各軍閥に撒くことだった。人がよくて借りられなかった徐世昌は追放された。その後は政府が分裂し、共産党支配地が独立していた。
また前近代の分裂期では民族も言語もぐちゃぐちゃになり、現代まで残った文明の精華は漢字ぐらいのもの。儒教や道教も命脈を保ったように見えるが、王朝ごとに再解釈され、大きく姿を変えて現伝の形になった。四千年前の中国人が、ラーメン*食ってたわけではないのだ。
対して統一帝国から統一帝国へと、中国史が引き継がれた事例には特徴がある。前の王朝が揃って、暴君や暗君ぞろいの𠮷外王朝と呼ばれている点だ。無論、そう言い回ったのは後ろの王朝で、統一王朝に謀反を起こして滅ぼした後ろめたさを、世間に誤魔化す常套手段だった。
唯一の例外が漢新交替で、前漢の悪口を書く時間的な余裕がないまま新が滅び、前漢帝室の末裔を大義名分に新しい王朝を興した後漢の光武帝は、新を興した王莽を徹底的に「バカで𠮷外で変態」と書かせる一方、前漢諸帝の蛮行は無いことにして済さねばならなかった。
だがそれ以外の一般例では、前王朝が統一帝国であるからには、可愛げを全く持たない中国人が、全国的にそれを支持したという厳然たる事実があった。要は食わせている限りは支持され、食わせられなくなったとたん、中国全土が蜂の巣をつ突いたように動乱状態になる。
新しい王朝の創業皇帝は、偶然によって至尊の位に登っただけで、元をただせば殺人暴行略奪を事とする、強盗団の極悪無比なる親玉に過ぎない。だから運良く初代皇帝に収まったとき、その理由を必ず前王朝になすりつけ、儒者を集めて「𠮷外国家だった」と書かせるのである。
そんな理由で楚王項羽、隋の煬帝は残忍この上ない暴君とされ、新の王莽は宗教狂い、元の皇帝はそれに加えて野蛮人、明の皇帝は怠惰で無能でヤク中で、宦官の言うがままだったとこき下ろされた。だが暴君も怠惰も無能も、どの王朝だろうと当たり前の皇帝像だった。
例外に見えるのは清朝だが、今はそれを語る余裕が無い。
以外の中華皇帝が悪く言われないのは、「暗君の𠮷外王朝を世のため人のため、ワシが滅ぼしてやったのだ」と言う動機のある統一皇帝が、王朝滅亡のすぐ後に現れなかったからだ。さらに分裂期の中国では内乱外寇により、旧統一帝国の正史をまとめる余裕がない場合も多い。
例えば有名な三国時代もその一つで、『後漢書』がまとめられたのは滅亡後約二世紀の南北朝時代。二百年間、中国人はただ生きるだけで精一杯で、とうていのんびりと旧王朝の評論などしている暇が無かったのだ。もっとも、数多い中国人の中には、早くに評論する者もいた。
しかし「これぞ正史!」という支持を集められるような、まとまった後漢の歴史書の成立は、やはり二百年の時が必要だった。さらに現伝『後漢書』の体裁が定まる南朝・梁の時代までには、なお百年の時間を要した。だがそのおかげで、後漢初代・光武帝は希代の名君になった。
いわく、君主には希な教養人で、武芸も達者だった。いわく、初恋を心に抱きながら、ついに即位後に実らせた純情な人だった。いわく、即位後も威張り返らず、郷里のおばさんたちに「あんたのような大人しい子が、皇帝陛下になるなんてねぇ」と言われて笑っていた、など。
二十一世紀の日本でも、こうした光武帝の微笑ましい話ばかりが取りあげられる。だが光武帝劉秀はそんな生やさしい男ではない。そうでなければ、殺し合いの革命戦争を、生き残っていける道理がない。史実の光武帝は暴君で、加えてたちの悪い偽善者でオカルトマニアだった。
史料としての『後漢書』に、疑わしい点がボロボロあるのはもちろんだ。中国のかっこ付き「正史」とはもとからそういうものだからだ。だがだからといって、たかが『後漢書』だろうと他の正史だろうと、読めもしない者が勝手なことを言ってよい理由にはならない。
中国史上の名君という評判は当てにならない。恵帝とは恵み深い名君を意味するが、晋の二代・恵帝はガマガエルが鳴くのを聞き、「あれは官のガマか、私のガマか。官なら俸禄をやれ」と命じた。かようにあまりに暗愚だったため、八王の乱を招いて自分と国を滅ぼした。
だが皇帝は暗愚な方が、官僚≒儒者にとっては都合が良い。暴君だと困るが、ただのおタワケなら役人どもは、やりたい放題に民から搾り取れるし、ワイロも取り放題、公権力も私物化し放題。笑いが止まらないのである。その意味で晋の恵帝は、「恵み深い」君主だった。
帝政期から現代に至るまで、中国には政治家はおらず、いてもただ一人だけ。皇帝か総統か首席のたぐいが、まれにそうなる。他の儒者や党幹部や役人は、政治家に見える利権タカリでしかない。自分がどれほどカッパぐかのみを求め、中国全体がこの先どうなる、を考えない。
エコロ至上主義者が大好きな言葉に、「共有地の悲劇」がある。共有地は誰もが収益を剥ぎ取りに掛かるから、あっと言う間に荒れ果てる、という理論だが、中国人にとって自分以外の一切は、親子兄弟孫祖父母含めて共有地で、一刻も早く収奪しないと枯れ果ててしまう。
ほぼワイロ取りとポエム書きしか能が無い中国の儒者官僚は、九分九厘は実家が地方の大地主で、佃戸(農奴)をコキ使い公権力の干渉を阻み半ば自立している。その息子で頭が小ましな連中が官僚になるのだが、出身ゆえに政治の機能不全を願った。でないと実家が取り潰される。
だから政治を機能させなければさせないほど、どんな暴君も「名君」と書かれた。
偽善者でオカルトマニアの光武帝
そこへ行くと光武帝はゴマの摺りがいがある親分だった。まず役人へのバラマキを繰り返した。次にまともなことを言った70過ぎの家臣を、平均寿命が30ごろの時代に半殺しの上、山奥へ飛ばして死に追いやったが、まともでない役人がワイロを取るのを取り締まらなかった。
是時帝方信讖,多以決定嫌疑。又酬賞少薄,天下不時安定。
…其後有詔會議靈臺所處,帝謂譚曰:「吾欲讖決之,何如?」譚默然良久,曰:「臣不讀讖。」帝問其故,譚復極言讖之非經。帝大怒曰:「桓譚非聖無法,將下斬之。」譚叩頭流血,良久乃得解。出為六安郡丞;意忽忽不樂,道病卒,時年七十餘。
光武帝は、虫が葉っぱをかじったら文字に見えた、などのオカルトな天の啓示に凝り、政治的決断をオカルトに頼ることが多かった。その代わり太っ腹なバラマキを繰り返したので、直に貰った役人も、口利きで中抜きした役人も、「名君におわす」「仁君でいらっしゃる」と褒めちぎり、次なるお貰いを期待したから、謀反を企む者がいなくなった。
…そののち、国立天文台*をどこに建てるかについて、光武帝が議郎給事中(無任所国務大臣)の桓譚に言った。「いつも通り天のお告げで決めようと思う。いかんか?」問われた桓譚はじっと口を閉ざしていたが、やがてこう言い出した。
「それがしはお告げを信じておりません。」「なぜじゃ。」「オカルトなぞしょせんインチキです。儒教の経典のどこにも、そんなことは書いてありません。」「何を抜かすか! 天のお告げを汚しおったな! オイ皆の者、こやつをすぐさま叩き斬れ!」
そう言って光武帝は桓譚の襟首を掴み、ガンガンと床に叩き付けて許しを乞わせた。額が破れて血が流れ、ようやく光武帝は許したが、代わりに桓譚を安徽の山奥、六安郡の知事に左遷した。その赴任途上で桓譚は死んだ。その時七十余りだったという。(『後漢書』桓譚伝13)
上これを好めば下これに習う(→論語憲問篇44)で、後漢の儒者と言えば誰も彼も偽善者で、表ではお互いに歯の浮くようなおべっかを言い、裏では悪口ばかり言い、そして互いに足を引っ張った。身内・仲間びいきが横行し、儒者≒役人のもくろみ通り、行政は機能不全に陥った。
そもそも光武帝が身内びいきの張本人で、それゆえに家臣の家庭を平気でブチ壊そうとした。
時帝姊湖陽公主新寡,帝與共論朝臣,微觀其意。主曰:「宋公威容德器,群臣莫及。」帝曰:「方且圖之。」後弘被引見,帝令主坐屏風後,因謂弘曰:「諺言貴易交,富易妻,人情乎?」弘曰:「臣聞貧賤之知不可忘,糟糠之妻不下堂。」帝顧謂主曰:「事不諧矣。」
この時光武帝の姉の湖陽公主は、夫に先立たれたばかりだった。姉をいたわるつもりで帝は公主の隣に座り、まるで通販カタログを眺めるように朝臣たちを品定めしながら、それとなく公主の望みを探ろうとした。
公主が言った。「宋弘どのはお顔だちも立派で、優れたお人柄じゃ。朝臣の誰も宋弘どのに及ばぬ。」そこまでしか言わなかったが、姉のなにやら鬼気迫る勢いに、帝はなだめるように言った。「分かりました姉上。一肌脱ぎましょう。」
そんなやりとりのあとで、光武帝は宋弘を呼び出した。帝の座る玉座の後ろにはついたてがあり、その後ろにはこっそり湖陽公主が座り、様子を窺っている。光武帝はとりとめの無い雑談を始めてから、おもむろに宋弘にカマをかけた。
「こういうことわざがあるそうな。出世したら友人を取り替え、金持ちになったら妻を取り替える、と。やはりそうするのが人情というものかのう。」
宋弘は毅然として言い返した。「わたくしめは別の話を聞いております。貧しく地位も無い頃の友人は忘れてはならない。若くして連れ添い、共に絞りかすやぬかで飢えをしのいだ妻は、どんなに出世しても正妻の地位から降ろしてはならない、と。」
宋弘が退出すると、帝は後ろを振り返って言った。「姉上、こりゃどうもダメですな。」(『後漢書』伏侯宋蔡馮趙牟韋伝28)
いわゆる「糟糠の妻」の故事だが、同じく毅然として言い返しながら、桓譚はなぶり殺され、宋弘はおとがめ無しだった。なぜか? 光武帝は姉がどう思うかを恐れたからだ。つまりは図々しい身内びいきである。この姉弟には他にも似たような話がある。
董宣字少平,陳留圉人也。
…後特徵為洛陽令。時湖陽公主蒼頭白日殺人,因匿主家,吏不能得。及主出行,而以奴驂乘,宣於夏門亭候之,乃駐車叩馬,以刀畫地,大言數主之失,叱奴下車,因格殺之。主即還宮訴帝,帝大怒,召宣,欲箠殺之。宣叩頭曰:「願乞一言而死。」帝曰:「欲何言?」宣曰:「陛下聖德中興,而縱奴殺良人,將何以理天下乎?臣不須箠,請得自殺。」即以頭擊楹,流血被面。帝令小黃門持之,使宣叩頭謝主,宣不從,彊使頓之,宣兩手據地,終不肯俯。主曰:「文叔為白衣時,臧亡匿死,吏不敢至門。今為天子,威不能行一令乎?」帝笑曰:「天子不與白衣同。」因敕彊項令出。賜錢三十萬,宣悉以班諸吏。由是搏擊豪彊,莫不震慄。京師號為「臥虎」。歌之曰:「枹鼓不鳴董少平。」
董宣、あざ名は少平、陳留郡の圉の出身である。
…役人としての名声を聞いた光武帝が、帝都洛陽の町奉行に任じた。ちょうどその頃、湖陽公主の奴隷頭が公主の権勢を背景に、白昼堂々と人殺しをし、宮城内にある公主の屋敷に逃げ込んだ。おまわりどもは、公主の権勢を恐れて踏み込まなかった。公主もそれを鼻に掛け、外出時にお供として馬車に添え乗りさせた。
だが董宣は夏門の番屋で公主一行を待ち構え、車を止め引き馬の鼻綱を縛った。董宣は抜刀して地面に線を引き、「この先はお通しできません」と頑張り、大声で公主の罪状を数え上げ、「降りて来い!」と殺人犯を引きずり下ろし、法に従って処刑した。
公主はすぐさま宮城に引き返し、弟の光武帝に泣きついた。光武帝は真っ赤になって怒り、董宣を呼びつけると、「皆の者、こ奴を箠(節を生かしたまま強化した竹の棒)で殴刂殺せ!」とわめいた。それを聞いて董宣は土下座をしつつ言った。
「では死ぬ前に、ひとこと言わせて頂きましょう。」「何じゃ!」
「陛下はせっかく漢帝国を復興されながら、奴隷が罪なき市民を殺したのを罰されようともなさらない。それで天下が保ちますかな? それがしには棒叩きにされるような謂われはございません。自分で柱に頭をぶつけて死ぬと致しましょう。おさらばでござる。」
言い終えると宮殿の柱に頭から突進し、割れた頭から血が流れ出て顔を覆った。光武帝は宦官を呼んで、ズルズルと公主の前まで血だらけの董宣を引きずって来させた。「公主さまに頭を下げよ!」と光武帝の意を受けた宦官が怒鳴る。ところが董宣が従わない。
光武帝が「力尽くで押さえつけろ!」と命じると、董宣は腕を突っ張って、それでも頭を下げなかった。これに興をそそられたのか、公主が言った。
「オホホホホ。文叔(光武帝の号)や、お前も昔、我が家に凶状持ちを何人かかくまっておったが、おまわりどもはたかが平民のお前を恐れて、誰も踏み込んで来ぬじゃった。じゃが今はみかどになったのじゃ、こんな小役人ひとりの頭、下げさせられぬのかえ?」
光武帝は笑って言った。「仰る通りです、姉上。確かにみかどですからな、やってみせましょう。」言い終えるとサラサラと書き、判をついた。「勅令。董宣に頭を下げることを命ずる。御名御璽」示された董宣がやむなく頭を下げると、「もうよい。下がれ。」
が、下がろうとする董宣をふと呼び止め、「みかどじゃからな、タダとは言わん。頭の下げ賃じゃ。受け取れ」と三十万銭(30万円と解してよい)を渡した。董宣は宮門を出ると、心配顔で待ち構えていた部下どもに、「やる。」と言って銭を全部撒いてしまった。
この噂が轟いて、帝都のヤクザも権勢家も、みな董宣を「身構えたトラだ」と恐れて犯罪を手控えるようになった。子供は「董宣閣下はお偉いな、”御用御用”の声も聞かない」とはやし歌った。(『後漢書』酷吏伝3)
「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。誉めるべき家臣なら、始めから誉めて褒美を渡すのがまともな君主というものだ。
光武帝が怒って見せたのは、よい弟を演じる偽善で、たったの三十万銭渡したのは、よい君主を演じる偽善である。そして書類さえ整っていれば何をしてもよい、という役人根性を自ら演じた。これは美談では決してない。「役人の役人による役人のための帝国」の公認だった。
前漢の高祖劉邦と比較しよう。両人とも素手で人を殴刂殺せる筋肉ダルマだが、高祖なら腹を立てたらすぐさま自分で殴りかかっており、家臣を呼んでどうこうと、めんどくさいことをしない。武将としてなら光武帝の方が優れているが、劉邦は演技そのものをいやがった。
光武帝劉秀の役者根性は、この一つとっても明らかだ。
偽善を競って横領にふける
上がこうでは、下の役人も偽善と身内びいきがひどく、結果後漢から「行政」が消失した。
嗇夫孫性私賦民錢,市衣以進其父,父得而怒曰:「有君如是,何忍欺之!」促歸伏罪。性慚懼,詣閤持衣自首。祐屏左右問其故,性具談父言。祐曰:「掾以親故,受污穢之名,所謂『觀過斯知人矣』。」使歸謝其父,還以衣遺之。
代官の孫性という者が、勝手に庶民から銭を取り立て、市場の上着屋から上着を奪い取って父親に進呈した。ところが父親、「立派な知事様の下役でありながら、お前は何という事を仕出かしたのだ! さっさと自首せい。」
孫性は震え上がって、奪い取った上着を持って、おそるおそる知事の官舎に出向いて自首した。知事の呉裕がまわりについたてを巡らしてやると、孫性は父の言う通りを伝えた。
呉裕「あらぬ稼ぎをしたのは親のため、あえて汚名を着ようとしたのだな。論語に”間違いのやりかたで人が分かる”(論語里仁篇7)というのはこのことだ。」そのまま無罪放免として家に帰し、奪い取った上着もそのまま持たせてやった。(『後漢書』呉裕伝3)
『後漢書』は呉裕を「立派な知事」として描いており、それは当時の価値観を示す。だが悪代官が権力をかさに、庶民から奪い取った銭も上着も、元の持ち主に返させていないし、謝らせもしていない。これが後漢時代の「善政」だ。善悪の基準は役人の都合でしかない。
同じ古代帝国でも、ローマ帝国は市民に食糧の保証と皇帝への直訴権を与えていた。前後の漢帝国は法令上、奴隷身分を除く全成人男性が士分だったが、そのような権利は何も無い。春秋時代なら貴族だったはずの者が、納税や従軍の義務だけ課される、哀れな存在に過ぎない。
独裁政権の唯一の利点は、権力者がその気になりさえすれば、悪官吏を即座に退治できることだ。だが悪代官を許した上に追銭までやる黄門様が出る世の中は、庶民にとって地獄に他ならない。そして当の黄門様が、官吏仲間のなれ合いで自分の腹を肥やすとなればなおさらだ。
そもそも呉裕は、「無欲な孝行者」との名目で役人に取り立てられた。それを当人は心得ていたらしく、かかる偽善を繰り返して評判を積み重ねた。悪名高い大将軍の梁冀に乞われ、側近に就任したのも、その評判を利用したい梁冀の人気取りだった。そして98の長寿を全うした。
読者諸賢、とくとお考え候え。江戸の三方一両損伝説は、一番権力の強いお奉行も一両損しているからもてはやされた。呉裕はビタ一文出さず、悪代官が奪った金や上着は庶民の負担、そして代官を無罪放免。得をしたのは支持者を得た呉裕と悪代官で、民間人は泣き寝入り。
訳者は日本史に暗く「奉行」の命名由来を知らないが、漢語的には”職務を神聖に思ってゆるがせにしない”が解となる。三方お奉行が出た江戸の「奉公」の概念に近い。小僧をいじめた大資本の造り酒屋は、怨まれて闇夜の大桶に汚穢を入れられたら家が潰れるしかない。
社会的弱者をいじめない。これが「公共」というものだ。
だが後漢には、「公共」の概念が無い。日本の戦国武者そっくりだ。なお関ヶ原の裏切り者として名を残した小早川秀秋は別名を小早川金吾と言うが、金吾とは漢の執金吾郎という官名が元であり、左衛門督のカッコつけた言い方。だがそもそも執金吾郎が偽善のカタマリだ。
執金吾郎の執とは”腕にとる”の意で、金吾とは石突きに金メッキのかねを施した梧=アオギリの棒。郎とは皇帝の殿中に仕える文武官を言う。アオギリの棒で突いたり叩いたりすれば折れるに決まっており、要するに寺の内装と同じく見る者を脅かすためのハッタリだ。
棒術の有段者として、そう断言できる。
後漢の社会は少なくとも明治から現在に至る日本の漢学界と同様で、不勉強だが運と宣伝のうまいものが要職を占める。論語各章の解説でさんざん紹介したが、後漢きっての大学者と言われる馬融・鄭玄あたりの頭脳も、子供のわがままのようなことしか言えない幼稚さだった。
古代だから幼稚に見えるのではない。孔子と同時代人、ブッダを幼稚と誰が言えよう。それはもちろん孔子も同じだ。自分の福禄寿を満たすためなら、うそデタラメも平気で言う、しかも人を指導する地位の者がそれを言う、それが伝統中国の政権というものだ。
しかも悪い?ことに、親玉の光武帝が儒教を偽善的に褒めちぎったから、他学派はすっかり勢いを失い、官吏の登用も儒教的お勉強の度合いを測って推薦する方法になった。これは恐るべき事で、実務の出来る者は出世できず、偽善と贈賄とゴマスリが得意な者しか浮かばれない。
この偽善ごっこに頭を抱えた章帝は言った。
朕以無德,奉承大業,夙夜慄慄,不敢荒寧。而災異仍見,與政相應。朕既不明,涉道日寡;又選舉乖實,俗吏傷人,官職秏亂,刑罰不中,可不憂與!
…夫鄉舉里選,必累功勞。今刺史、守相不明真偽,茂才、孝廉歲以百數,既非能顯,而當授之政事,甚無謂也。
朕は無能にかかわらず、皇帝という重職を背負い、日夜「これでいいのか」とビクビクしておる。ちょっとでもつ突けば破裂する腫れ物を気遣うように、毎日生きておるのだ。それにもかかわらず今の世は、災害が頻発し、政界もまた荒れ果てている。これも朕がだらしないからで、修行が足りんからだと白状する。
とりわけ心配なのは、役人の採用で、賢く有能で善良な者を採るはずが、全然そうでない者ばかりが採用される。役人どもは仕事に励まず、ワイロを取るなど庶民をいじめ、官職は目的を果たさず、刑事裁判もデタラメだ。朕はほとほと悩んでおるのだ!
…だから今後役人の採用は、仕事の実績がある者に限る。こんにち、各地の長官はいかがわしい者ばかり推薦するし、孝行者や寡欲者を装って役人になる者は、年に百人に及ぶが、別にこれと言って才能も無く、仕事をさせてみるとデタラメばかりで、どう評したものか言葉に悩むほどだ。(『後漢書』章帝紀14)
だが章帝が世を去ると元の木阿弥になった。
今學者蓋少,遠方尤甚。博士倚席不講,儒者競論浮麗,忘謇謇之忠,習諓諓之辭。
樊準(が上奏して言った。)「現代はまじめに勉強する者がほとんどおらず、平気で行儀外れのことを仕出かす者がはなはだ多うございます。博士は地位にふんぞり返って講義もせず、儒者は口げんかばかりやらかして口先に精神が浮ついております。つまり寡黙なまじめ人間になろうとせず、ガヤガヤとうるさい口車ばかり練習しているのです。」(『後漢書』樊宏伝)
結果後漢は自ら滅んだ。やがて皇帝さえ金に不自由し、三国志物語の始めごろに出てくる霊帝は、堂々と「小遣いが欲しい」と世間に言い、売官の店を開いて大繁盛した。宰相の位を買った男が世間から、「銅臭がする」と嫌われたのは故事成句になっている(『後漢書』崔駰伝)。
「其富者則先入錢,貧者到官而後倍輸。」=”金持ちはさっさと官職を買え。手元に金が無い貧乏人は、ツケでもいいから官職を買え。ただし倍返しな”と皇帝が言うようでは、その社会はもう終わっている。たとえ学習環境が整ったとしても、まじめに勉強する動機を人々から奪う。
後漢が滅んで息を吹き返した道家の一人、葛洪は言う。
靈獻之世,閹官用事,群奸秉權,危害忠良。臺閣失選用於上,州郡輕貢舉於下。夫選用失於上,則牧守非其人矣;貢舉輕於下,則秀孝不得賢矣。故時人語曰:「舉秀才,不知書;察孝廉,父別居。寒素清白濁如泥,高第良將怯如雞。」
後漢の霊帝から献帝にかけて、宦官が政治権力を独占し、それに乗じた悪党どもが政権を奪い合い、まじめな人間ほど刑殺の憂き目に遭った。高官が推薦する役人候補はろくでなしで、地方長官はまじめな推薦をしなくなった。採用がデタラメだから、やがて地方長官がろくでなしばかりになり、地方長官が不真面目だから、採用がデタラメになったのである。
だから当時の人は言った。「もの知りという事で役人に採ったら、なんと文盲だった。孝行者で無欲だからと役人に採ったら。老いた父親を放置して死ぬに任せていた。道徳を売り出して役人になった者はワイロ取りばかりで、試験で選んだはずの文武官は、ニワトリみたいにうろたえるばかりだ。」(『抱朴子』審挙7)
ふらちな後漢儒
中国の古代帝国には、博士官という職があって、皇帝の顧問官と大学教授を兼ねた。前漢まではこの職は重んじられ、今文学派と古文学派の対立も、結局は博士官のポストを狙っての利権争奪だった。だが新を経て後漢になると、博士官は学界の中心人物と見なされなくなった。
議郎や東観の職員といった、新設の顧問官や学術官が重んじられたのはそれゆえだが、おそらくは博士官が皇帝の顧問官や大学教授として、役立たずになっていたから皇帝や世間に見限られたのだろう。後漢の儒者と言えば馬融と鄭玄だが、二人とも博士官にはなっていない。
博士官との呼称はどうあれ、学者の仕事とは突き詰めれば、未知の「AはBである」という命題を発見することにあり、技術の開発もそう言い換えられる。ただ技術の場合は成果が出れば理由は問われないが、技術以外の場合は必ず、命題を主張する根拠を言わねばならない。
孔子はそれを心得ていた。
子貢「政治の要点とは?」
孔子「十分食わせ、十分軍備を整えておけば、民が信用することだ。」
子貢「どれか省くとしたら?」孔子「軍備だな。」
子貢「さらに省くとしたら?」孔子「食糧だな。」
子貢「え? 餓死しちゃいますよ。」
孔子「いいかよく聞け。昔から餓死はあったから、いざとなれば民も覚悟するが、その信用を失ったら、政治どころじゃないぞ。民とはそんな可憐な生き物ではない。一揆や反乱で首を落とされたくなかったら、よぉく覚悟しておくんだな!」(論語顔淵篇7)
孔子と同時代のインドの賢者、ブッダもそれを心得ていた。
修行僧たちよ「また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察できるのか?」と、もしだれかに問われたならば、「できる」と答えなければならない。どうしてであるか? 「およそ苦しみが生ずるのは、全て素因に縁って起こるのである」というのが、一つの観察法である。「しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない」というのが第二の観察法である。(中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫)
戦国の儒者も心得ていた。
君子曰:學不可以已。青、取之於藍,而青於藍;冰、水為之,而寒於水。木直中繩,輮以為輪,其曲中規,雖有槁暴,不復挺者,輮使之然也。故木受繩則直,金就礪則利,君子博學而日參省乎己,則智明而行無過矣。
世の君子は言う。学問は途中で止めてはならないと。途中で止めないからこそ、青の染料は藍より取り出しながら藍より青い。氷は自ら出来るが水より冷たい。材木は墨縄を当ててノコ挽きするから真っ直ぐに整い、タガをはめるから車の輪にもなる。
それはコンパスを引いた通りにまん丸になる。ひとたびタガの通りに丸い形が仕上がると、タガを外して天日にさらしても、決して真っ直ぐにはもどらないのは、タガの働きによるのだ。
だから材木は墨縄によって真っ直ぐになり、刃物は研ぐことによって鋭くなり、君子は学ぶことによって毎日反省し、その結果知恵が開けて行いが正しくなるのだ。(『荀子』勧学1)
ところが後漢儒は馬融も鄭玄も、自説に根拠を全然言わない。言わないだけなら相手にしなければいいはずが、どういうわけか後漢の社会では、儒者の個人的感想が宇宙的な真理と混同された。それも当たっているならまだいいが、見当外れのことを書き連ねている。
例えば上からものを投げれば落ちるといった、物理法則やそれに準じるこの世のからくりすら、平然と無視するならもの知らずにも程があるし、そんな当たり前の事も理解できないほどの、知的低劣と断じざるを得ない。そうした破るべからざることわりの一つが文法だ。
中国語は古代から今に至るまで、主語-述語の語順だし、太古を除き修飾語-被修飾語の順だ。格変化も助詞も無い中国語では、語順をデタラメにしたらもう正しく読み取れない。ところが後漢儒の大家である鄭玄は、論語里仁篇1の注で、平気でこの原則を踏みにじっている。
子曰里仁為美註鄭𤣥曰里者民之所居也居於仁者之里是為善也擇不處仁焉得智註鄭𤣥曰求善居而不處仁者之里不得為有智也
原文。「子曰里仁為美」。
注釈。鄭玄「里とは民が住まう場所だ。仁者の里に住むのは、良い事だと書いてある。」
原文。「擇不處仁焉得智」。
注釈。鄭玄「善を求めていながら、仁者の里に住まないようでは、知恵があるとは言えないのだ。」(『論語集解義疏』)
「里仁」が二文字で句を成すなら、”里の仁or里は仁or里と仁”でしかあり得ないのだが、勝手に”仁(者)の里”と言い張った。「この人、脳に障害でもあるんだろうか」と真剣に考え込んでしまう頭の悪さだが、実は当人至って正気で、ただ売名のために出任せを言い張っただけ。
前漢の口語では、たしかに被修飾語→修飾語に見える例はある。
夫獵,追殺獸兔者狗也,而發蹤指示獸處者人也。今諸君徒能得走獸耳,功狗也。至如蕭何,發蹤指示,功人也。
高祖劉邦「狩りを考えて見よ。逃げる獲物を仕留めるのは猟犬だが、足跡を探り当てて”それ行け!”と犬を放つのは人だ。諸君は犬の役目を果たしたに過ぎない。だから犬にふさわしい褒美でどこが悪い。逃げる項羽を追い詰めて諸君を放ったのは蕭何だ。犬より人の褒美が多くて当たり前であろう。」(『史記』蕭相世家)
「功狗也」「功人也」は、”その功績こそ、犬/人である”との意だが、”である”の意での「也」が春秋時代に見られないように、孔子より三世紀以上のちの口語文法を、史実として読む論語の章に当てはめるのは無理がある。
しかもこの例で被修飾語→修飾語に見えてしまうのは、「功狗」「功人」が修飾関係ではなく主述関係だからで、「吾食」を「吾(われ)食う」と読んで”私は食べる”と解して何ら問題が無いように、「功は狗なり」「功は人なり」と読んで何ら問題が無い。
現代北京語では英語のbe動詞にあたる語は省略せず、その代わり句末の断定の辞を必要としない。すなわちこの部分を現代北京語に直せば「功是狗」「功是人」となる。だが世界の言語の中には格変化を用いることでbe動詞に当たる語を用いずに済ます例もある。例えばロシア語の”これはモスクワです”Это Москва.など。
対して中国語の語の並びは甲骨文から現在に至るまで西欧語に近いが、周以降は格変化が徐々に消失したため、主述関係と修飾関係の区別が漢字の文字列だけでは分からなくなってしまった。しかも「狗」「人」に限らず漢語は変化無く名詞でも形容詞でも動詞でも副詞でもありうる。同じく名詞でも、「狗」は”イヌ”でも”イヌのようなさま”でも”イヌにふさわしいもの”でもあり得る。鄭玄はこれらに悪乗りしたのである。
ちなみにこの手のうさんくさい漢語は日本史にもあって、江戸大名が領地から江戸に出ることを出府という。漢語文法的にはむしろ江戸を出るの方が妥当なのだが、にの例を中国漢文には見ないから、中国儒者のデタラメに頭をやられた江戸儒者がこしらえた、和製漢語の一つだ。
同様のデタラメは、もう一人の後漢儒の大家・馬融が、論語陽貨篇1でやらかしている。
註馬融曰言孔子不仕是懐寶也知國不治而不為政是迷邦也
馬融「孔子が陽虎に仕えなかった理由は、心に宝を抱いていたからだ。また、政治がもうどうしようも無いことを知って政治に携わらなかったのは、国が迷走していたからだ。」(『論語集解義疏』)
こう書いた馬融は、下掲のように他の箇所では孔子が政治に携わろうとした、と書きながら、ここだけ”宝を抱いていたから携わらなかった”とテケトーなことを書いている。政治に関わりたがらない作用があるはずの「宝」が、他の章では発動しないのを何と説明するのだろうか。
註馬融曰韞藏也匵匱也藏諸匵中也沽賣也得善賈寜賣之耶
馬融「韞とは仕舞い込むことだ。匵とは宝箱のことだ。宝箱の中に自分を仕舞い込むことを言ったのだ。沽とは売ることだ。よいアキンドが来たら、どうして売らないでおこうか、と言ったのだ。」(『論語集解義疏』子罕篇15)
「迷邦」であると知りながら、陽貨篇1でだけ政治と距離を置いたのはなぜなのか。儒者が持ち上げる通り孔子が聖人なら、乱れた国でも即座に上から下までおりこうさんに出来るはずだが。言っているそばからインチキがバレても気にしていない。
後漢の崩壊期に生きた鄭玄は、生涯隠者のような生活を送ったが、それでも名を売ることには熱心だった。後漢の安定期に生きた馬融は、明確に金儲けででたらめを言っている。帝国国教の解釈権を独占することで、弟子入り料や職の口利き料を、ガッポガッポと取ったのだ。
『後漢書』を「馬融」で検索すると、「その引きで出世した」という話が複数出て来る。これが習い性となって、中国の儒者は所説に根拠を言わないのが当然になった。弟子も読者もひたすら有り難そうに真に受けるしかなくなり、その結果学問の進歩は古代で途絶えた。
宋代の新儒教も同様で、やはり根拠を言わないか、如何わしいオカルトを語って煙に巻くばかりだった。さすがにこれはおかしいと、清儒が言い出して考証学が流行ったが、円周率を「径一周三」で済ませていたからには、論理的整合性より言い出した者の地位が優先した。
ルイセンコ同様、独裁国家の学問には、しょせん限界があるのだろう。
救いのない中国とその同類
それにしても霊帝が「ツケは倍返し」と言い放った背景には、官職に就けばワイロですぐ取り返せるだろうという、後漢帝室の「常識」がある。ワイロを悪と思わない皇帝は、儒者官僚にとって良い皇帝だ。だがワイロのツケは下へ下へと行く。怒った民衆は黄巾の乱で応えた。
乱と言い条、民と国との戦争である。まずいことに前漢武帝以降、漢には国軍が無い。司令官の大将軍は皇帝の家内使用人で、それゆえ戦費は皇帝の私財からの持ち出しになる(論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」)。だが戦争ほど金のかかる浪費は無い。
だからもちろん皇帝の銭では足りず現地で略奪した。後漢社会は崩壊した。
なんだ霊帝か、むしろ三国志の話じゃないかと言われそうだが、論語に偉そうなデタラメをべらべらと書き込んだ自他称大学者、鄭玄の活躍は霊帝の時代である。皇帝がバカなら儒者もろくでなし。後漢は宦官が悪かったと言われるが、官途にある者、皆悪党だったのだ。
孔子は古代人らしからぬ合理性で、高々とそびえ立った。その光を受け継ぐ儒者は、前漢までは確かにいた。新が滅んだ頃、中国は互いに子を取り替え食らう地獄絵図だったが、まじめな儒者だとわかると、飢えた暴徒の群れでさえ、遠慮して襲わなかった(論語先進篇8余話「花咲か爺さん)。
実は鄭玄にも似たような伝説があるが(『後漢書』張曹鄭伝)、赤眉軍に遠慮された無名の包咸と違って、鄭玄がすでに天下の有名人だったからであり、黄巾軍がただの強盗団でなく、世直しと王朝交代を目指す宗教結社だったからだ。鄭玄が立派な儒者だったからではない。
立派な儒者を根絶やしにしたのは他でもない。後漢開祖の光武帝である。その理由が救われない。王莽が作り出した、三十年戦争並みに人口が1/3に減った地獄を、偽善とオカルトで鎮めたからだ。鎮め得たのはただの偶然だが、統一帝国創業の成功が誰の口をも閉ざさせた。
閲覧者諸賢、思ってもみられよ。維新に成功した明治帝政が「〒冫丿-は神様じゃ」というオカルトを公認し、内村鑑三不敬事件のように社会に強要した結果、アメリカと戦争するなどという𠮷外沙汰を止める、まともな言説を全て封じた。後漢を想像するのはそう難しくない。
人は持つ力に応じた責任がある、のは、日中ともに帝国の役人にはお笑いぐさなのだろう。
かつてキューバ危機の際、ソ連潜水艦の副長アルヒーポフ中佐は命がけで核発射命令を阻止し、ソ連警戒網がアメリカの核攻撃を誤報した時、当直のペトロフ中佐は命がけで報復攻撃発動を阻止した。この奇跡がなかったら、地上の生き物は一匹残らず焼き殺されていただろう。
良識が地球を救いはしても、役人根性や人をバカにした宣伝文句が救いはしない。
コメント
帝笑曰:「天子不與白衣同。」因敕彊項令出。賜錢三十萬,宣悉以班諸吏。
光武が姉の言葉に笑って返答し、董宣を釈放し、銭を賜り、董宣はそれを分け与えた
董宣謝ってないのでは?
因敕彊項令出。みことのりによりてうなづくをしいていでしむ。